第5話:教皇 ― 硝子の聖堂と免罪の機構 ― ④
銀の針が、泣き声の“隙間”だけを狙って――落ちてくる。
無機質な光が跳ね返り、ゆりえの網膜を灼いた。
反射の白。痛い。痛いのに、清潔だ。
巨大な凸面鏡のレンズが、シュルシュルと機械音を立てて絞られていく。
焦点が合う。合わせられる。
視界の中で、世界が「測定」へ形を変える。
レンズは、ゆりえの前に立つ黄金の獣――メルミの背中へ、まっすぐ刺さった。
「……不思議だね」
どこまでも澄んだ、少年の声。
怒っていない。責めていない。
ただ、興味を持った顔で昆虫をつまむみたいに、問いを落とす。
「君は、どうしてそこに『居る』んだい?」
「君というピースは、この譜面のどこにも書き込まれていない」
「……君はあの時、確かに――」
言い切る直前に、メルミが唸った。
地を這うような、重く連続的な咆哮。
「――そこまでよ、レンズ面」
教皇の言葉を、力任せに叩き斬る。
黄金の毛並みが逆立ち、喉から熱気が漏れる。背中が微かに、けれど激しく震えていた。
「あんたの安っぽい算数で、私のゆりを不安にさせないでくれる?」
メルミは一歩も退かない。
だが――決して後ろを振り向かない。
ゆりえの目には、その背中がこの無菌室の光をぜんぶ吸い込み、奥行きを失っていくように見えた。
平たい。貼りついている。
古い写真から切り抜いて、硝子の空間に貼り付けたみたいな「書き割り」。
隣にいるはずなのに、遠い。
宇宙の果てみたいに遠い。
ゆりえの鼓動と、メルミの呼吸が――決定的にズレていく。
近い音が、遠くなる。遠いはずの音が、耳の内側で鳴る。
「……頑なだね」
教皇が微笑む気配がした。
子どもが“わからないこと”を面白がるみたいに。
「でも、事実は円環の外には出られない」
「ゆりえ」
「その獣はね、君の隣にいることに耐えられなくて、背中を向けたんだ」
教皇が再び、ゆりえへ向き直る。
レンズの奥で、無数の幾何学模様が明滅する。
正しい形。正しい結論。正しい速度で、心を切る。
「君の『献身』という名の傲慢が、大切なあの子をこの世に繋ぎ止めたんだよ」
「あの子に安らかな■■■すら許さなかったのは」
「君が『あの子を看病している自分』でいたかったからだ」
「……君が守っていたのは、■■■じゃない」
「『独りになるのが怖い』という、君自身の醜いエゴだ」
言葉が落ちた瞬間、ゆりえの耳の奥で砂嵐が吹き荒れた。
キィィィィィィィィィン!!
鼓膜を裏側から掻き毟る白雑音。
教皇の単語が、暴力的に塗りつぶされる。
――なのに、意味だけが残る。刺さったまま残る。
「見てごらん」
「その獣は君に顔を見せない」
「君の愛が重すぎて、君に触れられたくないから背中を向けているんだ」
「……それが、君が犯した『人殺し』の正体だよ」
硝子のひび割れが、ゆりえの瞳の奥まで浸食していく。
視界が白く濁る。光が薄い膜になって、心を包む。
「ゆり! 耳を貸すな!」
メルミの必死の訴えも、ゆりえにはぼやけて聞こえた。
抱きしめているはずのがま口の感触さえ、指先から麻痺していく。
熱が、遠い。
痛みが、遠い。
自分が、遠い。
教皇が突きつける「正論」が、脳漿を直接かき混ぜるような不快なノイズになって、ゆりえという個体の輪郭を内側から削り取っていく。
(……ああ……あたし……消えるのかな)
目の前の背中は、もう救いの盾じゃなかった。
完璧な調和を保つための、ただの「書き割り」。
教皇が言った通り――あたしが見ているのは、あたしが作った都合のいい幻覚。
メルミは、もう……。
その絶望の絶壁に爪を立てた瞬間だった。
意識の最も暗い底から、あの調べが滑り落ちてきた。
『laaa…… lu-laaa……』
静寂の中で、微かに耳を掠める。
教皇の耳障りで完璧な「讃美歌」を、柔らかく――けれど圧倒的な速度で上書きしていく。
「歌わなきゃ」なんて意志はない。
ただ、呼吸が先に合う。
白濁していた瞳に、不意に未知の光が宿った。
ひきつった頬。鼻水と涙でぐしゃぐしゃの顔。
その醜い輪郭をなぞるように、喉が、肺が、全身の細胞が、降ってきた調べへ抗いようなく呼応を始める。
『……la……lula……』
意志を介さない「現象」。
喉の奥から漏れ出した震えは、肺に溜まった毒素が抜けるみたいに、熱い血が逆流するみたいに、当然の必然として溢れ出す。
二つの波形が交差した瞬間。
世界と自分、過去と未来――そのパズルが、噛み合う。
『……la……lula……』
『laaa…… lu-laaa……』
重なり合う二つのハミングは、もうゆりえ一人のものじゃない。
一つの巨大なうねりとなって、無菌の聖堂を、冷徹な秩序を、物理的な質量で飲み込んでいく。
ぐしゃぐしゃの泣き顔のまま、瞳だけがこの世界の外側にある「真実」を見つめている。
呪いみたいな死の和音が、この二重奏の暴力的な美しさの前で、霧散していく。
「……何だい。その旋律は……」
「僕の譜面には、そんな不合理な……計算外の……」
教皇の凸面鏡が、チリチリと悲鳴を上げた。
白銀の滑らかな表面に、蜘蛛の巣みたいな亀裂が走る。
冷徹だった鋭利な光は、この二重奏に角を落とされ、夕暮れみたいに――あるいは母親の胎内みたいに濃密で柔らかい「温かい光」へ揺らぎ始めた。
世界の色が、反転しようとしていた。
ゆりえは、かつてないほどの充足感の中にいた。
刻が、今の「あたし」を楽器にしている。
その確信が、教皇の突きつけた絶望を、ゴミみたいに足元へ蹴り落とした。
聖堂の硝子壁が、ゆりえの声に共鳴して激しく鳴動する。
二重奏が加速する。
『……la……lula……』
『laaa…… lu-laaa……』
光が爆発した。
白銀は溶け、聖堂という名の巨大な監獄が、泥濘みたいな生命の温もりに飲み込まれていく。
硝子の中で――笑っていた1つの顔が、初めて“歪んだ”
(つづく)




