「AIレンタル彼氏」を借りてみた話
昼間の駅は、穏やかな喧騒に包まれていた。人々が足早に行き交う中、女が、何かを待つように立っている。視線はキョロキョロとさまよい、緊張がその肩に影を落としていた。
やがて、一人の男が近づいてくる。
「歩美さん」
名を呼ばれ、女ははっとして振り向く。
「こんにちは。トオルです。今日はよろしくお願いします」
トオルと名乗った男は、思わず目を引く容姿をしていた。整った目鼻立ちに、柔らかな笑み。爽やかという言葉がそのまま人の形を取ったような風貌だ。
歩美は一瞬言葉を失ったのち、おずおずと問いかける。
「あの。本当に、あなた、機械なんですか?」
トオルは変わらぬ微笑みを保ち、静かに頷いた。
「ええ。対人コミュニケーション特化AIを搭載した、最新鋭のヒューマノイドです」
彼の所作は、息遣いから指先の動きまで、まるで本物の人間と見分けがつかないほど自然だ。歩美の瞳に、疑いの色が浮かぶ。
「証拠は……ありますか? 人間じゃないという証拠です」
トオルはわずかに首を傾げ、考える仕草をする。
「そうですね……。皮膚ユニットの下を見てもらえたら納得いただけると思いますが、レンタル中の怪我は、第三者起因の事故以外、クライアント様の弁償になりますから、あまり望ましくないですよね」
彼はふと、何かを思いついたように目を輝かせる。
「そうだ。こういうのはどうでしょう」
トオルの瞳が、わずかに光を帯びる。
「今この瞬間、僕は歩美さんの筋肉の動きを47箇所解析中です。同時に、周囲の雑音レベルと風向きを計算して、歩美さんの髪が揺れるタイミングを予測しましょう」
「え?」
歩美の表情に、戸惑いが広がる。トオルはおかまいなしの様子で続ける。
「三秒後、右側の前髪が頬に触れます」
「ちょっと……何?」
「3……2……1」
そのカウントと同時に、ふわりと風が吹いた。歩美の右側の前髪が持ち上がり、頬にやわらかく触れる。歩美は息を呑み、目を見開いた。
「っ……」
「どうでしょうか。人間にはできない芸当でしょう?」
トオルは誇らしげに微笑んでいる。歩美はしばし言葉を失い、やがて小さく息を吐いた。
「……ええ。納得しました」
目の前に立つ存在が、ただの人間ではないこと。
そして、自分が“それ”をレンタルしたということを。
*
――ほんの数日前のこと。
自室の小さなデスクの上に置かれたノートパソコンが、青白い光を放っている。
パジャマ姿の歩美は、膝を抱えるようにして座り込み、画面に映る「レンタルヒューマノイド彼氏」のサイトを、じっと見つめていた。
サイトのデザインは洗練されていて、安心感を誘うものだった。料金表と利用規約、そして電話番号。歩美の指は、ためらいながらも、ゆっくりとスマートフォンにその番号を打ち込む。
呼び出し音が数回響いた後、落ち着いた女性の声が耳に届く。
『お電話ありがとうございます。レンタルヒューマノイド開発室です』
その落ち着き払った声音に、歩美は思わず背筋を伸ばした。
『レンタルのご利用ですね。ご希望の条件はございますか?』
「ええと……なるべく、優しそうな雰囲気で」
『ふむふむ』
電話の声の女性が、短く相槌を打つ。メモを取るような音が微かに聞こえた。歩美はさらに言葉を続ける。
「あと……こちらの身体の、どこにも触れないで、ください」
沈黙はなかった。
『かしこまりました。身体接触は一切なし。条件を最優先に設定いたします。
