第0話:愚者 ― 灰色の崖を落ちるための旋律 ― ②
落ちながら、ゆりえは脱皮していた。
初七日の朝まで肌に張り付いていた黒い喪服が、風圧に裂かれて飛ぶ。
厚手の布は指先から順に――言葉になり損ねた単語の群れへ崩れ、霧に散った。
葬儀。病室。アルコール綿。
重みのある概念が、脳裏の古い塗装みたいに剥がれ落ちて、虚空へ消える。
代わりに、眩いほど無垢で、あり得ない白いワンピースが彼女の輪郭を塗り替えた。
遺された者の義務も、時間の鎖も、加速する闇が噛み砕いていく。
――残ったのは、肩に食い込むストラップの痛みだけ。
レンガ色のショルダーがま口が、白い肩に深く食い込んでいる。
その鈍い痛みだけが「捨ててきたものがある」という証みたいに、質量を持ち続けた。
「……ぁ……」
喉が震える。
自分でも気づかぬうちに、微かな振動が唇から零れた。
『……la……lula……』
なぜ出たのか、ゆりえにもわからない。
けれど、その震えが骨を伝い耳奥を打つたび、砕かれたプラスチックみたいに硬い空気が――一瞬だけ、色を取り戻す。
ふわり。
鼻腔を、熱狂的な香りがかすめる。むせ返るほどのバラ園。
死の気配も絶望の冷たさも、乱暴に押し潰す生命の残香。
それが、忘却へ向かうゆりえの奥で、正体不明の熱として燃えた。
やがて足裏が、色彩の剥げた灰色の断崖を捉えた。
重力が不規則にうねる。空は鉛色に凍りつき、世界の端は舞台装置みたいに塗装が剥がれて、下地の白が露出している。
吸い込むたび喉が微細に傷ついた。
――そして、止まった瞬間にわかった。
ここは、立ち止まれば“落ち直す”。足元が、もう一度引き剥がそうとしてくる。
「……あ、ぅ……」
頬が熱い。
いつの間にか溢れていた雫が、灰色の地面に落ちて、音もなく吸われていく。
止めようとしても、止まらない。理屈が効かない。
不思議だった。なぜ泣いている?
理由を支える記憶は、もう旋律の底に沈んでいる。
それでも胸の奥だけが、置き去りにされたまま疼いて――名前になりかけた何かが、喉元でつかえている。
涙は“現象”のふりをして、ほんとうは道しるべみたいに頬を伝った。
忘れているのに、身体が知っている。
魂だけが、先に見つけてしまったみたいに。
その熱が、ゆりえの涙を――「正解」みたいに肯定した。
虚無の突端で、黄金色が揺れた。
色彩を拒む世界の中で、そこだけが圧倒的な生の熱を帯びている。
メルミは、気丈な母の威厳をまとって立っていた。
危ない方へ行こうとするゆりえを、いつも止めてきた――あの背中のままに。
「いつまで、そうやって泣いているの。私の娘は、そんなに足腰が弱かったかしら」
振り返りもしない。だが声は凛として、ゆりえの脊髄を揺らした。
黄金の毛並みを誇らしげに逆立て、メルミは不敵な意思を全身から放っている。
「メル、ミ……」
「ゆり。いい? 泣く暇があるなら、自分の足元を見なさい。止まっている時間は、もうないのよ」
「……わか、らないの。あたし、なんで泣いてるのか、わからないのよ、メルミ。なのに……」
嗚咽に混じった訴えを、メルミは厳しい沈黙で受け止めた。
不機嫌そうに、それでも慈しみを含んだ所作で短い尻尾をひと振りする。
甘い慰めはしない。守るのは言葉じゃない――半歩前の背中だ。
「私の足音を忘れたの? そんなことでは、この先が思いやられるわね」
メルミは四本の足で灰色の地面を蹴り、断崖の先に広がるモノクロームの森へ走り出した。
「待って! 行かないで、メルミ!」
「追いかけてきなさい! あなたのがま口は、まだ空っぽでしょう! 守りたいものがあるなら、止まれないでしょ!」
咆哮が虚空を切り裂く。
それは、記憶を失ったゆりえの奥底に眠る可能性を、鋭く射抜いた。
ゆりえはショルダーがま口を強く握りしめ、重力の狂った断崖を蹴った。
時速百キロの疾走。
色彩のない風が頬を叩き、白いワンピースが旗のように翻る。
バラの残香を道標にするみたいに。
視界の先。モノクロームの森の入り口で、鈍い銀色の光が瞬いた。
これから彼女が拾い集めることになる最初の痛み。
魔術師の錆びた銀針が、バラバラになった世界の法則を縫い合わせようと――彼女を試すように待ち構えていた。
(第0話:完)




