理性と感情
学院の朝は、いつもと違ってざわついていた。
まるで風が噂を運んでいるように、どこを歩いても同じ言葉が耳に入ってくる。
「リアナ様が……聖女様を攻撃したんだって」
「本当? でも、あの聖女様が倒れてたのよ」
「やっぱり“悪女”は怖いわね……」
その瞬間、僕の心臓がひどく嫌な音を立てた。
信じられなかった。いや、信じたくなかった。
リアナが――莉亜が――人を傷つけるようなことをするはずがない。
僕はすぐに授業を抜け出し、医務室へ向かった。
廊下を抜けるたびに、ざわめきが背中にまとわりつく。
学院全体が、誰かの罪を決めつけたくて仕方がないような空気だった。
医務室の扉を開けると、そこにはセレスティアがいた。白いシーツの上で、彼女は肩を震わせていた。薄いガーゼが腕に巻かれ、その下には淡く赤い痕がのぞいている。
誰が見ても「攻撃された」と思うような跡だった。
「……レオン様」
彼女が顔を上げた。瞳には涙が浮かんでいる。
僕は思わず駆け寄った。
「セレスティア。何があった?」
「……リアナ様に……魔法をかけられました……」
その言葉を聞いた瞬間、息が止まった。
胸の奥で、何かが大きくひび割れる音がした気がした。
「リアナが……?」
「信じられないでしょう。でも……私が話しかけたら、突然……」
セレスティアは俯き、震える声で続けた。
「“聖女なんてうんざり”って、そう言って……魔法が走って……。気づいたら倒れていました……」
――そんなこと、あるはずがない。
脳裏に浮かぶのは、あの夜に泣きながら「もう誰も傷つけたくない」と言っていたリアナの顔。
誰よりも優しい彼女が、そんなことを言うはずがない。
けれど、目の前のセレスティアの腕には確かに傷がある。
それがすべてを覆してしまいそうで、僕は息をのんだ。
「……わかった。今は休め。僕が調べる。」
そう言うと、セレスティアは涙をこぼしながら小さく頷いた。
その姿を見た誰もが、彼女を“被害者”だと信じるだろう。
医務室を出ると、噂はすでに炎のように広がっていた。
“悪女”という言葉が、誰の口にも自然に乗る。
誰もが、悪を作り出すことで安心している。
まるで、そうすることで世界の秩序を守れると信じているかのように。
僕は拳を強く握りしめた。
――リアナがそんなことをするわけがない。
頭ではわかっている。理屈では、目の前の証拠が彼女を指している。
けれど、心が拒んでいた。
あの笑顔を、あの震える声を、知っている。
あんなに優しい彼女が、誰かを傷つけるわけがない。
もし彼女が本当に誰かを傷つけたのだとしたら――それはきっと、自分を守るためだ。
教室に戻ると、視線が一斉に僕へと向けられた。
囁き声が交わされる。
「王子様も騙されている」
「悪女の魔力に魅了されている」――そんな声。
耳障りな音が、胸の奥を刺した。
僕は机の上に手をつき、ゆっくりと息を吐いた。
――誰が何を言おうと、僕は信じる。
リアナが悪役令嬢なんかじゃないことを。
彼女は、誰よりも人を想う人間だということを。
それでも、心のどこかがざわついていた。
“聖女なんてうんざり”という言葉。
あれは、セレスティアの嘘か? それとも……。
信じたいのに、疑いの影が離れない。
窓の外を見ると、雲が月を覆い隠していた。
まるで、真実が闇に閉ざされていくようだった。
――リアナ、君はいったい何を抱えているんだ。
その答えを知りたくてたまらなかった。
けれど、次に彼女と顔を合わせたとき、
リアナはまるで僕を避けるように、視線を逸らした。
その小さな仕草が、胸の奥を痛く締めつけた。
そして僕は、ようやく気づく。
この学院で、真実を語れる人間は、もう誰もいないのだと。




