第2話:女教皇 ― 45度の歪みと泥だらけのザクロ ― ③
指先に残る泥は、驚くほど生暖かかった。
白砂の冷たさとは違う。生き物の温度だ。
ぬめりが皮膚の溝に入り込み、落ちない。
爆ぜたザクロから溢れ出した無秩序な種子は、女教皇が守る「垂直」の境界をじわりと侵食し、ゆりえの掌の上で毒々しい光を放っている。
白い静止に、汚れが“触れた”。それだけで、世界が嫌そうにきしんだ。
ゆりえは泥の色を凝視した。
それは、白砂に足を取られ、無様に汚れながらも立ち上がろうとするメルミの四肢を汚している泥と、まったく同じ色だった。
ゆりえは泥まみれの掌を、メルミに向けた。
「……これ、お揃いだね、メルミ」
ふ、と。
酷く歪んだ世界の中で、そこだけが凪いだみたいに、ゆりえの唇が小さく綻んだ。
自分だけが綺麗なままでいることへの拒絶。
メルミの苦痛を半分引き受けることを、身体が先に決めていた。
気恥ずかしさと、祈りに似た慈愛が、泥だらけの瞳に宿る。
ゆりえは、その笑顔のまま女教皇を見据えた。
「そんなに汚れるのが嫌なら、最初からここに来なきゃいいのに」
ゆりえは両手で、泥にまみれたザクロの残骸をすくい上げた。
不快なぬめりが爪の間に潜り込み、鼻腔を刺す。
あの「秩序が死んでいく匂い」——あれに似ている。
逃げるように背負い続けているレンガ色のがま口へ、その現実を向けた。
「ゆり、何をする気?」
メルミが震える足で斜面を支え、警告するように声を上げた。
叱っている。なのに、目が離れない。
「置いていけないよ」
「これを捨てていったら、あたしもあのお人形と同じになっちゃう」
「……メルミが泥の中にいるのに、あたしだけ綺麗でいるなんて、そんなの嫌だ!」
ゆりえは、泥と種子が混ざり合った“現実の重み”を、がま口の暗い口内へ無理やり流し込んだ。
溢れそうになる泥を指で押し込み、銀色の口金に手をかける。
パチン!
硬質な金属音が、歪んだ回廊に鳴り響いた。
その瞬間、世界が悲鳴を上げた。
――グググ、グゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
地軸が軋みを上げ、巨大な歯車が無理やり噛み合うような轟音が、耳の奥から世界全体へ爆発的に広がった。
がま口が泥を“収監”した刹那、45度に固定されていた世界の軸が、強引に旋回を始めたのだ。
崩落し続けていた白砂の滝が、重力の反転に追いつけず、銀の飛沫となって宙に舞う。
ゆりえはあまりの衝撃に投げ出されそうになったが、がま口のストラップが肩に食い込み、彼女を地面へ繋ぎ止めた。
痛い。
でも、その痛みが「落ちない」を作っている。
ズズ、ズゥゥゥン!
不自然なほど重い。
たった一粒のザクロを入れただけのはずのがま口が、今や巨大な鉄塊みたいな質量を持って、肩にのしかかっていた。
——重り。
メルミが言った言葉が、遅れて刺さる。
やがて荒れ狂った轟音が止み、耳の奥にキーンという残響だけが残った。
視界が水平へ戻っていた。
足元の白砂は動きを止め、地平線はあまりにも真っ直ぐに、世界の境界を引いている。
「……ふぅ。設計者の悪趣味にも程があるわね」
「ジェットコースターの安全バーが外れた時の方が、まだマシな気分だったわよ」
メルミが泥を振り払い、皮肉げに耳を震わせた。
振り返ると、完璧な垂直を保っていた女教皇の姿は、陽炎みたいに薄れ、崩落した白砂の残骸の中に消えていた。
彼女は最後まで、泥を掴んだゆりえを見ようとはしなかった。
——見ない。
共有しない。
それが“女教皇”のやり方だ。
回廊を抜け、次の階層へと続く境界の荒野。
空の色は不気味なほど透き通った紫に染まっていた。
ゆりえは、ずっしりと重くなったがま口を抱えるようにして歩く。
歩くたび、重みが肩を引き戻す。
「逃げるな」と言われているみたいに。
「……ねえ、メルミ」
「あの人、結局一言も喋らなかったね」
「あたしたちが泥だらけになって、あんなに怖がってたのにさ」
ゆりえは、遠ざかる回廊の跡を振り返った。
「あんなに真っ白で、賢いふりをして座って」
「……私なら、あんな風に黙って見てられないよ」
「たとえ汚れたって、メルミの足が滑ってるなら、そっちに駆け寄って、一緒に滑ってあげる」
「あんなの、賢いんじゃなくて……ただの意気地なしだよ」
「皮肉ね、ゆり」
「その『一緒に滑る』なんて非効率な覚悟は、あの教皇様の高尚な辞書には載ってないのよ」
「彼女にとっての知性は、泥を避けるためのヴェールの編み方のことなんだから」
メルミが乾いた笑いを漏らし、泥の落ちた黄金の毛並みを整えた。
「でも……あんたがその泥だらけの爆弾を持ってきてくれたおかげで、私の三半規管はなんとかストライキを起こさずに済んだわ」
「感謝はしないけど、評価はしてあげる」
「いいよ、感謝なんて」
「……ただ、このがま口、さっきよりずっと重いんだ」
ゆりえはがま口の表面をそっとなぞった。
中には、錆びた銀の針と、泥だらけのザクロ。
何が起きているのかは、まだ解らない。
けれど、この重みこそが、自分が逃げなかった証なのだと、ゆりえは静かに自分へ言い聞かせた。
二人の影が、紫の荒野に長く伸びていく。
その先に待つ次なるアルカナの気配を、重くなったがま口の振動が、微かに伝えていた。
(第2話・完)




