第5話:教皇 ― 硝子の聖堂と免罪の機構 ― ②
『laaa…… lu-laaa……』
その音色は、聖堂の狂った和音を鮮やかに裂いた。
極彩色の曼荼羅を描いていた色彩の洪水が、透明な「一筋の糸」に縫い留められたみたいに、ふっと動きを止める。硝子の壁にプレスされた信者たちの絶叫さえ、一瞬だけ凪いだ。
ゆりえの掌。
硝子化したはずの傷口が、その調べに共鳴して――どくん、と脈を打つ。
生身の熱が、戻ってくる。戻り方が、生々しい。
「……なに、この音……?」
ゆりえは、自分の唇が微かに震えていることに気づいた。
歌っているのは自分じゃない。なのに、耳の奥で鳴り止まない旋律が、喉を、胸を、指先を――内側から“撫でて”支配していく。
無意識のうちに、ゆりえの呼吸がそのリズムに合っていた。怖いのに、息が整う。
「ねえ、ゆりえ」
全方位から、どこまでも澄んだ声が降ってきた。
怒っていない。責めてもいない。
ただ、見つけたものを指差すみたいに、無邪気だ。
「そのハミング、もうやめたら?」
さっきまで肩に乗っていた小さな人形は、もういない。
ゆりえたちが立っている床、見上げる天、囲まれる壁――そのすべてを構成する祭服のひだが、教皇という巨大な現象そのものとして、ゆりえたちを包み込んでいる。
「それ、救済の歌なんかじゃないよ」
「だって、君のくちびる、こんなに震えてる」
声が優しいほど、背中が冷える。
震えが止まらない。止めたいのに、止まらない。
「あぁ、そうか」
「君は、がま口に隠している『琥珀色の罪』を、見たくないんだね」
「だから世界を真っ白に塗りつぶそうとして、必死にノイズを鳴らしてる」
「ちが……」
ゆりえの喉が、うまく鳴らない。
「あたしは……」
「違わないよ」
教皇の言葉が落ちた瞬間、聖堂全体の硝子が耳障りなハウリングを上げた。
祝福の聖堂が、楽器みたいに鳴る。鳴らされる。
降り注いでいた浄化の音色は、空間が“ほんの少し”歪められただけで、反射し、霧散し、不快な高周波へ書き換えられていく。
ゆりえの掌から、熱が急速に奪われた。さっき戻った生身が、また固まり始める。指の関節が、冷たい。
「そんなに怯えなくていいのに」
「……君はその『琥珀色の薬』で■■を止めてあげたつもりだろうけど」
「それ、あの子にとっては地獄でしかなかったんじゃないかな?」
言い方は、あくまで穏やかだ。
砂糖菓子みたいな声で、喉の奥を切る。
空間そのものの「顔」――巨大な凸面鏡が、ゆりえの目の前に滑り降りてきた。
レンズの表面に、色褪せた水彩画みたいな滲みが広がる。
薄暗い部屋の隅。
激しく揺れる、正体の知れない「影」。
幼いゆりえの震える手が、何かをその影の口元へ、必死に押し込もうとしている。
鏡の向こうから、古い匂いがする気がした。
湿った布。甘く腐った砂糖。消毒液。――胃が縮む。
「一刺しで終わるはずだった『完成』を」
「君の身勝手なエゴで、数ヶ月も引き延ばして……」
教皇は感情を込めない。
叱るでもなく、泣くでもなく、ただ“数える”みたいに言う。
「副作用の熱であえぐあの子を、君はただ眺めていただけだ」
「ねえ」
「それを『なぶり殺し』って呼ばない理由、僕に教えてくれる?」
「やめて……!」
ゆりえは、がま口を必死に抱きしめた。
教皇の言う通り、これは罪の証拠なのかもしれない。
けれど、この重みは――あの日、逃げ出したくなるほど熱い時間の中で、あの子の手を握り続けた証でもあるはずだ。
なのに。
がま口が、教皇の言葉に呼応するみたいに、どろりと溶け出したような不快な熱を放ち始める。
腐った砂糖と消毒液が混ざったような、甘い死の匂いが鼻腔を刺した。
抱きしめるほど、匂いが濃くなる。逃げ道が狭くなる。
「君はあの子を救いたかったんじゃない」
「静寂が怖かったんだ」
「だから薬っていう鎖で、この世に縛り付けた」
「……救う勇気がなかったから、あの子に地獄を強制したんだよ」
「ねえ、ゆりえ」
「そんな『無駄なプライド(昨日)』を抱きしめて、これから一生、殺人犯として自分を呪って生きるの?」
ゆりえの喉の奥に、酸っぱいものが上がった。
答えが出る前に、身体が負けそうになる。
「……あ、あぁ……」
その時、背後で激しい咆哮が響いた。
メルミだ。いつの間にか、教皇が作り出した透明な硝子の檻に閉じ込められている。
牙を剥き、硝子を掻き毟り、死に物狂いで吠える。
――だが。
その獰猛な声は、聖堂の空気に触れた瞬間、滑らかな「清らかなソプラノ」へと強制的に整形された。
メルミが吠えれば吠えるほど、それは教皇を讃え、ゆりえを断罪する旋律として、天井の白へ吸い上げられていく。
美しい。美しすぎて、吐き気がする。
(……メルミ?)
(あんたまで……あたしを……?)
ゆりえの心が、音を立てて折れた。
自分の唇さえ信じられない。メルミの叫びさえ、自分を責める歌に聞こえる。
世界が、やさしく、丁寧に、逃げ道を塞いでくる。
「苦しいよね」
少年の声が、頷くみたいに落ちてくる。
「でも、大丈夫」
「ここに『言い訳の在庫』はいくらでもあるんだ」
教皇の意思で、白磁の壁が無数の引き出しへと展開した。
ぎし、と白い音。
開くたび、無菌の匂いが新しくなる。
そこには、何万という「穏やかな死に顔の仮面」が、静かに収められていた。
どれも同じ角度の笑顔。どれも同じ温度。
笑っているのに、呼吸がない。
教皇がその中から、一点の曇りもない笑顔を湛えた仮面をひとつ選び、ゆりえの目の前に浮かべた。
仮面の裏側に、美しい幻想が映り込む。
『奇跡を信じ、最期まで献身的にあの子を愛した聖女。安楽死を選ばなかったのは、溢れる慈愛ゆえの苦渋の決断。』
「この仮面を被れば、君の残酷な過去は『美しい物語』に書き換えられる」
「もう人殺しなんて言われない」
「琥珀の薬は『毒』じゃなく、『希望』だったことにできる」
言葉が、甘い。
甘いほど、喉が渇く。
「……都合のいい言い訳を、自分に信じ込ませて」
「僕たちと一緒に、この完璧な和音の一部になろうよ」
ゆりえの瞳から、光が抜けていく。
肩を焼くがま口の重み。殺人犯としての孤独。
そこから逃げられるのなら。――この“綺麗な嘘”を被ってしまえば。
「……あ……ああ……」
メルミの悲痛なソプラノが、すべてを諦めさせるための、あまりに清らかなアリアのように降り注ぐ中。
ゆりえの震える指先が、その白銀の仮面へ――吸い寄せられるように伸びていった。
(つづく)




