第5話:教皇 ― 硝子の聖堂と免罪の機構 ― ③
白銀の仮面。一点の曇りもない「聖女の笑顔」が、ゆりえの肌を冷たく撫でようとしたその瞬間だった。
(……あついっ!)
胸元のがま口が、突如として心臓のような脈動を見せ、弾けるほどの熱を発した。
それは教皇が「地獄」と切り捨てた記憶の逆流。副作用の高熱に浮かされ、乾いたスポンジのような喉で荒い喘鳴を上げていたあの子の、あの逃げ出したくなるほど切実な体温だ。
死を先延ばしにするための琥珀色の錠剤。それを飲み込むたびに、あの子の胃袋で焼けていた、救いようのない「生」の重み。
「なかったこと」になんてさせない。
この指先を焼く、生理的な嫌悪を伴うほどの痛みこそが、ゆりえが逃げ出さずにあの子の隣に立ち尽くしていた、嘘のない証拠だ。
「……ぁ……っあ、ああ!」
ゆりえは、喉の奥から肺を裏返すような声を上げ、差し出された仮面を全力で叩き落とした。
硝子の床で砕け散る、完璧な笑顔の在庫。破片が飛び散り、ゆりえの頬を浅く裂く。
綺麗な嘘で塗り固められた「聖女の物語」を、ゆりえは自らの意思で踏みつけ、拒絶した。
「……おや。せっかく用意した、君にぴったりの『出口』だったのに」
教皇の、感情を欠いた子供の声が聖堂に反響する。
ゆりえは、砕けた仮面の向こう側――聖堂の壁面にプレスされた信者たちを見た。
歌えば歌うほど皮膚が摩耗し、肉と硝子の境界が溶けていく「押し花」たち。ある者は眼球が硝子化してあらぬ方向を向き、ある者は指先が結晶化してパラパラと床に零れ落ちている。
その無残な傷口から流れる鮮血が、教皇の放つ純白の光に透かされ、内臓をプリズムに通したような、おぞましくも極彩色の曼荼羅を描き出している。
(……せめて。せめて、この人たちだけでも……)
自分の手は、あの子を数ヶ月もなぶり殺した汚れた手だ。
ならば、その「罪」を贖うために、せめて目の前のこの惨めな囚人たちに、望む通りの「終わり」を祈ってあげたい。
仮面を拒絶した直後、行き場を失った巨大な罪悪感が、ゆりえの思考を真っ白に塗りつぶした。
「……ぁ……、……la……la……」
ゆりえの唇が、無意識に震えだす。
それは教皇の奏でる、一分の隙もない和音――「死」を肯定し、命を「完成」へと誘うあの旋律だった。
意識して歌っているのではない。
あまりの地獄に心を折られたゆりえの魂が、救いを求めて、この場の「死の調和」に勝手に共鳴してしまったのだ。彼女のハミングが、聖堂の無菌室に溶け込み、信者たちの死を加速させていく。
教皇の凸面鏡が、勝ち誇ったように眩く発光した。
「そうだよ、ゆりえ。君のその『鎮魂歌』で、彼らを完成させてあげよう。……それが君にできる、唯一の、美しいやり方だ」
ゆりえの意識が、教皇の巨大な祭服のひだへと、永遠に溶け落ちようとしたその時。
「グワァァァァァァァァーー!!」
ゆりえの呪われたハミングを、物理的な質量で引き裂いて、地を這うような獣の咆哮が爆発した。
硝子の檻に閉じ込められていたメルミが、その喉を、肺を、魂の全てを摩擦させるようにして吠え立てたのだ。
それは金属的な悲鳴ではない。内臓を震わせ、聖堂の「死の調和」を力任せにブチ壊す、重く連続的な「生命の唸り」だった。
ガガガッ、パリンッ、パリン!!
完璧だった合唱に耐えがたいノイズが混じり、曼荼羅の色彩がドブ川に泥を投げ入れたように濁っていく。
檻を破り、飛び出した黄金のフレブルが、ゆりえの前に着地した。
メルミはゆりえを労ったりはしない。ただ教皇という巨大な虚像を、血走った眼光で射抜き、ゆりえをその背中で守るように立ちはだかった。
その、母親のように広く、不遜なまでに頼もしい背中が、ゆりえの視界をすべて塗りつぶした。
「……馬鹿ね。たかが犬一匹死なせたぐらいで、何が人殺しよ」
低く、けれど全てを包み込むようなメルミの声が、毒のようなハミングを掻き消して届く。
「そんなにその『罪』が重いっていうなら、私が半分背負ってあげるわ。……ほら、さっさと立ちなさい。私の、ゆり」
ゆりえは、メルミの背中に向かって震える手を伸ばした。
けれど、指先は届かない。メルミは教皇を睨みつけたまま、突き放すような強さのまま、慈愛に満ちた毒を吐く。
「あの子が欲しかったのは、こんなピカピカの救済じゃない。あんたのその汚れた手で、一秒でも長く抱きしめてもらうことだったのよ。それが拷問だろうがなんだろうが、知ったことじゃないわ!」
ゆりえの内側から、せき止めていたものが決壊した。
「……わだじ……わだじさ……」
鼻水と涙で顔を汚し、髪を振り乱した、不細工で、グシャグシャな、泣き笑いの顔。
それはこの「清潔な死の無菌室」において、最も異質で、最も醜い、けれど最も力強い「生」の証明だった。
「何で、こんなに泣いてんだろ……。あんたはいつも、そうやって昔っから……(昔から?)」
ゆりえは、火傷するほど熱いがま口を、壊れ物を扱うように胸へと強く押し付けた。
教皇が「なぶり殺しの証拠」だと断じたそれを、ゆりえは今、自分を繋ぎ止める最後のプライドとして抱きしめている。
殺人犯でいい。
あの子を苦しめた呪いも、この泥まみれの熱さも、二度と手放しはしない。
「……醜いね」
教皇の、感情を欠いた子供の声が響く。
巨大な凸面鏡のレンズが、ゆりえのグシャグシャな泣き顔を捉え、生理的な不快感に歪んだ。レンズの奥で、光の粒子が収束していく。
「理解できないよ。どうしてわざわざ、そんな汚れた苦しみの方を選ぶの? 効率が悪い。美しくない。……君たちが望むのが『完成』ではなく『泥濘』だというのなら」
教皇の手から、銀の注射針が、無慈悲な処刑具としてその切っ先を光らせた。
「せめてその愛の『真実』を、骨の髄まで教えてあげるよ」
メルミは背中を向けたまま、喉を鳴らして教皇を威嚇し続ける。
ゆりえを守っているはずのその背中が、一瞬、ひどく遠く、救いようのない絶望の崖のように見えた。
(つづく)




