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彼氏に浮気されたので「AIレンタル彼氏」で浮気し返した話

晃一の浮気が発覚したのは、土曜の夜だった。


ベッド脇の床で、短く振動音が鳴る。晃一のスマートフォンだった。

拾い上げたのは、画面を覗くためではない。ただ、脱ぎ捨てたスラックスの上で震え続けていたから、サイドテーブルへ戻そうとしただけだ。

ロック画面に、メッセージの冒頭が表示されていた。


『昨日はありがとう。次は朝までいたいな』


差出人の名前は「美沙」と登録されていた。

友香はしばらく、その文字を見つめていた。

浴室の扉が開く音がする。友香がスマートフォンを持っているのを見て、シャワーを浴びていた晃一の顔は青ざめた。


「何してんの」

「何も。落ちてたから拾っただけ」

「……」

「美沙って誰?」


晃一は答えなかった。濡れた髪から落ちた雫が、灰色のTシャツに濃い染みを作る。

その沈黙だけで、充分だった。


「いつから?」

「……三か月くらい」

「そう」


友香はスマートフォンをサイドテーブルへ置いた。自分でも驚くほど、平坦な声だった。

晃一は困った顔で髪を掻いた。


「別に、本気じゃないから」


謝罪より先に、言い訳が来た。


「それ、どういう意味?」

「いや、だから。友香と別れたいとか、そういうんじゃないってこと」


十年のあいだに、二人の生活には細かな役割ができていた。晃一はゴミの日を忘れ、友香は忘れたことを責めながら代わりに出す。友香は仕事で帰りが遅くなり、晃一はコンビニで二人分の夕食を買う。週末には録画したドラマを観て、次に買う家具や、いつか住みたい街の話をした。

その「いつか」の中には、結婚も含まれていた。


「じゃあ、なんで」


晃一は目を逸らした。


「最近、友香、ずっと仕事ばっかだったし。なんか……女っていうより、同居人みたいで」


胸の奥に薄い刃を差し込まれたような気がした。

けれど友香は笑った。会社で理不尽な修正を求められたときと、同じ笑い方だった。


「なるほどね」

「友香?」

「もう寝る。明日、友達と約束あるから」


本当は、何の約束もなかった。



*



『外見や性格について、ご希望の条件を入力してください』


翌日、寝不足の顔で友香はタブレットの画面を睨んでいた。

検索履歴には、「彼氏 浮気」「浮気された 別れるべき」「十年 別れる 後悔」といった言葉が並んでいる。

そして今、画面に表示されているのは、『AIレンタル彼氏』というサービスの注文フォームだった。

友香はアンケートのラジオボタンのチェックを埋めていく。


雰囲気は――なるべく軽薄そうな。

服装は――派手。

性格は――社交的で、自信家で、馴れ馴れしく。

髪型の希望欄には、「明るい色」と入力した。


晃一は黒髪で、無地の服を好み、人前ではあまり喋らない。外食ではいつも同じ店を選び、旅行の計画は友香に任せた。十年かけて馴染んだ男を、設問ごとに裏返していく。


最後に、利用目的を選ぶ項目があった。

〔恋愛体験〕〔イベント同伴〕〔その他〕。

友香は「その他」にチェックを入れ、自由記入欄に記入する。


『浮気の仕返し』


入力した文字を見ているうちに、急に自分がひどく幼稚に思えてきた。

AI彼氏……。どうせ、こちらが望む言葉を返すだけだ。壁に向かって「好き」と言い、壁に「好き」と返してもらうのと何が違うのだろう。

こんなことをするより、晃一と別れるか、許すか、決めればいい。


けれど、決められなかった。

十年だ。

二十歳の頃から三十歳になるまで、人生の三分の一を、晃一の隣で過ごした。結婚も考えていた。そんな中での特大のイレギュラーだ。

いまさら彼のいない生活をするのも、このまま笑顔を取り繕って過ごすのも、うまく想像できなかった。

何か、材料が欲しい。


友香は『注文を確定する』を押した。



*



約束の土曜日。

同棲している家に呼べるはずはない。『それ』とは、家から3つ離れた駅で待ち合わせた。


「どーも。友香ちゃん」


そこに現れた男を見て、友香の顔はこわばった。

くすんだ金色の髪。耳元には小さな銀色のピアス。黒いシャツの襟元を広く開け、その上から鮮やかなブルーのジャケットを羽織っている。整った顔立ちは間違いなく美形のそれだが、薄く浮かべた笑みが、いかにも信用ならない。


