第5話:教皇 ― 硝子の聖堂と免罪の機構 ― ②
(……laaa…… lu-laaa……)
その音色は、聖堂の狂った和音を鮮やかに切り裂いていた。
極彩色の曼荼羅を描いていた色彩の洪水は、透明な「一筋の糸」に縫い合わされるようにして動きを止め、硝子の壁にプレスされた信者たちの絶叫さえも、一瞬だけ凪ぐ。
ゆりえの掌。硝子化したはずの傷口が、その調べに共鳴してドクドクと脈打ち、生身の熱を取り戻していく。
「……なに、この音……?」
ゆりえは、自分の唇が微かに震えていることに気づいた。
歌っているのは自分ではないはずだ。なのに、耳の奥で鳴り止まないその旋律は、彼女の喉を、胸を、指先を、まるで内側から優しく撫でるように支配していく。無意識のうちに、ゆりえの唇はそのリズムをなぞり、呼吸を合わせていた。
「ねえ、ゆりえ。そのハミング、もうやめたら?」
全方位から、どこまでも澄んだ、少年の声が降ってきた。
さっきまで肩に乗っていたあの小さな人形はもういない。ゆりえたちが立っている床、見上げる天、囲まれる壁――そのすべてを構成する祭服のひだが、教皇という巨大な現象そのものとして彼女たちを包み込んでいる。
「それは救済の歌なんかじゃないよ。君の唇がこんなに震えている。……あぁ、そうか。君ががま口に隠している『琥珀色の罪』を直視したくなくて、世界を真っ白に塗りつぶそうと、必死にノイズを鳴らしているんだね?」
「ちが、う……私は……」
「違わないよ。君の罪悪感が、世界を歪ませているんだ」
教皇の意思が動くと同時に、聖堂全体の硝子が耳障りなハウリングを上げた。
降り注いでいた浄化の音色は、教皇が物理的に空間を歪めたことで、反射し、霧散し、不快な高周波へと書き換えられていく。ゆりえの掌から、熱が急速に奪われていく。
「そんなに怯えなくていいのに。……君はその『琥珀色の薬』で■■を止めてあげたつもりだろうけど、それ、あの子にとっては地獄でしかなかったんじゃないかな?」
空間そのものである教皇の「顔」――巨大な凸面鏡が、ゆりえの目の前に滑り降りてきた。
そこに映し出されたのは、色褪せ、水彩画のように滲んだ「あの日」の記憶。
薄暗い部屋の隅。激しく揺れる、正体の知れない「影」。
幼いゆりえの震える手が、何かをその影の口元へ、必死に押し込もうとしている。
「一刺しで終わるはずだった『完成』を、君の身勝手なエゴで数ヶ月も引き延ばして……副作用の熱であえぐあの子を、君はただ眺めていただけだ。ねえ、それを『なぶり殺し』って呼ばない理由、僕に教えてくれるかい?」
「やめて……!」
ゆりえはがま口を必死に抱きしめた。
教皇の言う通り、これは罪の証拠なのかもしれない。けれど、このがま口の重みは、あの日、逃げ出したくなるような熱さの中で、自分があの子の手(前足)を握り続けた証でもあるはずだ。
だが、がま口は教皇の言葉に呼応するように、ドロリと溶け出したような不快な熱を放ち始める。腐った砂糖と消毒液が混ざったような、甘い死の匂いが鼻腔を刺す。
「君はあの子を救いたかったんじゃない。あの子が死ぬ瞬間の『静寂』が怖くて、薬という鎖であの子をこの世に縛り付けた。……救う勇気がなかったから、あの子に地獄を強制したんだよ。」
「ねえ、ゆりえ。そんな『無駄なプライド(昨日)』を抱きしめて、これから一生、殺人犯として自分を呪って生きるの?」
「……あ、あぁ……」
その時、背後で激しい咆哮が響いた。
メルミだ。彼女はいつの間にか、教皇が作り出した透明な硝子の檻に閉じ込められていた。メルミは牙を剥き、ゆりえを助け出そうと死に物狂いで硝子を掻き毟り、咆哮を上げる。
だが。
その獰猛な獣の声は、聖堂の空気に触れた瞬間、完璧な和音を奏でる「清らかなソプラノ」へと強制的に変換された。メルミが吠えれば吠えるほど、それは教皇を讃え、ゆりえを断罪する美しい旋律となって響き渡る。
(……メルミ? あんたまで、私を……)
ゆりえの心が、音を立てて折れた。
自分の唇さえ信じられない。メルミの叫びさえも、自分を責める歌に聞こえる。
「苦しいよね。でも、大丈夫。ここに『言い訳の在庫』はいくらでもあるんだ」
教皇の意思によって、白磁の壁が無数の引き出しとなって展開した。
そこには、何万という「穏やかな死に顔の仮面」が、静かに収められていた。
教皇がその中から、一点の曇りもない笑顔を湛えた仮面を一つ選び、ゆりえの目の前に浮かべる。仮面の裏側に、美しい幻想が映り込んだ。
『奇跡を信じ、最期まで献身的にあの子を愛した聖女。安楽死を選ばなかったのは、溢れる慈愛ゆえの苦渋の決断。』
「この仮面を被れば、君の残酷な過去は『美しい物語』に書き換えられる。もう人殺しなんて言われない。琥珀の薬は『毒』じゃなく『希望』だったことにできるんだ。……都合のいい言い訳を自分に信じ込ませて、僕たちと一緒に、この完璧な和音の一部になろうよ」
ゆりえの瞳から光が消えていく。
肩を焼くがま口の重み。殺人犯としての孤独。
そこから逃げられるのなら。この「綺麗な嘘」を被ってしまえば。
「……あ……ああ……」
メルミの悲痛なソプラノが、全てを諦めさせるための、あまりに清らかな引導のように降り注ぐ中。 ゆりえの震える指先が、その白銀の仮面へと、吸い寄せられるように伸びていった。
(つづく)




