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第1話:魔術師 ― ソファの下の異変と錆びた銀の針 ― ①


空がない。

見上げれば、巨大な真鍮の歯車が静止したまま、天を塞いでいた。


ゆりえは、足元から立ち昇る鉄錆の匂いに、肺を焼かれるような不快感を覚えた。

床ではない。そこにあるのは、無数のネジ、折れたゼンマイ、剥がれ落ちた文字盤。


時が流れるのをやめ、ちりとなって降り積もった、硬質な残骸の山だ。

一歩踏み出すたびに、金属の尖った角が白い靴の底を突き上げ、神経を逆なでする嫌な音を立てる。


「……気持ち悪い」


ボソリと漏れた独白は、静止した空気に吸い込まれて消えた。

この場所には、生きている者が呼吸する「湿り気」が決定的に欠けている。

まるで葬儀の後の、あるじを失った部屋に充満していた、あの粘度の高い静寂そのものだ。


「立ち止まってちゃ、何も見えないわよ。あんた、ここで標本にでもなりたいわけ?」


半歩先を歩くメルミの声が、冷たく響いた。

黄金色の毛並みを誇らしげに逆立て、メルミは不敵な意志を全身から放っている。その小さな背中は、灰色の世界で唯一、確かな体温を持っているように見えた。


「何ぼーっとしてるの。ここは動かないものを愛でる墓場よ。あんたもその空っぽのがま口と一緒に、動かないガラクタの仲間入りをしたいなら止めないけどね」


メルミが小さく鼻水を啜った。

その皮肉な視線が、ゆりえの震える指先を射抜く。


それは、弱さを切り捨てようとする冷徹なメスのようであり――。

同時に、動けない自分に対する猛烈な苛立ちを、内側から激しく火をつけさせるような挑発だった。


理由のない焦燥が、ゆりえの喉を震わせた。

がま口のストラップを握りしめる指先に、血の気が引くほどの力がこもる。

このままこの「死んだような静止」の中にいれば、自分まで無機質なプラスチックの塊に変わってしまうという、本能的な恐怖。


「……動きたいなら、自分で勝ち取りなさい。もっとも、あんたにその『痛み』を一生背負う覚悟があればの話だけどね」


メルミはそう言い捨てると、工房の中央に据えられた巨大な作業台――。

剥げかかった茶色の塗装が不気味に光る、歪な木の台へ、軽やかに飛び乗ろうとした。


その瞬間だった。


「――――キャンッ!」


鋭い、何かが壊れるような悲鳴が、世界の中心を貫いた。


メルミの声ではない。

けれど、それは確かに、ゆりえの脳裏の最も深い場所に、消えない傷跡として焼き付いている「異変」の残響。


視界が、ぐにゃりと歪んだ。

色彩が剥げ落ち、世界を覆っていたフィルターが暴力的に剥がされていく。


作業台の四脚が、古びたソファの、湿って変色した木脚に重なった。

降り積もったネジの山は、指で触れれば死者の産毛のようにまとわりつく、あの「隙間に溜まった埃」の質感に反転した。


突如として、鉄錆の匂いを塗りつぶすように、あのツンとしたアルコール綿の匂いが立ち込める。


喉の奥が、熱い酸で焼かれるようにせり上がった。

生理的な嫌悪感が、胃を雑巾のように絞り上げる。


解像度が異常に高まった世界の中で、ゆりえは見てしまった。


作業台の端で。

メルミの足が。

目に見えない力に押し潰されるように、ガクガクと震えているのを。


その震えに合わせて、世界そのものが「カカカカッ」と硬質な音を立てて鳴動している。


「メルミ!」


叫ぼうとした声は、粘り気のある消毒液の霧に塞がれた。

助けなきゃ、と命じているのに、自分の足は床の金属片に縫い付けられたように動かない。


動け。

動け、動け、動け!


(なんで、私はいつもこうなんだ!)


内側で、今にも声になりそうな叫びが爆発する。

何もできない。ただ見ているだけ。

指先ひとつ伸ばせない自分という存在が、吐き気を催すほどに、殺してやりたいほどに忌々しい!


内臓を直接握りつぶされるような自己嫌悪。

理由も、意味も、起源もわからない。

けれど、目の前で崩れゆく黄金色の毛並みに対し、ただ立ち尽くす自分を、ゆりえは絶対に許さないと誓った。


作業台の奥、四つの腕を持つ奇怪な影――魔術師が、一本の錆びた銀の針を弄びながら、無機質な嘲笑を浮かべていた。

その針が、世界の時間を、メルミの自由を、このまま永遠に縫い止めようとしている。


「……ゆり! 怯えるんじゃないわよ!」


その時、止まっていたはずの巨大な真鍮の歯車が。

ゆりえの喉を焼くような動悸に呼応するように。


ぎりり、と。

不吉な音を立てて逆回転を始めた。


(つづく)


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