「トオルでーす。今日はよろしくね」

「…………」

「あれ? 友香ちゃんだよね?」

「……はい」

「あ、よかった喋ったー」


トオルは白い歯を見せて笑った。

友香は早くも後悔した。

当たり前だが、まったく好みではない。間延びした喋り方も頭が悪そうで、今まで属したどのコミュニティにもいないタイプだ。


「事情、聞いてるよ。彼氏に浮気されちゃったんだって?」


おまけにセンシティブな話題にズカズカと踏み込んでくる。


「……そうよ」

「ひどいヤツだね。こんなカワイイ彼女を悲しませるなんて。俺なら絶対そんな思いさせないのにな」

「そういうおべんちゃら、いらないから」

「あれ? そう?」

「あなたはあくまで仕返しの道具だから。それ以上のことは期待してない」

「はは。おっけー、おっけー」


右手でOKのサインを作ってへらへら笑っている。道具と言われても、まるで気にしていない様子だ。

こういう男が好きな女性も、確かにいるのだろう。自分には理解できない好みまで、このサービスはカバーしている。ビジネスとしては、当然の話だ。


「じゃ、早速デート行こ」


トオルは手を差し出しかけ、途中で止めた。


「手、つないでいい?」


そんなこと確認されるとは思わず、面食らう。


「……まだ、いい」

「了解」


彼はへらへら笑ったまま、差し出した手をポケットへしまった。



*



トオルが友香を連れていったのは、古い商店街の奥にあるゲームセンターだった。

晃一とは一度も来たことがない。友香自身、学生の頃以来だった。


「私、普段こういうところ来ないんだけど」

「だから来たんじゃん」

「は?」

「彼氏としたことあるデートをなぞっても、仕返し感ないでしょ?」


トオルは入口で1000円札を両替すると、友香の手のひらに何枚か落とした。触れた指先は、人肌とほとんど変わらない温度だった。


バスケットボールのゲームで、トオルは一投目から盛大に外した。


「ちょっと。本気でやってる?」

「やってるって」

「最新鋭のヒューマノイドとやらじゃないの?」

「だからって何でもできると思われちゃ困るなー」


そういうものなのだろうか。友香もボールを投げた。リングの縁に当たり、弾かれる。

二人とも下手だった。

それでも、残り時間が減るにつれ意地になった。肩をぶつけるように並んで投げ、外しては軽口をたたき合った。終了音が鳴ったとき、得点は隣で遊んでいた小学生の半分にも届かなかった。


「うぇーい、俺の勝ち。友香ちゃんより二点高い」

「機械のくせに大人げない」

「ねー、機械機械って言うのやめて」

「事実でしょ」


言い返したあと、友香は自分が声を上げて笑っていたことに気づく。

ずいぶん久しぶりのことのように思った。

熱が少し落ち着いてから、トオルが脇のプリクラ機を指す。


「撮る? 仕返しにピッタリ」


晃一の顔を思い出し、友香の胸がわずかに冷えた。


「……撮る」


狭いブースに二人で入る。画面の指示に従って顔を寄せると、トオルの頬がすぐそばに来た。香水の匂いがかすかにする。


『撮るよ~! 3・2・1……』


甲高い案内の音声が流れる。振り向けば、トオルの頬に鼻が触れてしまいそうだ。友香は意識的にカメラに集中した。

シャッターが下りる。


「友香ちゃん、表情かたいよ。緊張してる?」

「久しぶりだから」

「こんなんじゃ、仕返しになんないよ」


トオルの声の響きが近くなる。カメラではなく、自分に顔を向けているのがわかる。


『また撮るよ~! 3・2・1……』

「つぎは、もっと恋人っぽくして」

「……」



*



「あーあー」


取り出し口に出てきたプリクラを取り出し、トオルは苦笑しながら友香に見せる。

トオルは自然な笑顔で軽いポーズをきめているが、友香はどれも同じ表情で固まっていた。

友香は恥ずかしくて俯いた。

復讐の一枚にしては、切実すぎる表情だった。


トオルは写真を一枚だけ切り離し、自分の胸ポケットへ入れる。


「もらってくね。今日の記念」



*



日が暮れてから、二人は雑居ビルの屋上にある小さなバーへ入った。

ネオンの光がグラスの表面を滑り、遠くにはビルの窓明かりが浮かんでいる。会社帰りに晃一と行く店なら、友香は隅の落ち着いた席を選んだだろう。けれど今夜は、カウンターに座った。

