第5話:教皇 ― 硝子の聖堂と免罪の機構 ― ①
境界を越えた瞬間、荒野を支配していた砂嵐の轟音は断ち切られた。代わりに、地平線の彼方から殴りつけてきていたあの狂信的な「歌」が、今度は逃げ場のない圧倒的な質量となって、ゆりえを白銀の深淵へと突き落とした。
視界を埋め尽くすのは、呼吸さえも白く凍りつくような「清域」。 熱も、鉄の匂いも、執拗に頬を打っていた礫も、すべてが嘘のように消え失せている。だが、耳を塞いでも毛穴から浸透してくるこの「音」だけは、外界にいた時よりも鋭く、冷たく、彼女の細胞を震わせていた。
磨き上げられた硝子の回廊と、天を突く白磁の円柱。鼻を突くのは、あまりに清潔すぎて逆に鼻腔を刺すアルコールの刺激臭と、葬列を飾る百合の香りが混ざり合った、逃げ場のない「死の無菌室」の匂いだ。
ゆりえは、自分の掌を見つめた。 折れた定規を握りしめ、血を流したはずの傷口。その縁が、この空間の冷気と
「Ah-Haa-I-O-Haa……!!」
という咆哮に触れた瞬間、パキリと音を立てて硬質化していく。 赤黒い肉の感触が消え、代わりにひび割れた冷たい陶器のような、無機質な触感に上書きされる。
(……痛くない。もう、何も……)
掌を握り合わせても、伝わってくるのは骨の軋みではなく、硝子細工が擦れ合う微かな音だけだ。自分の身体が、この歌声によって丁寧に修復され、生身の重みを失っていくような感覚。痛みが消えることの恐怖よりも、その「安らぎ」に、ゆりえの意識は深く沈みそうになる。
メルミが立ち止まり、硝子の柱に結露した一滴の雫を、無造作に舌で掬った。 世界を圧殺するこの狂信的な多声合唱の中でも、彼女だけはただの犬として、乾きを癒やすための無駄な数秒を費やす。その、美しき調和を無視した毛並みの揺らぎだけが、ゆりえをかろうじて現実へと繋ぎ止めていた。
聖堂の壁面。そこには数えきれないほどの信者たちが「押し花」のように硝子の層の中にプレスされ、閉じ込められていた。彼らはただ立っているのではない。厚い硝子に肉を押し潰され、平たい断面を晒しながら、一分の隙もない和音を奏でているのだ。
彼らが喉を震わせ、歌声を上げるたびに、硝子と肉体の境界線に凄まじい摩擦が生じる。
バチ、バチバチッ!
青白い火花が信者たちの輪郭を縁取り、静電気の焦げた臭いが立ち込める。歌えば歌うほど彼らの皮膚は摩耗し、硝子と溶け合い、個人の境界を失っていく。
その歌声は、空中で重なり合い、網膜を焼くような極彩色の曼荼羅を描き出した。内臓の赤、脳髄の白、静脈の青――生命の色彩を極限まで純化し、プリズムに通したような色彩の洪水。それは意志を持って空間を踊り狂い、見る者の思考を暴力的に塗りつぶしていく。
混乱するゆりえの耳元で、羽虫のような羽音が聞こえた。
見ると、彼女の肩に掌に乗るほど小さな、人形サイズの教皇が降り立っていた。精巧なレース細工のような祭服を纏い、顔があるべき場所には強烈な収束光を放つレンズが埋め込まれた「それ」は、赤ん坊のように無垢な声で囁く。
「おめでとう。ゆりえ。今気付いたのかい?……苦しまなくていい。君は、ここで終わる権利を得たんだ」
ゆりえが悲鳴を上げてそれを振り払おうとした、その瞬間。視界が爆発した。
教皇が大きくなったのではない。天だと思っていた白銀の虚空も、壁だと思っていた硝子の重なりも、すべてが「教皇の巨大な祭服のひだ」であったことに気づいたのだ。ゆりえたちは、最初から教皇という巨大な現象の、懐の中にいた。
巨大な光の影から、清潔な白い手が滑り降りてくる。その指先には、冷たく輝く銀の注射針。教皇のレンズが、合唱の曼荼羅に生じた「綻び」を検知し、一人の老いた信者を指し示した。喉を摩耗させ、もはや硝子の破片しか吐き出せなくなった脱落者。
「今までありがとう。君は今、最も美しい『完成』の瞬間を迎えた」
教皇の冷たくも艶やかな声が響く。銀の注射針が、信者の首筋に吸い込まれていく。
その瞬間。信者は苦悶の代わりに、全存在を肯定された至上の幸福に顔を歪めた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
絶叫に近い感謝を遺し、一瞬で全身が透明な結晶へと変質する。パリン! という水琴窟のように清涼な音。命だったものの飛沫が曼荼羅に溶け、新たな色彩となって虚空を舞った。
「キィィィィィィィィィィン!!」
耳を裂く高周波の絶叫が聖堂を埋め尽くした。
それは、凄まじい歓声だった。押し花にされた信者たちが、硝子の内側から自らの首筋を爪で掻き毟り、その死を羨望して踊り狂っているのだ。
「次は私だ!」
「私を刺して!」
「私を、綺麗に壊して!」
彼らの嫉妬と渇望が聖堂全体を震わせ、ゆりえの足裏をヤスリのように削り取る。
(……綺麗だ。汚いまま生きるより、ずっと……)
ゆりえの脳裏に、湿った澱のような記憶がよぎる。
暗い部屋。喉元で鳴る嫌な喘鳴。震える自分の指先。何かを間違え、何かを損なってしまったという、形のない原罪の感触。この「完成」に比べれば、あの泥臭い足掻きは、なんと野蛮な虐待だったのではないか。
魅惑の深淵に足を滑らせかけた、その時。
「……最っ高に悪趣味なギャラリーね。あいつ(教皇)、芸術家気取りで命から『足掻く権利』を盗んでるだけじゃない」
メルミが、純白の空間に抗うように、喉を鳴らして汚れた唾液を吐き捨てた。
「あの銀の牙で突かれるくらいなら、あんたのその震える指先に首を絞められる方が、まだ『人間らしい』最期だと思わない? 少なくとも、防腐剤の匂いはしないもの」
メルミの猛毒を含んだジョークが、ゆりえの脳内の甘美な霧を切り裂いた。
その時だった。
(……laaa…… lu-laaa……)
狂信的な絶叫と、耳を刺す高周波をすべて洗い流すような、静かな旋律が聞こえてきた。
それは冷たい硝子の響きではない。凍てついた湖の氷が、春の光で解けるような。あるいは銀の鈴を、たった一振りしただけのような。ただ一筋の、汚れを知らない透明な糸が、混沌を縫い合わせるように。
「……なに、この音……?」
ゆりえの掌の、硝子化したはずの傷口が、その一音に共鳴するように微かな熱を帯びた。
聖堂の曼荼羅が、その未知の音色に恐れをなしたように一瞬だけ静止する。
(つづく)