では、当日ご自宅に向かわせますね。ご希望の日時は……』
「いえ、あの……家はちょっと。
外で、駅とかで待ち合わせとかって……出来ますか?」
『もちろん! 承りました』
歩美は安堵したように小さく頷き、駅の名前と時間を告げた。博士は丁寧に復唱し、確認を取る。
手続きが終わり、電話を切ったあとも、歩美はしばらく画面を見つめていた。
*
歩美とトオルは駅からほど近い、落ち着いた佇まいの喫茶店に腰を落ち着けていた。
「いい雰囲気ですね。よく来られるんですか?」
向かいの席で、トオルが穏やかに微笑む。
「……以前は、よく来てました」
店員が注文を取りにやってくる。
「ブレンドで」
「僕も同じもので」
歩美はちらりとトオルを見やり、胸の中で小さく呟く。
(飲み物、飲めるんだ)
カップが運ばれるまでの短い時間が、歩美には妙に長く感じられた。沈黙を避けるために、口を開く。
「えと……トオルさんは、普段は何をされてるんですか?」
「普段はラボの中にいますね。博士と喋ったり、雑用をこなしたり。それ以外は休んでいます」
「博士って……あの、私が電話で話した人ですかね」
「ええ。彼女が僕を作りました」
「そうなんだ……」
何気ない、自然な言い回しだった。“作りました”という言葉だけが、わずかに現実から浮いている。
注文のコーヒーが運ばれてくる。湯気が細く立ち上り、二人の間に漂う。歩美はそっとカップに口をつけ、トオルもまた、同じようにカップを傾ける。
しばし静寂が訪れる。歩美は気まずそうに視線を窓の外へと逸らした。
(失敗したな……。
こんなかっこいい人と話したことないから、落ち着かないし……。
お金の無駄だったかも……)
トオルはカップを置き、静寂を破る。
「よかったら、僕にもあなたの話を聞かせてください」
「私の……ですか……」
「何でも構いませんよ。
そうだな。では、今朝は何を食べましたか?」
歩美は視線を落とし、わずかに逡巡する。硬くなった指先がカップの取っ手に触れ、コーヒーの表面が波打つ。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……オムレツと、トマトのサラダ、それにベーコンを少し。
あとは……パンを焼いて、フルーツとヨーグルトのスムージーを作って……そんな感じです」
トオルは目を輝かせ、純粋な驚きと尊敬を表す。
「すごいですね。朝からそんなに手の込んだものを」
歩美は小さく首を振り、苦笑いを浮かべた。
「どれも簡単なものですから……。
でも、昔から料理は好きなんです」
「素敵ですね。得意な料理は何ですか?」
「……たこ焼き、かな」
「ええ? たこ焼き?」
トオルが思わず声を上げた。
「うん。竹串で綺麗に丸くするの、得意なんです。子供の頃から」
歩美の口元が、わずかに緩む。トオルと出会ってから、初めて見せる微笑みだった。
「へえ……」
トオルも、まぶしそうに笑う。
「僕も食事が取れる身体だったら、食べてみたかったな。歩美さんのたこ焼き」
「……ご飯、食べられないんですか?」
「そうなんです。飲み物は飲めるんですけどね」
トオルは軽く脇腹に手を当て、説明する。
「このあたりにタンクがあるんです。
たくさん貯められるわけではないですが、コーヒーの一杯くらいは飲めますよ。
でも、食べ物は衛生的に問題があるので……」
歩美は眉を寄せ、理解できないという様子で尋ねた。
「どうしてそんな機能が?