トオルはオレンジ色のカクテルを傾ける。飲み物を飲むことができる機能について説明され、友香は驚いた。


「いる? その機能」

「必須だよ。こうやってお酒に付き合えるし。それに俺は酔わないから、もし友香ちゃんが酔いつぶれても、絶対に介抱してあげられるしね」

「何もしない?」

「しないよ」


まっすぐ返され、友香はグラスに口をつける。


「本当かな。そういう性格で下心がないっていうのは、リアルさに欠けるんじゃない?」

「えー、それは偏見でしょ。こういう男ほど真面目なもんだよ? てか、セクハラだ、セクハラ」

「恋人間でセクハラもないでしょ」

「恋人だと思ってくれてるんだ? 道具って言ってたのにね」


グラスを持った手が固まる。何も言い返せなかった。

トオルはにやにや笑っている。


「てか、下心あるのはそっちでしょ?」


カウンターに置いていたほうの手を、トオルの指が包む。

最初は軽く。拒まれないことを確かめるように、ゆっくりと指の隙間へ入り込んでくる。

友香の心臓が大きく跳ねた。

トオルはそのまま、腕を友香の肩に回して引き寄せる。


「今は、これだけ」


耳元で、低い声が響く。


「それって、どういう……」

「もうちょっと待ってて」


トオルは友香の髪に鼻をうずめ、小さく囁く。


「いつか、抱き倒してあげるから。友香ちゃんのこと」


薄っぺらい台詞だと思った。

けれど、十年一緒にいた男からさえ、もうずっと向けられていなかった熱を、その声の中に感じた。



*



友香はすぐに次回の予約を入れた。

外見や性格の条件設定は、前回と同じ。

利用目的は……。悩んだ末に〔その他〕にチェックをいれ、自由記入欄には何も書かなかった。


再会までの一週間、友香は久しぶりに服を買った。仕事帰りに化粧品売り場へ寄り、普段なら選ばない明るい色のアイシャドウを手に取った。

鏡の中の自分が、少しずつ知らない女に変わっていく。

悪くなかった。

トオルから連絡が来ることはない。彼はラボで管理され、予約された時間だけ友香の恋人になる。

それでも友香は、ふとした瞬間にトオルのことを考えた。昼休みのエレベーターの中で。会議中、上司の話を聞き流しながら。眠りに落ちる直前、暗い寝室で。

胸の内側がふわふわと浮くようだった。


晃一が気づいたのは、二度目の予約の前夜だった。


「最近、何か変じゃない?」


ソファでテレビを観ながら、唐突に言った。


「何が」

「服とか、急に買ってるし。明日の休みも、カレンダーに「予定あり」って書いてるよな。これ何?」


友香はアクセサリーを整理する手を止めた。

なんと答えるか迷っていると、晃一の追撃が来る。


「もしかして、浮気してる?」

「……はは」


なんとも直球で身勝手な問いに、笑いが漏れた。


「そうだよ。浮気するのってどんな気持ちなのか、知りたかったから」

「は? 本当に? 誰と」


晃一は弾かれたようにソファから立ち上がる。見るからに焦っている。その様子を見ても、友香が想像したほどの満足感はなかった。


「トオルっていう子。若くて、派手で、よく喋るの。晃一と真逆だね」

「どこで知り合った」

「内緒」

「内緒じゃないだろ!」


晃一の声にだんだん怒気が含まれる。


「どこの男なんだよ。会社か? 教えろ! ふざけた真似しやがって」

「どの口が言ってんの……」

「スマホ見せろ。やりとりあるだろ」

「ちょっと! やめてよ!」


晃一は友香のポケットから強引にスマホを奪う。友香が取り返そうとするのを押し返しながら、チャットアプリのログを見る。

だがチャットアプリにトオルという男とのやりとりはない。晃一はそこで引き下がらず、メールフォルダを見る。そこで一番最新の受信メールに目を留めた。


『【明日のご予約のお知らせ】AIレンタル彼氏サービスより』


「AIレンタル彼氏……?」

「返して!」


晃一は友香の声を無視してメールを開く。怪訝そうな顔でスクロールし、内容を確認する。


「返してってば!」


友香がスマホを取り返す。晃一はもう抵抗せず、友香にスマホを返した。


「浮気相手って、これのこと?」

「……そうよ」


晃一の顔から緊張が消えた。

一拍遅れて、吹き出す。


「なんだ……びっくりさせんなよ! オモチャじゃん」


晃一は安堵しきった顔で笑い、ソファへ座り直した。


「友香、そういうの興味あったんだ。何、“トオル”って名前つけて恋人ごっこ? あー、バカバカし」


燃えているのかと思うほど、羞恥で顔が熱くなった。

友香自身、注文したときは同じことを思っていた。くだらない。幼稚だ。機械に慰めてもらうなんて、惨めだ。

だから、怒ることもできなかった。


「……まあね。馬鹿みたいだよね」


そう言って同調すると、喉の奥に苦いものが残った。

晃一は友香の自嘲的な笑みを見て、それを許しの兆しだと思ったらしい。


「まぁ、俺も悪かった。美沙とはもう切ったから」

「……そう」

「本当に、遊びだったんだよ。もうしない」

「うん」


友香は頷いた。

言葉の上では、それが仲直りになった。



*



予約確認画面の下で、「キャンセル」のボタンが赤く光っている。

押せば、元の生活に戻れるだろう。

十年続いた、先の見える生活。晃一は人間だ。画面の中の条件に従って笑う存在ではない。腹が立つことも、傷つけられることもある。それが、他人と関係を作っていくということだ。

