第3話:女帝 ― 琥珀の標本とプラスチックの庭園 ― ①
紫の荒野は、ある一点を境にして唐突に途絶えていた。
荒れ果てた地平線の先に現れたのは、世界の切り落とされた断面のような――暴力的なまでの色彩の氾濫だった。
ゆりえは、足を止めた。
がま口の重みが、肩の骨に残っている。
次の一歩で、空気が変わるのが分かった。
艶のある甘さ。平たい香り。
その上から、冷たい消毒液が、上書きしてくる。
踏み越えた瞬間、足元が耳慣れない乾燥した音を立てた。
キュッ、キュッ。
「……なに、ここ」
音という概念が、薄い。
無音じゃない。薄すぎて、気持ちが悪い。
その代わりに、足音だけが“残って”しまう。鼓膜の裏で、きしむ。
ゆりえは自身の足元を見下ろして息を呑んだ。
地面は土でも砂でもなかった。
光を過剰に跳ね返す、滑らかなプラスチックの平原。
継ぎ目のない極彩色の樹脂が、どこまでも平坦に世界を塗り潰している。
一歩、踏み出す。
――滑る。
靴底が、ほんの数ミリ、勝手に逃げた。
慌てて踏ん張った瞬間、足首の内側がピリッと焼ける。
静電気。肌の表面だけを刺す痛み。
(病院の床だ)
(あの、光ってるやつ。転んだら怒られるやつ)
記憶が匂いより先に、背中を冷やした。
見渡す限りの庭園には、狂い咲いたような深紅の薔薇が溢れていた。
だが、その花弁は――どれほど風を待ってもそよがない。
指で触れれば、生物の柔らかさではなく、硬質なビニールの弾力がゆりえの手を拒絶した。
薔薇の茎や葉の側面には、工場で成形された際に残されたのだろう「型の継ぎ目」。
細く鋭い筋となって走っている。
葉の一枚一枚にまで精巧な脈が刻まれている。
そこには樹液の代わりに、冷たい透明な樹脂が、血液の固まりのように充填されていた。
「悪趣味なドールハウスね。それとも、一生出られない高級な無機室かしら?」
メルミが鼻を鳴らし、爪を立てることもできないほど滑らかなプラスチックの芝生の上を、滑るように歩く。
彼女の黄金の毛並みにこびりついていた白砂の泥が、汚れ一つない鮮やかな緑の地面にポタポタと滴り落ちた。
それは、この「静止した世界」において唯一の不潔な異物であり、同時に――ここが嘘であることを告発する、生々しい傷跡みたいでもあった。
ぽた、の音さえ、薄い。
代わりに“貼りつく感覚”だけが残る。
ゆりえの視界の端で、蜂蜜色の小さな粒が転がっていた。
ガラス玉みたいに綺麗で――綺麗すぎる。
ゆりえが避けきれず、つま先で触れた。
キン、と冷える。
靴底が、吸われる。
一瞬だけ、足が床に“保存”されそうになって、心臓が跳ねた。
「ゆり、踏むな!」
メルミの声が低い。
叱るより先に、釘を打つ声。
「それ、くっつくわよ。動けなくなる匂いがする」
断定じゃないのに、身体が先に信じた。
ゆりえは足を引き剥がし、軽くよろけた。
がま口のストラップが肩に食い込み、転ぶのを止める。
匂いが濃い。
甘い。噎せ返るほど濃厚で、それでいて奥行きがない造花の香り。
その上から、冷徹な消毒液の匂いが強引に塗り潰してくる。
吸い込むたび、肺の奥が凍る。
漂白された白いシーツ。
窓のない廊下。
枕元で鳴り続けていた、終わりのない電子的な脈拍音。
思い出じゃない。
反射だ。
匂いが先に、背筋を掴む。
「メルミ、見て。池があるよ」
庭園の中央には、透き通った水槽を沈めたような、四角い池があった。
だが、ゆりえがその縁に膝をついても、水面に波紋が広がることはない。
池を満たしているのは液体ではなく、硬化した透明な合成樹脂だった。
池の中を泳ぐ金魚は、尾鰭を優雅に広げた瞬間のまま、厚い樹脂の層の中に閉じ込められていた。
金魚の口からこぼれた気泡さえも、真珠のような球体のまま虚空で静止している。
それは泳いでいるのではない。
永遠という名の無酸素室に縫い付けられた、無惨なほどに美しい「標本」だった。
「動かないの。……全然、死んでないみたいに、動かないの」
ゆりえが、その偽物の水面に指を触れようとした、その時だった。
カラン。
静寂を切り裂くように、硬い、宝石が床に落ちるような音が庭園の奥から響いた。
同時に、さっきの蜂蜜色が、もうひと粒、転がってくる。
床の上で、綺麗な音だけを立てて。
「誰……?」
庭園の最奥。
プラスチックの蔦が、生き物の血管みたいに不気味に絡みつく巨大な玉座に、彼女は座っていた。
豊満な身体を、重厚なベルベットのドレスで包み込んだ女帝。
ドレスの裾はプラスチックの地面を広く覆い、その布地さえもが、触れれば静電気で肌を焼くような、人工的な光沢を放っている。
彼女の頭上には、自ら光を放つ十二の星が輝く冠が戴かれ、その慈愛に満ちた微笑みは、この世界のあらゆる苦痛を、私がお引き受けしましょうと囁いているかのようだった。
――だが。
その神々しい顔には、あるべきはずの瞳がなかった。
まぶたの下にあるはずの、世界を観測するための器官は失われ、そこには深い闇の空洞が、ただぽっかりと、忘却された洞窟のように開いている。
女帝はその空っぽの眼窩から、絶え間なく大粒の涙を零し続けていた。
カラン、カシャン、カラン。
地面に落ちた涙は、空気に触れた瞬間に急速に温度を失い、透き通った蜂蜜色の琥珀へと姿を変えていく。
落ちるのが速い。
温度が奪われるのが速い。
“固まる”のが、速い。
女帝は、ゆりえたちが持ち込んだ足元の泥を見ることも、その混乱に触れることもせず、ただその空洞から、この庭園をさらに美しく、さらに動かなくするための「愛」という名の樹脂を流し続けていた。
メルミが毛を逆立て、低く喉を鳴らした。
「あら、ご挨拶ね。あんなに泣かれては、こちらの三半規管まで湿気でやられてしまうわ」
「感情の垂れ流しは、一番の公害だと思わない?」
女帝はゆっくりと、ゆりえの方へその「見えない顔」を向けた。
瞳がないからこそ、その向けられた顔は、視覚というフィルターを通さず、ゆりえの心の奥底にある、最も柔らかく、最も怯えている部分を、見えない触手で探り当てるように正確に射抜いていた。
ゆりえは、がま口のストラップが肩に食い込むほど強く握りしめた。
がま口の中にある、あの不快で、生温かいザクロの泥。
それが、このあまりにも清潔で、あまりにも動かない楽園の中で、異様な熱を持ってドクン、ドクンと脈打っているのを、ゆりえははっきりと感じていた。
――頬の産毛が逆立った。
空気が、指先みたいに頬をなぞる。
――『見られる』より先に、『触れられた』。
(つづく)