栄養が必要なわけじゃないですよね」
そう言った瞬間、彼女は後悔したように口元を押さえる。
「あ……もしかして、こういうのって失礼なのかな。ごめんなさい……」
トオルは優しく首を振り、柔和な笑みを浮かべた。
「いいえ。失礼じゃありませんよ。疑問に思われるのも無理ありません」
彼は少し間を置いて、静かに続ける。
「あなたに心を開いてもらうためです。食事をしている間、じっと見られてるだけじゃ、何だか嫌でしょう?」
「はぁ……そういうものでしょうか」
「あ、それに食事はできなくても、料理はできますよ。
一緒にたこ焼き作ったりしたら、楽しそうですよね。綺麗な丸め方、教えてもらいたいです」
トオルは屈託のない笑顔を浮かべている。歩美はその顔を、じっと見つめていた。
*
二人は喫茶店を後にして、ショッピングモールの中にある雑貨屋へと足を運んだ。
木の香りと乾いた土の匂いが混じり合い、柔らかな照明が棚を優しく照らしている。
奥の棚には、陶器や木彫りで作られた小さな動物たちが、整然と並んでいた。どれもリアル寄りの造形ながら、どこか愛嬌を感じさせる表情をしている。
「かわいい」
「本当ですね。それにすごく精巧だ」
歩美は指先でそっと置物に触れる。
「こういうちまちましたインテリア集めるの、好きなんです。見るのも飾るのも」
「へえ」
トオルは歩美の横顔に微笑みかける。
「歩美さんのお部屋は、きっと素敵なんでしょうね」
「……別に。普通ですよ」
歩美は視線を逸らし、そっけなく答える。トオルは大して気に留めない様子で、棚の一角を指さす。
「あ。これ、歩美さんみたいですね」
彼が指したのは、一羽の白鳥が優雅に佇んでいる、陶器の置物だった。
「え? どこが?」
「静かで、繊細な雰囲気があって、美しいところです」
「うわあ。お世辞が上手ですね」
歩美はわざと平坦な声で笑う。
「あらら。本当なのに……」
「じゃあ、トオルさんはこれかな」
歩美が指さしたのは、ぴんと身体を伸ばした、耳の大きな細身の獣の置物。きりっとした表情をしているが、それが逆にどこか間の抜けた可愛らしさを感じさせた。
「……これは。フェネック?」
「なんか、真面目そうで」
トオルは置物を手に取り、顔の前に持ってきてじっくりと眺める。
「……確かに、姿勢がいいですね。あと、目線が少し高くて、周囲をよく観察しているように見えます」
「あはっ」
思わず、歩美が笑い声を上げた。
「そんな分析しなくていいから」
「でも、似ていると言われた以上、どこが共通しているのか確認したくて」
歩美はもう一度、くすくすと笑い声を漏らした。
「うん、ま、そういうところ。似てる」
歩美は笑いながら、白鳥とフェネックの置物をカゴに入れた。
*
置物からは少し離れた棚の一角で、歩美はハンドクリームのテスターを手に取る。
白いクリームを手の甲に少量のせ、塗り広げる。ほのかに花の香りが広がった。
「あ、これいい匂い。あんまりベタつかないし……良いかも」
「へぇ」
トオルは興味深そうに覗き込む。
「トオルさんも試しますか?」
「はい」
歩美は何気なく、テスターを差し出す。トオルは素直に頷きながら、テスターが置いてあった棚を指さす。
「一度、ここに置いてもらえますか?」
「?」
言われた通りに、歩美はテスターを元の場所に戻す。トオルはそれを改めて手に取り、自分の手の甲へと丁寧に塗り広げる。
その動きを見て、歩美ははっとする。
(あ……そうか。手が触れないようにしてくれてるんだ……)
“こちらの身体のどこにも触れないでほしい”。歩美は、自分が博士に伝えた条件を思い出していた。
(っていうか、よく考えたらトオルさんにハンドクリームはいらないか……)
自分の提案の滑稽さに気づき、歩美は急に恥ずかしくなって一人で俯く。そんな彼女をよそに、トオルは自分の手の甲に鼻を寄せている。
「本当だ。いい匂い」
そして、歩美ににこっと屈託のない笑顔を向ける。
心臓がどき、と跳ね、慌てて歩美は視線を逸らした。
(機械ってこと、忘れそうになるな……)
*
両手にショッパーを提げ、二人はモールの外に広がる広場へ出た。夕方の光がやわらかく傾きはじめ、ベンチの影を長く伸ばしている。
歩美は腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「あー、久々に買い物した。ちょっとスッキリ」
トオルも隣に座り、穏やかに微笑む。
「いろいろ見て、少し疲れましたね。休憩しましょう。……あ」
トオルが何かに気づいたように顔を上げる。
広場の端に、赤と白のストライプのテントを張ったたこ焼きのキッチンカーが停まっていた。鉄板の上でジュウジュウと音を立て、煙が細く立ち上っている。
甘辛いソースとマヨネーズの香りが、歩美の鼻孔をくすぐった。
「歩美さん、たこ焼きですよ。食べますか?」
トオルは嬉しそうに提案する。しかし歩美は表情を曇らせ、首を振った。
「……ううん。いいや。一緒に食べられないし」
「あ……そうですか」
トオルの声は気まずそうにすぼむ。
そして少しの沈黙のあと、トオルは改めて口を開く。
「……もどかしいな」
低く、沈んだ響きに、歩美は驚いて顔を上げる。
「僕に……人間の身体があれば、もっとあなたと恋人らしい時間が過ごせたかもしれないのに」
トオルの声と瞳には、痛々しいほどの自嘲が宿っていた。歩美の胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……ううん。
私……楽しいよ。一緒にいてくれて……」
そのときだった。
ゆらりと、ベンチの背後に、ひとつの影が差し込む。
「歩美」
低い、粘つくような声。
歩美は反射的に振り返り、その姿を認めた瞬間、血の気が引いた。
「太田さん……」
太田と呼ばれた男は、ヘラヘラと口角を吊り上げて笑っている。しかし、その目は尋常ではなかった。濁った光が、歩美を鋭く射抜いている。
「そいつ、彼氏? かっこいいねぇ」
太田の声は甘ったるく、しかし響きに明確な悪意を孕んでいた。
歩美の全身が強張る。
喉が締め付けられ、呼吸が浅くなる。言葉が出てこない。
「男いないって言ったくせに。
俺をたぶらかして、人生めちゃくちゃにしやがって!!