友香はキャンセルボタンへ指を置く。


長く迷ったあと、画面を閉じた。

最後に一度だけ、会って話そうと思った。



*



待ち合わせ場所は、友香のマンション近くにある小さな公園だった。

夕暮れの遊歩道に、トオルは先に来ていた。今日は暗い赤のブルゾンを着て、ベンチの背に両腕を広げている。

友香を見ると、いつもの軽い笑みを浮かべた。


「あれ。今日はずいぶん地味なかっこうだね」

「うん」

「その顔、楽しいデートする感じでもないね」


友香は彼の隣へ座った。

しばらく、何も言えなかった。


「……もう、会えない」

「そっか」


驚きも、落胆もない声だった。


「彼と、やり直すことにした」

「うん」

「何か言わないの?」

「何かって?」

「そんな男やめとけ、とか」

「そう言ってほしくて呼んだの?」


友香は俯いた。


「……そういう聞き方、ずるい」

「じゃあ、勝手に言うけど」


トオルは背もたれから背を浮かせ、友香へ向き直った。


「俺は、友香ちゃんが自分を馬鹿にするの、好きじゃないよ」


胸が詰まった。

その瞬間、背後にガサ、と足音がした。

振り返ると、晃一が立っていた。


「なんでここに……」

「キャンセルしたって言ってたのに、出かけていったから。ついてきてみたら案の定だよ」


晃一はトオルをじろじろと眺める。

トオルはおもむろに立ち上がった。晃一より背が高い。

晃一は一瞬たじろぎ、それを隠すように鼻で笑った。


「気持ち悪いくらいよくできてるな。もっとロボットっぽいのかと思った」

「晃一、帰って」

「何だよ。仲直りしただろ。こんなの、もう必要ないじゃん」


晃一はトオルの肩を押す。


「今はトオルと話してるから……。お願いだから帰って」

「何。まさか、こんな鉄くずに夢中になってるわけ? 本当に?」

「鉄くずじゃない」


咄嗟に出た一言だった。

晃一の顔から笑みが消える。


「俺が悪かったけどさ。浮気されたからって、ロボットを恋人にするなんて、こんな悲しいことないよ。まさか、これとヤったの? 男版ダッチワイフってこと?」

「ヤってねぇよ」


トオルが割り込んでくる。


「友香ちゃんを侮辱するな」


軽薄な調子の消えた、低い声だった。

晃一の身体が竦む。自分より体格の大きい男に凄まれたことに、単純な怯えを露わにしていた。

けれど、すぐに口元を歪める。


「“友香ちゃん”って……。ロボットのくせに。セックスもできないおもちゃが、彼氏気取り?」


友香の中で、何かが切れた。


「それなら、あんたはセックスができるだけじゃない」


晃一が振り返る。信じられないという表情を浮かべている。


「あんたなんて、トオルに何一つ勝ってない! あんたといた10年よりも、トオルとのデートのほうがずっと楽しかった!」


晃一の顔が、醜く歪む。


「……ふざけんな!」


友香に向かって振り上げた腕を、トオルが掴む。


「やめろ!」

「離せ!」


もみ合ううち、晃一が体当たりするようにトオルを突き飛ばした。

トオルの身体が遊歩道脇の金属柵へ激突する。鈍い音が響いた。


晃一の動きが止まり、顔が青ざめる。やっちまった、という顔だった。


トオルの首の皮膚の裂け目から、鮮血の代わりに、銀色の骨格と束ねられた配線が露出する。

それを見た途端、晃一は安堵の息を吐いた。


「……何だ。やっぱり機械じゃん」

「トオル!!」


友香は悲痛な声を上げ、トオルに駆け寄る。

晃一はそんな友香を見て、表情に嫌悪感をあらわにする。理解できないものを見る目だった。


「大丈夫? 怪我が……」

「平気平気。皮膚ユニットが裂けただけだから――」


へらと笑って起き上がろうとしたトオルを、晃一はもう一度強く突き飛ばした。


「トオル!!」


トオルは背後の階段を踏み外し、転がり落ちていく。

ゴロゴロと転がった音のあと、踊り場で金属が砕ける、乾いた音がした。

友香は階段を駆け下りる。


トオルは不自然な姿勢で倒れていた。目が虚ろになり、右腕と左足の関節が外れ、金属が飛び出していた。

胸ポケットから、前回撮ったプリクラがこぼれ落ちている。

