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第4話:皇帝 ― 鋼の都市と座標の空 ― ③



「……慈悲? 反吐が出るわね」


MRIの駆動音が消えた、暴力的なまでの無音の中で。

メルミが、低く、鋼の支配を土足で踏みつけるような嘲笑を漏らした。彼女は前脚を一本、わざとらしく投げ出し、自らの毛並みを整えるような素振りを見せる。絶望的な断罪の最中にあって、その態度はあまりに不遜で、あまりに皮肉に満ちていた。


「あんたみたいな鉄屑が、知った風な顔で『終わり』を説くなんて。計算が合わないから止めろ? 測れないから価値がない? 笑わせるんじゃないわよ! この子が抱えてる『罪』の重さも、その『残響』がどれほど彼女の血を焼いてるかも……あんたのその錆びた物差しじゃ、一生かかったって測れやしないわ!」


ゆりえは、呼吸を忘れて立ち尽くしていた。

砂嵐ノイズの向こう側で、メルミが咆哮している。それは、ゆりえが自分自身でさえ「汚いもの」として封じ込めていた自責の念を、剥き出しの肯定へと反転させる叫びだった。

メルミの瞳は、皇帝の空虚なグリッドを見据えたまま、一度もゆりえを振り返らない。その「半歩前」の背中が、今はどんな巨大な大聖堂よりも頼もしかった。


「いいこと、ゆり。あの日あんたが下したのが『最低の選択』だったとしても、それがなんだって言うのさ! 誰がなんて言おうと卑下するな! あんたは間違ってないんだ! 生きてる人間が足掻いて出した答えを、計算式と一緒に捨てるような奴らに、あんたの未来(定規)を渡すんじゃないわよ!」


――ドクン、と。

止まっていた心臓が、ゆりえ自身の意志で跳ねた。

脳の裏側にこびりついていた、あの病院の消毒液の、鼻を突くツンとした青酸のような匂いが蘇る。


(……そうだ)


視界の端で、皇帝が投げ捨てた「折れた鋼の定規」が、冷たい地面に転がっている。

真っ二つに裂け、歪み、希望の尺度としてはもう何の役にも立たないゴミ。けれど、ゆりえはそれを見つめながら、かつて真っ白な診察室で、一人きりで未来を「終わらせる」決断を下した自分の背中を、初めて外側から目撃した。


(……それは、ゴミなんかじゃない。私の決めたことだ。正しいとか、間違ってるとか……そんなこと、そもそも言われる筋合いはないんだ!)


ゆりえは一歩、踏み出した。

皇帝システムの引いた「×」の境界線を、その内側から蹴り破るように。

足元に落ちた金属の破片を、震える手で拾い上げる。

断裂した断面がてのひらに食い込み、鋭い痛みが走った。そこから滲んだ赤い血が、冷え切った鋼の定規を汚していく。鉄の匂いと、生臭い血の匂いが混ざり合い、ゆりえの意識を覚醒させる。


痛み。

それは、皇帝の出す無機質な数字なんかより、ずっと確かな「私」の質感だった。


「……正解? そんなの、私が決める! 折れてたって、これが私の形なんだ! あんたの定規で測れないなら、私の血で勝手に続きを描いてやるよ!」


ゆりえは、血の滲む手で折れた定規をがま口へと叩き込んだ。

がま口の布地が、どろりとした感触を伴って、その不条理な残骸を貪るように飲み込んでいく。


――パチン!


硬質な口金の音が、号砲スタートとなって響いた。

その瞬間、ゆりえの腰にズシリとした物理的な質量が加わる。それは、皇帝の論理を自分の内側に取り込み、拒絶した対価としての質量だった。

背骨が軋むほどの重み。だが、その重荷が、彼女の足に奇妙な駆動力を与えた。


それは、大人から見ればあまりに幼稚で、無意味な抵抗だったかもしれない。正解の欠片も持たない、ただの子供の「間違い」の固執。

けれど、その震える指先で鉄屑を握りしめ、自分だけの規律ものさしを立てようとする少女の立ち姿は、計算し尽くされた完璧な都市の支配よりも、残酷なまでにまぶしく、そして尊かった。

神さえも測り得ない、泥だらけの生命の意地。その「光」が、無機質なグリッドを内側から焼き切っていく。


「行くわよ、ゆり! 止まったらこの鉄屑と一緒に埋め立てられるわよ!」


メルミが吠えた。

呼応するように、鋼の都市が絶鳴を上げた。「×」で塗り潰されたビル群が、病院の心電図が途切れる一本の光と化し、上空へと巻き上がる。


崩落。消滅。

足元の地面さえもが砂となって崩れていく。ゆりえは振り返らない。折れた定規(罪の重み)を抱えたまま、消えゆく街の残骸を蹴って、光の無い方へ、メルミの黄金の背中だけを追って走った。

肺が焼ける。掌の傷が痛む。

けれど、立ち止まって自分を呪うよりも、この「間違い」をどこまでも突き通したいという熱い加速度が、彼女の身体を前に、前へと押し出す。



砂嵐を突き抜けた。

視界が爆発するように開ける。


鋼の残骸が消え去った後には、目も眩むような乾いた荒野。

その地平線の果て。月光を浴びて青白く、まるで内側から発光しているかのように輝く巨大な「硝子の聖堂」。


同時に、音が殴りつけてきた。


――歌。


狂信的な熱。一分の隙もない、全員が同じ一つの「終わり」だけを見つめる多声合唱。それは耳から入るのではなく、肌の毛穴を熱い針で刺すように浸透してくる。


「……何、これ……。みんな、笑ってるの……?」


ゆりえは走りながら、あまりに美しく、あまりに歪なその旋律に、吐き気のような恐怖を覚えた。

聖堂から溢れ出すのは、皇帝の冷たさとは対照的な、命をとろかすような「救済」の熱。そこへ突っ込んでいく自分たちの足取りが、まるで死へ急ぐ羽虫のように思えて、彼女はがま口を強く握りしめた。


「ねえ、メルミ! この歌……怖いよ! どこまで行けばいいの!? 止まったら、この歌に食べられちゃうよ!」


叫ぶゆりえに、メルミが首だけで振り返り、不敵に笑う。その瞳は、狂乱の光を飲み込んでなお、相棒を嘲弄するような冷静さを保っていた。


「……結構。なら、見失わないことね」


その声は、熱い讃美歌を切り裂くように、ゆりえの鼓膜に刺さった。


「あの歌声は最高級の麻酔よ。うっとり聴き惚れてごらんなさい、目が覚めた時には、あんたは『愛』っていう名の引き金を引いた立派な殺人犯セレブリティだわ。……あそこの聖堂には、あんたの分の『言い訳』の在庫が一つくらいはあるかしらね?」


メルミはさらに速度を上げ、硝子の光へと突き進む。

背後にはもう、鋼の都市の影一つ残っていない。あるのは、狂乱の旋律が天を衝く聖堂へと続く、逃げ場のない一本道だけ。

ゆりえはもはや、恐怖さえも燃料にして笑っていた。


「……上等だよ。殺人犯にでも、何にでもなってやる!」


二人の「間違いだらけの行軍」は、絶望さえも疾走の力に変えて、光り輝く狂気の聖堂へと突入していく。


(第4話・完)





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