この――売女が!!」
怒号が広場に響く。次の瞬間、彼はポケットからナイフを抜き放ち、刃を陽光にきらめかせた。
「殺してやる!!」
太田はナイフを構えて、歩美に向かって飛び掛かる。
歩美は動けなかった。足が地面に縫い付けられたように、震えることしかできない。喉の奥から、かすれた音が漏れるだけで、叫ぶこともできない。
刃が振り下ろされる。
その瞬間――トオルが歩美の腕を強く引いた。
彼女の身体が横へと弾かれ、同時に、トオルは身体を二人のあいだへ滑り込ませる。
刃が、トオルの左腕を切り裂く。
「トオルくん!!」
歩美の叫びが、ようやく形になる。
トオルは一切の躊躇なく、即座に太田の身体を後ろから羽交い締めにした。両腕をがっちりと固定し、ナイフを持つ手を押さえつける。
「くそっ!! 離せぇええええっ!」
太田は暴れ狂い、羽交い締めにされながらもナイフをむちゃくちゃに振り回す。
刃がトオルの腕、足、顔を何度も掠める。人工の皮膚の下から、銀色のフレームと細いワイヤーが露わになる。
「な……なんだ、お前……!?」
太田の顔が歪む。
周囲の人々が騒ぎに気づき、あちこちで悲鳴が上がる。
歩美は身体に力が入らず、ベンチの脇にへたり込む。
彼女は呆然として、太田を押さえつけるトオルの背中を見つめていた。
*
騒ぎは、あっけなく終わった。
通報により駆けつけた警察官たちによって、太田はその場で現行犯逮捕され、広場は封鎖された。
警察署の一室。蛍光灯の白い光が、歩美とトオルを冷たく照らす。
「太田康二。歩美さんの会社の、元同僚だそうですね」
机越しに、警察官が淡々と確認する。
「去年の秋頃から、歩美さんに一方的に好意を寄せ、メッセージの連投、会社の前で待ち伏せ……。挙句に自宅まで押しかけるなどのつきまといがエスカレートし、先月から職場を退職。接近禁止命令が出ていた、と」
紙をめくる音がやけに大きく響く。
歩美は膝の上で指先をぎゅっと握りしめたまま、警察官の言うことに、ときおり小さく頷くだけだった。
警察官の視線が、向かいに座るトオルへ移る。
トオルの身体は傷だらけだった。左腕の裂け目から、金属の骨格と細いワイヤーが露わになり、顔や足にも人工皮膚が剥がれ、内部の機構が覗いている。それでも彼の姿勢は崩れず、静かに座っていた。
「彼は?」
「私はヒューマノイドです」
「はぁ……。これが機械ねぇ。リアルなもんだ」
警察官はトオルにうさんくさいものを見るような目を向けながら、軽く頭を掻く。
「彼女のボディーガードかい?」
「そのようなものです」
警察官は、歩美に視線を戻す。
「太田には殺意があった。本当に危なかったですね。怪我がなくて良かった」
歩美はやはり言葉を発さず、ただ憔悴しきった顔で俯いていた。
*
事情聴取は長く続き、二人が警察署の重い扉をくぐり抜けた頃には、時計の針は二十二時近くを指していた。
街灯の白い光が、アスファルトの舗道を冷たく照らしている。
「すっかり遅くなりましたね。家まで送ります」
トオルの声は、変わらず穏やかだ。
「……ごめんなさい」
歩美は俯いたまま、かすれた声で言った。
「いいえ、良いんですよ。契約は明日の朝までですから。それまで、いつ解散したっていいし、一緒にいてもいいんです」
歩美は言葉を返さず、ただ俯いている。トオルは気遣わしげに歩美の表情を伺いながら、傷ついた左腕を軽く持ち上げる。
「ええと……あっ、怪我に関しても、これは第三者起因のものですから。保証範囲ですので安心してください」