その身体はぴくりとも動かない。


「トオル? ……トオル?」


揺さぶっても、返事はなかった。

遅れて下りてきた晃一が、強張った顔でそれを見ていた。


「ほらな。こうなったら鉄くずと同じだ。こんなおもちゃにいくら払ったんだよ。目、覚ませよ」


侮辱的な言葉と裏腹に、いくらかばつが悪そうな声色だった。

人を殺したような感触の気持ち悪さを、必死に打ち消そうとしているのだとわかった。


友香はトオルのそばに落ちていた、大きめの金属片を手に取る。トオルの、どこかの内部パーツが外れたものだろうか。先端が鋭く尖っている。

それを握り、ゆらりと立ち上がった。

その表情を見て、晃一の顔から色が消えた。


「友香?」


友香は目が据わった表情で金属片を握りしめる。


「あんただって、死ねば肉くずでしょ」

「おい、冗談だろ? やめろって……。うわっ」


晃一が後ずさり、階段につまづいてしりもちをつく。

友香を見上げる顔には、怯えが浮かんでいた。

十年一緒にいた男が、初めて自分を恐れている。

その姿を見た瞬間、友香の中に残っていた迷いが、きれいに消えた。


「別れよう」

「は……?」

「二度と、私の前に現れないで」


友香は金属片をその辺りに放り投げる。乾いた音が響く。

晃一がどんな顔しているか、もうどうでもよかった。友香は動かなくなったトオルの隣へ膝をつき、痛々しい傷跡を優しく撫でた。



*



友香は、喪服のような黒いワンピースを着て、レンタルヒューマノイド開発室を訪れた。

台車の上には、壊れたトオルが横たわっている。


「本当に、ごめんなさい」


受付を兼ねた研究室で、白衣の女性――博士は、静かに応対した。


「……申し訳ありませんが、今回のケースは第三者による事故とは認定できません。契約時の規約に沿って、補償金をお支払いいただきます」

「はい」


友香は淡々と返事をし、淡々と署名する。

博士は手続きを終えると、声を和らげた。


「今回のことでブラックリスト入りになったりはしませんから、どうぞ、ぜひまたご利用くださいね」

「いいえ」


友香は微笑んだ。


「しばらく、恋愛はしません。

だって、そうでしょう。恋人が死んだら、ふつう、すぐに次のことなんて考えられない」


友香は横たわったトオルにそっと近づく。

そして機械の内部が見えている手を、いとおしそうに握った。


「トオルは私にとって、本当の彼氏だったから……」


友香は声を震わせ、涙を流す。

博士は友香が落ち着くまで、静かに見守っていた。




*

*

*




両目に青白い光が灯り、ゆっくりと焦点を結ぶ。

修理台の上で、トオルが目を開けた。


「おはよう、トオル」


博士が覗き込む。


「システムチェック。識別番号と現在地を」

「TR―01。レンタルヒューマノイド開発室、整備区画です」


友香の前で見せていた軽薄な響きは、声から完全に消えている。抑揚の少ない、ニュートラルな口調だ。

博士はモニター上の数値を確認する。


「主要メモリに破損がなくて良かった。では、今回の所感と反省を聞かせて頂戴」


トオルは仰向けのまま、淡々と答えた。


「私の外見と性格設定は事前アンケートの要望に適切に沿ったものでしたが、初回の対面時、クライアントの反応は好意的なものではありませんでした。

クライアントは交際相手への当てつけとして、交際相手に該当する特徴と反対の条件を入力したと推測します。

しかし、二回目の利用時点では、私との接触そのものが目的に変化していました。クライアントが自己申告する嗜好は、必ずしも愛着の形成条件と一致しません」

「そうね」


博士がコンピューターに何かを入力する。


「他には?」

「クライアントが、私との肉体的なつながりを期待する場面がありました。これも、交際相手との関係の反動と考えられます」


博士の手が止まった。

修理台の上で、トオルは瞬きもせず天井を見つめている。


「そう」


博士は、トオルの下腹部へ視線を落とす。そして、小さく呟いた。


「……急がないとね」

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