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第1話:魔術師 ― ソファの下の異変と錆びた銀の針 ― ②



ぎりり、ぎりり。

頭上の真鍮が軋みを上げ、世界の端から色彩を削り取っていく。


その不協和音の核に、四つの腕を持つ魔術師がいた。

彼は微動だにせず、作業台の上に置かれた一本の「錆びた銀の針」を弄んでいる。


「……返しなさい」


ゆりえは、喉の奥にせり上がる酸を飲み下し、一歩を踏み出した。

膝が笑い、床のネジが靴底を抉るたびに、脳裏に「黒い欠落」が明滅する。


「動いてどうする。動けば、また■■■が壊れるだけだ」


魔術師の声が、冷たい指先で脳髄をなぞるように響く。

それは、かつて屈したはずの「諦め」の匂いがする誘惑。

楽になりたい。すべてを止めて、この静かなガラクタの中に沈んでしまいたい。


ゆりえの足が、止まりかけた。

そうだ。魔術師の言う通りだ。

何をしていいか分からない。何を失ったかも思い出せない。

なら、このままここで、呼吸をやめてしまえばいい。


だが、足元から立ち昇る鉄錆の匂いが、彼女の脊髄に「拒絶」を叩き込んだ。

理由は分からない。けれど、吐き気がするほどの確信がある。

ここで足を止めれば、自分は永遠に「自分」を裏切り続けることになる。

言葉にならない「質感」が、彼女の足を前へ蹴り出した。


「……黙れ」


レンガ色が剥げかけたショルダーがま口の、その冷たい口金を指先で弄り、ゆりえは鉄の残骸を蹴立てて走り出した。

膝の痛みも、肺を焼く鉄錆も、今はノイズに過ぎない。

足をもつれさせ、作業台に身を投げ出すような、見苦しいほどの疾走。


魔術師の腕が不気味に広がるよりも速く。

ゆりえは、テーブルの上の針へ全神経を叩きつけた。


「……っ!」


魔術師の指先から、錆びた銀の針を強引にひったくった。


掌に、冷たい雷のような激痛が走った。

錆びた先端が皮膚を裂き、肉の奥深くまで突き刺さる。


その傷口から、ダムが決壊したように「冷たさ」が流れ込んできた。

喉を塞ぐ窒息感。死者の指先のような、掌の異常な冷たさ。

あの日、何もできなかった自分の無力が、黒い泥となって血管を駆け巡る。


「あああああぁぁぁ!」


ゆりえは悲鳴を上げながら、その針を握りしめた。

けれど、不思議だった。

掌を灼く激痛が、バラバラに砕け散っていた「ゆりえ」という存在を、力任せに縫い合わせ、一本の線に戻していく。

この痛みだけが、今、自分がここに立っているという唯一の証明だった。


「……やれば、できるじゃない」


いつの間にか、足の震えを止めたメルミが作業台の端でこちらを見ていた。

短い前足で鼻をこすり、少しだけ目を細める。

それは笑いなどではなく、泣き出しそうなのを懸命に堪え、喉元まで出かかった助けを、あえて飲み下した者の顔だった。


「……あんたがあまりに間抜けな顔でひったくるから、見てるこっちの寿命が縮んじゃうわよ」


メルミはそう毒づいて、目を逸らした。

ゆりえは荒い呼吸を繰り返しながら、血の滲む掌を、がま口の口金へと持っていった。

「……うるさい。あんたの寿命なんて、知らないよ」


ゆりえは震える指先で、がま口の金属の「らっきょう」をひねった。

キチキチと錆びた音を立てて開いたその口は、光さえ吸い込む貪欲な暗がりに満ちている。

血の滴る「針」をその闇へ落とし込むと、かつては綿埃のように軽かったがま口の底に、確かな重荷が沈んだ感触があった。


「あら、そう。なら、その『痛いお土産』は、一生、大事に抱えて歩きなさい。……ま、そのがま口が少しは重くなって、あんたをこの地面に繋ぎ止める『重り』くらいにはなるんじゃない?」


メルミは誇らしげにモヒカンを揺らし、ゆりえに背を向けた。

その小さな背中には、ゆりえがどれほど不器用に足掻いていようとも、それをすべて引き受けて先を歩くという、揺るぎない覚悟が漂っていた。


ゆりえは、最後の一滴の力を込めてがま口を閉じた。


パチン。


硬質な金属音が、工房の静寂を粉砕した。

その音と共に、時計工房が、剥がれ落ちる古い塗装のように虚空へと崩れ去っていく。


それが、すべての色彩が剥ぎ取られた「真っ白な沈黙」への、残酷な幕開けになるとも知らずに。


(第1話:完)




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