第2話:女教皇 ― 45度の歪みと泥だらけのザクロ ― ①
パチン、と。
「らっきょう」を閉じた硬質な残響が、耳の裏側で反転し、三半規管を抉る不快な高周波へと変質した。
時計工房の静止した歯車は、古い映画のフィルムが熱で焼け落ちるように虚空へと霧散していく。
後に残されたのは、眩いほどの「白」だった。
空も地面もない。そこにあるのは、どこまでも清潔で、どこまでも無機質な、白砂が敷き詰められた回廊だけだ。
だが、視界がその景色を捉えた瞬間、ゆりえの脳は暴力的なエラーを叩き出した。
「……っ、あ、げほっ……!」
視界のすべてが、物理的に「折れて」いる。
世界の垂直軸が、目に見えない巨大な掌によって正確に「45度」押し曲げられていた。
本来なら水平にあるはずの回廊は崖のような急斜面へと変貌し、敷き詰められた白砂は自重に耐えかねて、音もなく斜め下へと絶え間なく崩落し続けている。
「なによこれ……地面が、勝手に走ってる……!」
ゆりえは白砂の斜面に爪を立て、必死に重心を繋ぎ止めた。
一歩進もうとするたび、世界全体が彼女を「端」へと放り出そうとする。
垂直であるはずの柱が、水平であるはずの地平が、すべてが狂った角度で固定され、脳に「落下している」という偽の信号を送り続ける。胃袋が裏返るような嘔吐感がせり上がった。
「あー、もう! 冗談じゃないわよ、重力なんて誰が許可したの!」
数歩先、黄金色の毛並みが激しく白砂を蹴立てている。
メルミだ。
彼女はこの狂った傾斜に対し、四本の足の爪を白砂に深く突き立て、強引に自らの垂直を捏造しようとしていた。
カカカッ、カカッ、と乾いた音が響くたび、白砂が砂塵となって舞い上がる。
だが、どれほど彼女が矜持を保とうとしても、物理法則の「バグ」は無慈悲だった。
本来なら優雅に大地を捉えるはずの四肢が、酔ったように縺れ、あらぬ方向へと滑り落ちていく。
まっすぐ歩く。ただそれだけの絶対的な秩序が、この回廊では最大の罪であるかのように拒絶されていた。
「メルミ、足が……! 変だよ、立ててないよ!」
「地面に文句言ってどうするの! 自分の重心を騙しなさいよ、ゆり!」
メルミは鼻を啜り、滑り落ちる身体を強引に捩じ伏せて立ち上がる。
だが、その黄金の毛並みには、泥の混じった砂が不快な染みとなってこびり付いていた。
彼女がふらついているのは、決して弱っているからではない。
この世界の狂った法(45度)に対し、彼女の「気高さ」が真っ向から反旗を翻し、物理法則と衝突しているのだ。
「見なさい。あそこで澄まして座っているのが、この欠陥住宅の主よ」
メルミが顎でしゃくった先。
「……なによ、あれ……」
砂を噛み、這いつくばるゆりえの視界の端に、その「異常」が突き刺さった。
流動し、崩落し続ける白砂の回廊の突端。 そこには、重力という概念をあざ笑うような「垂直」が座していた。
巨大なヴェールを幾重にも被り、身動き一つしない影。女教皇。
彼女は、45度に切り立った斜面に対して、正確に90度の角度で立っていた。 本来なら、その姿勢をとった瞬間に奈落へと転げ落ちるはずだ。だが、彼女を包む純白の布地は、斜めに流れることも、風に煽られることもない。 まるで彼女の周囲だけが、この狂った世界から切り離された「静止した箱」であるかのように、ヴェールは重力に従って、真下へと、あまりにも正しく垂れ下がっている。
砂塵に汚れ、爪を割って斜面にしがみつく二人の醜態。 それを、彼女はヴェールの奥から、一点の揺らぎもない知性をもって「無視」している。
「ずるいよ……」
ゆりえの喉から、震える声が漏れた。
「あなただけそんなにまっすぐで、綺麗に座って。地面がこんなに曲がってるのに、あなたには見えてないの? ひとりで正しいふりをして、黙ってるだけじゃない!」
女教皇は答えない。 45度の地獄の中で、彼女の保つ「完璧な垂直」は、救いなどではなかった。 それは、足元で起きている崩壊を、一ミリも共有しようとしない冷酷な拒絶そのものだった。
(つづく)




