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第5話:教皇 ― 硝子の聖堂と免罪の機構 ― ④



教皇の手にある銀の注射針が、無機質な光を跳ね返してゆりえの網膜を灼く。


巨大な凸面鏡のレンズが、シュルシュルと機械音を立てて絞られ、ゆりえを守るように立つ黄金の獣を射抜いた。


「……不思議だね。君は、どうしてそこに『居る』んだい? 君というピースは、この譜面のどこにも書き込まれていない。……君はあの時、確かに――」


「――そこまでよ、レンズづら


地を這うような、重く連続的な咆哮が教皇の言葉を力任せに叩き斬った。

黄金の毛並みが逆立ち、メルミの喉からは熱気が漏れ出す。その背中は微かに、けれど激しく震えていた。


「あんたの安っぽい算数で、私のゆりを不安にさせないでくれる?」


メルミは一歩も退かない。だが、決して後ろを振り向こうとはしなかった。

ゆりえの目には、その背中が、この無菌室の光をすべて吸い込み、次第に奥行きを失っていくように見えた。

まるで古い写真から切り抜いて、硝子の空間に貼り付けたような、平面的で、あまりに鮮明すぎる「書き割り」。

ゆりえの鼓動とメルミの呼吸が、決定的にズレていく。隣にいるはずなのに、宇宙の果てほど遠い。


「……頑なだね。でも、事実は円環の外には出られない。ゆりえ、その獣はね、君の隣にいることに耐えられなくて背中を向けたんだ」


教皇が再びゆりえへと向き直る。レンズの奥で、無数の幾何学模様が明滅した。


「君の『献身』という名の傲慢が、大切なあの子をこの世に繋ぎ止めたんだよ。あの子に安らかな■■■すら許さなかったのは、君が『あの子を看病している自分』でいたかったからだ。……君が守っていたのは、■■■じゃない。『独りになるのが怖い』という、君自身の醜いエゴだ」


ゆりえの耳の奥で、突如として砂嵐が吹き荒れた。

キィィィィィィィィン!!

鼓膜を裏側から掻き毟るような激しい雑音。教皇の放った単語が、暴力的な白雑音に塗りつぶされる。


「見てごらん。その獣は君に顔を見せない。君の愛が重すぎて、君に触れられたくないから背中を向けているんだ。……それが、君が犯した『人殺し』の正体だよ」


硝子のひび割れが、ゆりえの瞳の奥まで浸食していた。


「ゆり!耳を貸すな!」


メルミの必死の訴えも、今のゆりえにはその声がぼやけてよく聞き取れない。視界は白濁し、抱きしめているはずのがま口の感触さえ、指先から麻痺していく。教皇が突きつける「正論」が、脳漿を直接かき混ぜるような不快なノイズとなって、ゆりえという個体の輪郭を内側から削り取っていく。


(……ああ……あたし……消えるのかな)


目の前に立つメルミの背中は、もう救いの盾には見えなかった。

それはこの世界の完璧な調和を保つための、ただの「書き割り」だ。教皇が言った通り、あたしが見ているのは、あたしが作った都合のいい幻覚。メルミは、もう――。


その、絶望の絶壁に爪を立てた瞬間だった。


意識の、最も暗く、最も深い断崖の底から、あの調べが滑り落ちてきた。


『laaa…… lu-laaa……』


静寂の中で微かに耳を掠めた、あの音。

教皇の奏でる、あの耳障りで完璧な「讃美歌(死の和音)」を、柔らかく、けれど圧倒的な速度で上書きしていく。

「歌わなきゃ」などという意志は、そこにはない。

白濁していたゆりえの瞳に、不意に、未知の光が宿った。

ひきつった頬、鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった顔。その醜い輪郭をなぞるように、喉が、肺が、全身の細胞が、降ってきた調べに対し、抗いようのない呼応を始めた。


『……la……lula……』


それは、意志を介さない「現象」だった。

喉の奥から漏れ出したその震えは、まるで肺に溜まった毒素が抜けるように、あるいは熱い血が逆流するように、あまりにも当然の必然として、溢れ出した。


二つの波形が交差した瞬間、世界と自分、過去と未来。そのすべてのパズルが完璧に噛み合った、圧倒的な同期シンクロ


『……la……lula……』

『laaa…… lu-laaa……』


重なり合う二つのハミングは、もはやゆりえ一人から放たれているものではなかった。

それは一つの巨大なうねりとなって、無菌の聖堂を、冷徹な秩序を、物理的な質量を伴って飲み込んでいく。


ぐしゃぐしゃの泣き顔のまま、瞳だけが、この世界の外側にある「真実」を見つめている。

聖堂を支配していた、あの呪いのような死の和音が、この二重奏の暴力的なまでの美しさを前にして、成す術もなく霧散していく。


「……何だい。その旋律は……。僕の譜面には、そんな不合理な……計算外の……」


教皇の凸面鏡が、ハミングの微細な、けれど鋭い振動に耐えきれず、チリチリと悲鳴を上げた。

白銀の滑らかな表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。

冷徹だった鋭利な光は、この二重奏に角を落とされ、夕暮れのような、あるいは母親の胎内を思わせる、濃密で柔らかい「温かい光」へと揺らぎ始めた。


世界の色が、反転しようとしていた。


ゆりえは、かつてないほどの充足感の中にいた。

刻が、今の「あたし」を楽器にしている。

その確信が、教皇の突きつけた絶望を、ゴミのように足元へ蹴り落とした。


聖堂の硝子壁が、ゆりえの声に共鳴して、激しく鳴動する。

ハミングの二重奏が加速する。


『……la……lula……』

『laaa…… lu-laaa……』


光が爆発した。

白銀は溶け、聖堂という名の巨大な監獄が、泥濘のような生命の温もりに飲み込まれていく。


(つづく)




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