第3話:女帝 ― 琥珀の標本とプラスチックの庭園 ― ③
ひっ掴んだ琥珀の角が、少女の掌に鋭く食い込む。 嫌な音を立てて指先から溢れ出した朱い血が、滑らかな樹脂の表面を静かに濡らしていく。だが、その熱い拍動を伴う痛みこそが、この窒息しそうなほど清潔な楽園において、少女が「まだ生きている」ことを自覚させる唯一の確かな灯火だった。
女帝は、差し伸べた腕を空中で硬直させたまま、震えていた。 その震えは怒りではなく、深い、深い悲哀の振動だ。ドレスのベルベットが擦れ合い、パチパチと鳴る静電気の音は、彼女の献身が届かなかったことへの、静かな哀しみの調べのようだった。
彼女にとって、それは裏切りなどではなかった。ただ、自分が命を削って捧げた「最高の幸福」が、救うべき愛しき子に「気持ち悪い」と拒絶されたという、理解を超えた悲劇だった。彼女の存在を支えていた慈愛の理が、音を立てて崩れていく。
女帝の瞳のない眼窩から、透明な涙が溢れ出す。それは琥珀に変わる間もなく、彼女の完璧な白い頬を伝い、プラスチックの地面を静かに叩いた。彼女は、ゆりえがなぜ、これほどまでに自分を拒むのかが、どうしても分からない。ただ、目の前の子供を救えなかった自分の無力が、彼女を震わせていた。
それでもなお、女帝は震える指先をそっと伸ばした。 「痛いのね」「汚れているのね」。 その指先は、ゆりえの掌から流れる血を、そして泥を、慈しむように拭おうと空を舞う。 その姿は、子供に「触らないで」と拒絶されながらも、それでもその子が負った小さな傷を案じ、手を伸ばし続ける、献身的で盲目な母親の姿そのものだった。彼女の愛には、一点の曇りもなかった。
少女は、その女帝の「空虚な穴」を、逸らさずに真っ直ぐに見つめた。 逃げれば楽だっただろう。けれど、ゆりえは自分がこれから行うことが、この至純な愛に対するあまりにも幼い我儘であることを自覚していた。彼女は、女帝の差し伸べる光のような善意を、自らの手で遮るという、その重みを引き受けようとしていた。
喉の奥が、熱く焼ける。 女帝の愛は本物で、これ以上なく美しかった。ただ、その「完璧な愛」の中に留まるには、ゆりえはまだあまりに泥臭く、生きた時間を欲する子供すぎたのだ。
ゆりえは、血の滲んだ手で、女帝の白すぎる指先にそっと触れた。 泥と血に汚れた小さな手が、混じり気のない純白に重なる。
「……ごめん。でも、私……泥の中で、メルミといたいんだ」
その瞬間、女帝の顔に、言葉にならないほど切実な色が浮かんだ。 彼女の薄い唇が、震えながら小さく開く。 理解し合えない悲しみの中で、それでも最後にもう一度だけ、この子に届く言葉を――心からの祝福か、あるいは消えゆく者の祈りか、その慈愛に満ちた「何か」を伝えようとした、その時。
少女は、耐えきれぬように、がま口の口金に最後の手をかけた。
――パチン!
女帝の紡ごうとした想いが音になる前に、銀色の口金が静かに、そして決定的に噛み合った。
それを合図に、世界から一切の色彩が吸い出されていく。
バリ、バリバリバリ、パリィィィィン!!
プラスチックの庭園が、耐え難い高熱を浴びたガラスのようにひび割れ、粉々に砕け散った。
深紅の薔薇は無機質な破片となって宙に舞い、精巧なビニールの花弁が剥がれ落ちたペンキのように剥落していく。
ググ、グガガガガガガ……ズドォォォォォン!
庭園の最奥、玉座が真っ二つに裂け、そこから「腐敗」という名の、湿り気を帯びた本物の風が吹き込んできた。
甘ったるい消毒液の匂いはかき消され、代わりに、土と、死と、再生の混じった、生々しい「時間の匂い」が世界を満たしていく。
女帝は崩れゆくプラスチックの残骸の中で、粉々になった琥珀の粒をかき集めながら、最後まで少女を追いかけようとはしなかった。
彼女はただ、届かなかった慈愛の残骸に埋もれ、少女が選んだ「泥の道」を悲しそうに見送りながら、透明な塵へと還っていった。
「……ふぅ。ようやく肺がまともに機能し始めたわね。あの女、自分の善意で世界を窒息死させるつもりだったのかしら?」
メルミがプラスチックの破片を足で退かしながら、少女の隣に並んだ。
黄金の毛並みに降り積もった樹脂の粉を、彼女は不快そうに身震いして振り落とす。
少女は答えなかった。
ただ、肩に食い込むがま口のストラップを、指先で強く握りしめた。
がま口の中には、今しがた収めた琥珀の錠剤がある。
それは氷のように冷たいはずなのに、布越しに伝わってくるのは、ひどく生々しい、鼓動のような熱だった。
「ねえ、メルミ。……あの人の手、すごく優しかったんだよ」
「……そう。でしょうね。彼女は本気で、あなたを愛していたもの。それが彼女にとっての、唯一の正解だったのよ」
「……わかってる。わかってるけど、でも。……あんな風にされるのが、何よりも怖かったんだ」
少女は、がま口の口金にそっと指を滑らせた。
この重みは、拒絶した「愛」の重みだ。
今の自分には、その本当の価値も、彼女9がなぜそこまでして自分を固めようとしたのかも、本当には理解できていない。
「この重さがないと、自分がどこを走ってるか分からなくなっちゃうから。……いつか、私がもっと大人になって、あの人の優しさを『気持ち悪い』って思わなくなった時に……」
少女は言葉を切り、前方に広がる、再び色が混じり始めた紫の荒野を見据えた。
「その時に、ちゃんと返しに行くよ。……今はまだ、この熱いだけのゴミを持って、走るしかないんだ」
「……お安い御用よ。重たすぎて動けなくなったら、私がそのがま口ごと引きずってあげるわ。泥落としの役目は、あくまであなたなんだから」
メルミがふんと鼻を鳴らし、一歩先に踏み出す。
少女は重くなったがま口を抱え直し、彼女の後を追った。
背後で、プラスチックの世界が完全に砂へと還り、風にかき消される音が聞こえた。
(第3話・完)




