第2話:女教皇 ― 45度の歪みと泥だらけのザクロ ― ②
鼓動が、三半規管の裏側で不規則なリズムを刻んでいる。
落ちていないのに、落ち続ける。——そんな錯覚が、骨に染みつく。
白砂の斜面を這い進むゆりえの指先は、絶え間なく流れ落ちる砂に削られ、感覚を麻痺させていた。
砂は軽い。軽いのに、爪の隙間へ入ると刃になる。
指を立てるたび、白がきしむ。擦れる。乾いた音だけが残る。
視界の端では、メルミが白砂に爪を突き立て、重力の叛逆に抗うように背を丸めている。
黄金の毛並みへ絡みついた泥が、この回廊の「不潔な真実」を際立たせていた。
泥は、ここに“最初から”ある。
清潔は、塗装だ。
だが、目前に座す女教皇だけは、その不潔さから徹底的に隔離されている。
ヴェールは揺れない。砂も絡まない。
彼女の周囲だけが、違う世界みたいに「止まって」いた。
「……ねえ。聞こえてるんでしょ?」
ゆりえは泥の混じった砂を吐き出し、見上げた。
女教皇のヴェールは、狂った傾斜に対してあまりにも「垂直」だ。
そこには風も振動もなく、凍りついたような静寂がある。
白さが強すぎて、周囲の流動する風景から浮き上がり、切り取られた写真みたいに不自然だった。
「なんで黙ってるの。メルミがあんなに転んで、世界がこんなに曲がってるのに」
「……見えてないなんて、言わせないよ」
女教皇は微動だにしない。
ヴェールの奥にあるはずの瞳は、泥にまみれた少女を一瞥もせず、ただ遥か彼方の“清潔な理想”だけを見据えている。
知性。純潔。静謐。
その言葉がここでは、剥き出しの「無視」という暴力になって、ゆりえの肌を刺した。
「答えないのは、知らないからじゃないよね」
「……隠してるだけでしょ。そんなに真っ白でいられるのは、汚いものを全部、足元に押し込めてるからじゃないの!」
ゆりえの叫びを、白砂が吸い込んでいく。
叫びが消える。砂だけが走る。
メルミが鼻を鳴らし、滑る足を強引に踏みしめた。
「無駄よ、ゆり」
「彼女の耳は、自分に都合のいい賛美歌以外を拒絶するように設計されてる」
「天国の門番ってのは、いつだって地上の泥跳ねを汚物だと思ってるものなのよ」
その言葉に応えるように、女教皇の指先がかすかに動いた。
——動いた、のに。
世界の方が止まったみたいに感じた。
彼女が守る「垂直な静止」の境界線。
そのすぐ外側、泥が混じり始めた砂の上に、一粒の果実が転がっていた。
ザクロ。
その皮は、女教皇のヴェールと寸分違わぬ、汚れ一つない磁器のような白さを保っている。
一点の歪みもない、完璧な球体。
それは、ゆりえが昨日まで信じていた“秩序ある日常”の結晶みたいに見えた。
部屋に嫌な匂いもせず、すべてが「正しく」整っていた、あの時間の残骸。
(……触ったら、何かが分かる)
そう思ったのに、同時に——触りたくないとも思った。
ゆりえは誘われるように、その白い果実へ手を伸ばした。
指先が、冷たく硬い表面に触れる。
冷たすぎる。生き物の温度じゃない。
――パキッ。
乾燥した、不吉な亀裂の音。
「……あ」
次の瞬間、完璧な白は、自重に耐えかねたように内側から爆ぜた。
中から溢れ出したのは、芳醇な蜜などではない。
ドロリ、と。
粘着質な泥。
秩序を失ってひしめき合う赤黒い種子。
吐瀉物みたいに、女教皇の純白の境界を汚しながら流れ出す。
「なによ……これ……」
ゆりえは反射的に手を引こうとしたが、遅い。
指先にはすでに、生温かい泥の質感がまとわりついていた。
ぬめる。絡む。落ちない。
表面だけは「正しい日常」のふりをして、中身はこんなに——知らないところで汚濁に満ちていた。
原因はわからない。
なぜメルミの足が縺れるのかも、なぜ世界が傾いたのかも、今のゆりえには理解できない。
けれど、この“爆ぜたザクロの中身”こそが、いま自分たちの身に起きていることの、隠しようのない正体なのだと直感する。
「……やっぱり、嘘つきだ」
ゆりえの視線が、返り血みたいな泥を浴びてもなお、一ミリも動かぬ女教皇のヴェールを射抜いた。
「知ってたんだね」
「中身がこんなにぐちゃぐちゃなの」
「……隠して、澄まして、そうやって黙って」
「綺麗なふりをしてるんだ!」
女教皇の沈黙が、重く、深く、回廊を圧迫する。
それは「理解」を拒む拒絶であり、現実の崩壊を“不都合なノイズ”として処理する、上位存在の傲慢だった。
「ゆり、止まるんじゃないわよ!」
「その泥は、あんたが拾ったのよ!」
前方で、メルミが斜面を抉るようにして一歩を踏み出す。
ゆりえは泥だらけの手を白砂に突き立てた。
指に絡みつくザクロの種子が、生々しい不快感で、彼女の「純粋な潔癖さ」を侵食していく。
——でも。
その侵食だけが、ここで“共有できる現実”だった。
(つづく)