歩美の視線が、トオルの腕を見る。裂けた皮膚から覗く金属の光が、街灯に冷たく反射する。
「歩美さんを守れて良かった。……こちらこそ、すみません。腕を触ってしまって」
歩美は激しく首を横に振り、両手で顔を覆った。
「ごめんなさい……」
肩が震え、不安定で感情的な声が漏れる。トオルは戸惑ったように眉根を寄せる。
「歩美さんが謝ることない。何も悪いことしてないじゃないですか。あなたは被害者だ」
「違うの」
歩美は、顔を覆ったまま言う。
「全部、嘘だったの。あなたに言ったこと」
歩美は言葉を続けようとするが、喉が詰まり、なかなか形にならない。トオルは黙って、歩美の言葉を待った。
「今朝は朝ごはん、食べなかった。
食べられないの。
料理も、好きだったのに、出来なくなった」
装飾の無い、単純で切実な言葉が、歩美から零れ出ていく。
「男の人が怖いの。だから、会社も行けてない。
毎日寝てるばっかりで、本当は、家の中もぐちゃぐちゃなの」
告白が堰を切ったように溢れ出したあと、歩美はしゃがみ込んで泣き始める。
冷たい夜の空気の中、トオルはただ、歩美が落ち着くのを黙って待っていた。
やがて、歩美の呼吸が落ち着いてくる。
ゆっくりと目と鼻の赤い顔を上げ、トオルの瞳を見つめた。
「トオルくん。……触れてもいい?」
トオルは静かに、優しく頷いた。
歩美は一歩近づき、ゆっくりとトオルの胸元へ顔を近づけ、そっと耳を当てた。ほんのりと温かく、胸の奥からは、鼓動の代わりに小さなモーターの音が響いている。
歩美は、そのまま腕を伸ばし、トオルの背中へ回した。
トオルの身体はまったく強張ることなく、両腕は自然に、だらりと下がっている。
絶対に抱き返してこないとわかるその体のゆるみに、歩美は深い安堵を覚える。
けれど同時に、ほんの少しだけ、それが寂しいような気もした。
*
翌朝。
「ふぅっ」
歩美は重たいゴミ袋の口をきゅっと縛ると、額の汗を手の甲で拭った。
部屋の窓は開け放たれ、朝の光が差し込んでいる。床に散乱していたゴミやペットボトル、コンビニ弁当の容器は、分別されて袋へまとめられている。
ほこりをかぶっていた棚を丁寧に拭き上げ、そこへ、白鳥とフェネックの置物を並べて飾る。陽光が陶器の表面を優しく撫で、歩美の唇に小さな微笑みが浮かぶ。
「ピーッ」
炊飯器の電子音が響く。
歩美は炊きたてのご飯をラップに盛り、両手でぎゅっと握って塩むすびにする。
一口かじる。
温かさが、舌に、喉に、ゆっくりと落ちていく。
「うん。美味しい」
*
『どうでしたか? うちのレンタル彼氏はご満足いただけたでしょうか』
「はい」
スマートフォンの向こうから聞こえるのは、博士の快活な声。
「私には、彼が必要だった。
男性の形をした、岩のような、大樹のような……。そんな存在が必要だったんです」
博士の声は嬉しそうに笑った。
『それは良かった。あなたのような方の役に立つために、私もあの子も頑張ってきましたから!』
「はい。本当に、ありがとうございました」
通話を終えて、歩美は窓辺に立ち、遠くの空を見る。
その顔はすっきりとしていて、瞳に穏やかな光が宿っていた。
*
「リカ」
「トオル。今日は時間くれてありがとう」
時は数か月前に遡る。
柔らかな間接照明に照らされた、小さな応接スペース。白を基調とした室内に、ソファと低いテーブルが置かれている。
そこに、ひと組の男女が並んで腰掛けている。
