表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/23

第0話:愚者 ― 灰色の崖を落ちるための旋律 ― ②



落ちながら、ゆりえは脱皮していた。


初七日の朝まで肌に張り付いていた重苦しい黒い喪服が、猛烈な風圧に耐えかねて弾け飛ぶ。

厚手の布地は指先から順に、意味を失った単語の羅列へと変わって霧散した。

葬儀。病室。アルコール綿。

それらの重みを伴った概念が、脳裏から剥がれ落ちる古い塗装のように虚空へ消える。


代わりに、眩いほどに無垢な、しかし非現実的な白いワンピースが、彼女の輪郭を塗りつぶした。

遺された者の義務も、時間の鎖も、加速する闇がすべてを食いつぶしていく。


ただ、肩にかけたレンガ色のショルダーがま口のストラップだけが、白い肩に深く食い込んでいた。

その鈍い痛みだけが、彼女が何かを捨ててきた証として、唯一の質量を保っている。


「……ぁ……」


喉が震えた。

自分でも気づかぬうちに、微かな振動が唇から零れ出す。


『……la……lula……』


なぜ、その調べが口を突いて出たのか、ゆりえ自身にもわからない。

けれど、その震えが骨を伝い、耳奥を打つたび、砕かれたプラスチックのような硬く薄い空気が、一瞬だけ鮮やかに塗り替えられた。


ふわりと、鼻腔を熱狂的な香りがかすめる。

いつかどこかで嗅いだような、むせ返るほどのバラ園の香り。

死の気配を、絶望の冷たさを、すべて暴力的にねじ伏せるほどの生命の残香。

それは忘却の途上にあるゆりえの奥底で、正体不明の熱として現像された。


やがて、足裏が色彩の剥げた灰色の断崖を捉えた。


重力が不規則にうねる、虚無の世界だ。

空は鉛色に凍りつき、世界の端の方は、古い舞台装置のように絵の具が剥がれて下地の白が露出している。

吸い込むたびに喉が微細に傷つく感覚が、生理的な不快感となって全身を走る。


「……あ、ぅ……」


頬を濡らす熱い雫が、地面に落ちては灰色に吸い込まれていく。

不思議だった。

なぜ、自分はこんなに泣いているのだろう。

理由を裏付ける記憶は、すでにハミングの旋律の中に溶け去っていた。

ただ、止めどなく溢れる生理的な現象としての涙だけが、彼女の顔を汚していく。


その虚無の突端で、一つの黄金色が揺れた。

色彩を拒絶した灰色の世界の中で、そこだけが圧倒的な生の熱を帯びている。

メルミは、気丈な母としての威厳を湛えて立っていた。


「いつまで、そうやって泣いているの。私の娘は、そんなに足腰が弱かったかしら」


振り返りもしない。だが、その声は凛として、ゆりえの脊髄を直接揺らした。

黄金色の毛並みを誇らしげに逆立て、メルミは不敵な意思を全身から放っている。


「メル、ミ……」


「ゆり。いい? 泣く暇があるなら、自分の足元を見なさい。止まっている時間は、もうないのよ」


「……わか、らないの。私、なんで泣いてるのか、わからないのよ、メルミ。なのに……」


嗚咽に混じったゆりえの訴えを、メルミは厳しい沈黙で受け止めた。

彼女は不機嫌そうに、だが慈しみを含んだ所作で短い尻尾をひと振りした。

娘を安心させるような甘い感傷を排し、ただ半歩前の背中を見せる。

最期の瞬間まで崩さなかった、あの気丈な母のままで。


「私の足音を忘れたの? そんなことでは、この先が思いやられるわね。」


メルミは四本の足で力強く灰色の地面を蹴ると、断崖の先に広がるモノクロームの森へと向かって、弾丸のような速さで走り出した。


「待って! 行かないで、メルミ!」


「追いかけてきなさい! あなたのがま口は、まだ空っぽでしょう! 守りたいものがあるなら、止まれないでしょ!」


メルミの咆哮が、虚空を切り裂く。

それは、記憶を失ったゆりえの奥底に眠る可能性を、鋭く射抜いた。

ゆりえはショルダーがま口を強く握りしめ、重力の狂った断崖を蹴った。


時速百キロの疾走。

色彩のない風が頬を叩き、白いワンピースが旗のように激しく翻る。バラの残香を道標にするように。



視界の先、モノクロームの森の入り口で、鈍い銀色の光が瞬いた。

それは、これから彼女が拾い集めることになる最初の痛み。

魔術師の錆びた銀針が、バラバラになった世界の法則を縫い合わせようと、彼女を試すように待ち構えていた。


(第0話:完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