第1話:魔術師 ― ソファの下の異変と錆びた銀の針 ― ②
ぎりり、ぎりり。
頭上の真鍮が軋みを上げ、世界の端から色彩を削り取っていく。
削られるのは景色だけじゃない。
音の輪郭。匂いの温度。
ゆりえの“今”そのもの。
歯車の重さが、喉の奥にまで降りてくる。
息を吸うだけで、肺が鳴る。
金属の粉が、舌の裏に貼りつく気がした。
その不協和音の核に、四つの腕を持つ魔術師がいた。
微動だにしない。
作業台の上の一本――「錆びた銀の針」を、ただ弄んでいる。
針先が光るたび、空間が一針ずつ縫い締められていく。
瞬きが遅れる。
呼吸が、途中で止まる。
「……返しなさい」
声は出た。出たのに、喉が痛い。
ゆりえはせり上がる酸を飲み下し、一歩踏み出した。
膝が笑う。
足元のネジが靴底を抉る。
痛みは遅れて届き――代わりに脳裏で「黒い欠落」だけが明滅した。
何を欠いているのか、分からない。
分からないのに、そこが痛い。
“穴”が痛い。
「動いてどうする。動けば、また■■■が壊れるだけだ」
魔術師の声が、冷たい指先で脳髄をなぞるように響く。
■■■。
その塊は、言葉になる前に砕けた。
耳の中で、砂みたいに鳴るだけだ。
ゆりえは反射的に、それを“意味”にさせない。
聞こえなかったことにする。
ノイズに押し流す。押し潰す。
――知りたくない。
知らないままでいい。
(…いや、違う。知ったら、壊れる。)
それは、かつて屈したはずの「諦め」の匂いがする誘惑だった。
楽になりたい。
止めたい。
この静かなガラクタの中に沈んでしまいたい。
歯車の下で、呼吸をやめればいい。
そう囁く。
優しい顔で、殺してくる。
ゆりえの足が、止まりかけた。
そうだ。魔術師の言う通りだ。
何をしていいか分からない。何を失ったかも思い出せない。
なら、このままここで、呼吸をやめてしまえばいい。
だが――。
足元から立ち昇る鉄錆の匂いが、脊髄に「拒絶」を叩き込んだ。
吐き気がするほどの確信がある。
ここで止まれば、自分は永遠に「自分」を裏切り続けることになる。
理由なんて要らない。
この“質感”が、答えだ。
「……黙れ」
レンガ色が剥げかけたショルダーがま口。
冷たい口金を指先で弄り、ゆりえは鉄の残骸を蹴立てて走り出した。
走る。走る。
転びそうになる。
それでも走る。
膝の痛みも、肺を焼く鉄錆も、今はノイズに過ぎない。
足をもつれさせ、作業台に身を投げ出すような、見苦しいほどの疾走。
止まったら、縫われる。
止まったら、動けなくなる。
止まったら――■■■が、壊れる。
(…だから、止まらない。)
魔術師の腕が不気味に広がるよりも速く。
ゆりえはテーブルの上の針へ、全神経を叩きつけた。
「……っ!」
指先が、冷たい。
いや、針が冷たい。
冷たすぎる。
魔術師の指先から、錆びた銀の針を強引にひったくった。
掌に、冷たい雷のような激痛が走った。
錆びた先端が皮膚を裂き、肉の奥深くまで突き刺さる。
血が熱いのに、針は冷たい。
冷たさが、痛みの形をして流れ込んでくる。
その傷口から、ダムが決壊したように「冷たさ」が溢れた。
喉を塞ぐ窒息感。
死者の指先みたいな、掌の異常な冷え。
――あの日、何もできなかった自分の無力が、黒い泥になって血管を駆け巡る。
言葉じゃない。
“まただ”っていう感触だけが、骨まで来る。
「あああああぁぁぁ!」
ゆりえは悲鳴を上げながら、その針を握りしめた。
握りしめないと、ほどける。
何かがほどける。
けれど、不思議だった。
掌を灼く激痛が、バラバラに砕け散っていた「ゆりえ」という存在を、力任せに縫い合わせていく。
ほどけた輪郭が、一本の線に戻っていく。
この痛みだけが、今、自分がここに立っているという唯一の証明だった。
痛い。
だから、ここにいる。
「……やれば、できるじゃない」
いつの間にか、足の震えを止めたメルミが作業台の端でこちらを見ていた。
短い前足で鼻をこすり、少しだけ目を細める。
それは笑いじゃない。
泣き出しそうなのを懸命に堪え、喉元まで出かかった“助け”を、あえて飲み下した者の顔だった。
「……あんたがあまりに間抜けな顔でひったくるから、見てるこっちの寿命が縮んじゃうわよ」
毒づいて、目を逸らす。
逸らすくせに、背中が近い。
半歩前だ。
ゆりえは荒い呼吸を繰り返しながら、血の滲む掌を、がま口の口金へと持っていった。
「……うるさい。あんたの寿命なんて、知らないよ」
震える指先で、がま口の金属の「らっきょう」をひねる。
キチキチ、と錆びた音。
開いた口は、光さえ吸い込む貪欲な暗がりに満ちている。
血の滴る「針」をその闇へ落とし込むと、かつては綿埃みたいに軽かった底に、確かな重荷が沈んだ。
重い。
やっと、重い。
この重さが、逃げなかった証だ。
「あら、そう。なら、その『痛いお土産』は、一生、大事に抱えて歩きなさい」
「……ま、そのがま口が少しは重くなって、あんたをこの地面に繋ぎ止める『重り』くらいにはなるんじゃない?」
メルミは誇らしげにモヒカンを揺らし、ゆりえに背を向けた。
その小さな背中には、ゆりえがどれほど不器用に足掻いていようとも、
それをすべて引き受けて先を歩くという、揺るぎない覚悟が漂っていた。
ゆりえは最後の一滴の力を込めて、がま口を閉じた。
パチン。
硬質な金属音が、工房の静寂を粉砕した。
その音と共に、時計工房が剥がれ落ちる古い塗装のように虚空へと崩れ去っていく。
そして――白。
色も、匂いも、音も、感情の輪郭さえも奪う「真っ白な沈黙」。
それが、残酷な幕開けになるとも知らずに。
(第1話:完)