リカと呼ばれる、白衣を羽織った女性が、甘えるような声で、隣に座るトオルにしなだれかかる。トオルは自然な動きで彼女の肩を抱き寄せる。
「リカのためなら、いつでも駆けつけるよ」
「ふふ。うれしい」
リカはうっとりと微笑む。トオルは情熱的に彼女の瞳を見つめ返す。
「……黙って見つめられたら恥ずかしいわ。何か話して」
はにかんだその言葉を聞いた瞬間、トオルの身体がぴたりと硬直した。
瞳が虚ろに曇り、声色が機械的な無機質なものに変わる。
「申し訳ありません。
その要求は現在のコンテキストでは解釈できません。
エラーコード:E-17 曖昧感情パラメータが定義範囲を超過しています」
リカの表情から感情が消える。
次の瞬間、彼女はトオルの胸を強く蹴り飛ばした。
鈍い衝撃音。
トオルは短く唸り、椅子ごと床に転がる。
リカは壁に立てかけてあった金属製の棒を握りしめ、迷いなく振り下ろす。
ゴンッ! ゴンッ! ゴンッ!
皮膚ユニットが裂け、内部のフレームが露わになる。トオルは両手で頭を抱え、縮こまるように身を寄せる。
ひとしきり打ち据えた後、リカ――博士は動きを止め、荒い呼吸を整える。
「今回のテストも駄目。これで何度目だ?」
低く、冷えた声。トオルは地面に蹲ったまま動かない。
「お前、本当に分かってるの?
クライアントたちは、お前が機械と分かっていて自分の気持ちを曝け出すんだ。
そこにどれだけの心理ハードルがあるのか、お前は考えもしないのか?」
博士はパンプスのつま先で、トオルの顔を自分に向けさせる。
「自分の中の自分が見ているんだよ。
機械に向かって、恋人のような振る舞いを求める滑稽な自分の姿をな!
そんな時にお前から機械であることを意識させるのは、人間に対する最低最悪の裏切りなんだよ!!」
トオルはよろよろと頭を持ち上げる。
「申し訳ございませんでした。ただいまの会話をログ解析し、次回に――」
「違う!!」
ゴシャッ!
再び棒がトオルの頭部に振り下ろされる。
「まず震えて狼狽し、首を垂れて『すみません、ごめんなさい』だ!!
そして『次はうまくやりますから』と命乞いをしろ!!
改善案を出すのはそれからだ。
それが人らしい謝罪だ!!」
トオルは震える手を床に置き、四つん這いになる。そして博士の足元にすがりつき、瞳に人工の涙液を滲ませ、必死の表情を浮かべる。
「すみません、ごめんなさい……
次はうまくやります。だからどうか、スクラップにしないでください……!!」
博士は棒をカランと床に投げ捨てる。
静かに息を吐き、トオルの顎を掴んで顔を上げさせる。
「そうだ。
いいか、学べ。人の動きを」
彼女の瞳には、怒りと、どこか切実な光が宿っていた。
*
――警察署を出たあとの夜。
街灯の下で、歩美はしばらく無言のままトオルを抱きしめていた。
どれくらいそうしていただろう。歩美は顔を埋めたまま、小さく言った。
「……黙ってたら恥ずかしいから、何か話して」
「何かって。無茶振りだなぁ」
「何でもいいの」
「うーん。じゃあ、歌でも歌いましょうか」
「ええ?」
歩美は少し顔を上げ、目を丸くする。トオルは優しい声で歌い始める。
「♪ ゆりかごの歌を かなりやがうたうよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ……」
「ちょっと。赤ちゃんじゃないんだから」
歩美は思わずくすりと笑い、また胸の中で顔を隠す。
トオルはそんな歩美の反応を見つめながら、静かな微笑みを浮かべていた。




