悪女に惑わされる王子
昼下がりの光が差し込む廊下で、僕は彼女の姿を見つけた。
リアナ・グランチェス。
以前なら、どんな廊下でも周囲の視線を引き寄せる存在だった。完璧で、冷たくて、美しい――“公爵令嬢”として。
けれど今は違う。
その姿を見つけても、誰も声をかけない。
人々は彼女を見ると、ひそひそと囁き、距離を取る。
まるで、近づくだけで自分も悪に染まるとでも思っているかのように。
「……リアナ。」
呼びかけると、彼女の肩がぴくりと揺れた。
けれど、振り返らない。
僕はその背中を追いかけ、正面に回り込む。
「リアナ、話がしたい。――あの日のことを。」
その言葉に、彼女の目が一瞬だけ揺れた。
けれど、すぐに伏せられる。
「何も言うことはないわ、レオン様。」
小さな声だった。
それは否定でも肯定でもない、ただの拒絶だった。
僕は息を詰まらせた。
リアナと僕の間には壁があった。僕を遠ざけようとしている。
「セレスティアが言っていた。君が――」
「もういいの。」
彼女は静かに言葉を遮った。
「どうせ、みんな信じないもの。……あなたも。」
「違う!」
思わず声が荒くなった。
リアナは驚いたように顔を上げ、けれどその目は悲しげに揺れていた。
その瞳に映る僕は、どんな顔をしているのだろう。
「僕は、君を信じてる。けど、どうして黙っているんだ? 本当のことを言えば――」
「言ってどうなるの?」
リアナの声が震えた。
「“聖女様”の言葉が絶対なのよ。私が何を言っても、誰も信じてくれない。言えば言うほど、悪役の演技だって笑われるだけ。……だったら、黙っていたほうがましだわ。」
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
リアナがこんなふうに自分を諦めた声を出すなんて、信じられなかった。この前、もう一人が抱えこまないと約束したのに。
「リアナ……。君は悪くない。僕が、必ず真実を見つける。」
そう言った僕に、彼女はほんの一瞬だけ微笑んだ。
それは、かつて見たあの優しい笑みの影だった。
「ありがとう。でも……私のことは放っておいて。」
その一言で、僕の足は動かなくなった。
彼女はそのまま去っていく。
すれ違う生徒たちが彼女を見て、あからさまに距離を取った。
まるで、空気ごと拒絶されているようだった。
――どうしてだ。
どうして誰も彼女を見ようとしない。
どうして、聖女の涙ばかりを信じる。
中庭に出ると、セレスティアが生徒たちに囲まれていた。
彼女は白いドレスの裾を揺らしながら、弱々しく微笑んでいる。
その腕には、まだ薄く包帯が残っていた。
「セレスティア様はそれでもリアナ様を許すって……本当に聖女様ね。」
「やっぱり違うわ、私たちとは……」
そんな声があちこちで飛び交う。
僕の胸がざらついた。
セレスティアは誰にも“悪い言葉”を言わない。けれど、その沈黙が、リアナをさらに追い詰めていく。
「……レオン様。」
セレスティアが僕に気づき、ゆっくり近づいてきた。
「……リアナ様のこと、どうか怒らないであげてください。きっと、心が疲れていたんです。」
彼女は慈愛に満ちた声で言う。
それを聞いた周囲の生徒たちは、一斉に彼女を見上げた。
聖女の寛大さに涙ぐむ者すらいた。
「……ありがとう。そう思ってくれて嬉しいよ。」
そう答えた僕の声は、ひどく乾いていた。
本心ではない。
彼女を傷つけたくないだけの、上辺の言葉だった。
たぶん、彼女は気づいているけど。
本当に信じているのは、あの日の夜に見たリアナの涙だ。
“もう誰も傷つけたくない”と震えていたあの声。
あれが嘘であるはずがない。
けれど、真実を信じれば信じるほど、世界が僕を裏切っていく。
誰もが、聖女を崇め、悪役令嬢を断罪する。
僕だけが逆の夢を見ているようだった。
リアナの姿は、もう遠くに見えない。
あの背中を追いかけても、きっと彼女は振り向かない。
それでも――
信じる。
彼女のことを、誰よりも。
たとえこの世界のすべてが彼女を悪と呼んでも。




