第19話 忘憂の占者と白衣の悪魔
残すところ第20話(最終回)+特別編の2話。
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後宮を包む闇は、あちこちから立ち上る黒煙と、夜空を焦がす炎の明かりによって不気味に歪んでいた。
忘憂亭で三人の反乱兵を言葉巧みに寝返らせ、一時的な安全を確保した翠だったが、平穏は長くは続かなかった。忘憂亭のすぐ隣の宮にまで火の手が回り、このまま留まれば焼け死ぬことが確実となったのだ。
「……最悪だわ。究極の引きこもりである私が、命がけの夜間行軍を強いられるなんて」
翠は小蘭の手を引き、寝返らせた三人の宦官を盾にしながら、炎と暴徒を避けて後宮の奥へと進んでいた。目指すのは、石造りで燃えにくく、かつ食料の備蓄がある『大厨房の地下倉庫』である。
なんとか暴徒との遭遇を避けながら、大厨房の裏手にある広い井戸端までたどり着いた時のことだった。
「待って。誰かいるわ」
翠が足を止める。
井戸の周囲には、十数人の見慣れた女官たちが集まっていた。彼女たちは皆、厨房で働く気立ての良い、普段は虫も殺せないような心優しい娘たちばかりだ。
しかし、その光景は異様だった。
女官たちの中心には、抜き身の剣を持った内務調査局の副長――今回の反乱の首謀者の一人が立っている。そして、女官たちは皆、涙をボロボロと流しながら、自分の手で大きな壺を抱え、井戸の中へ『何か』を次々と投げ込もうとしていたのだ。
「……紅梅さん!?」
小蘭が思わず声を上げた。壺を持っていた女官の一人、紅梅がビクッと肩を震わせる。彼女はいつも、翠におまけの菓子をこっそり添えてくれていた、とりわけ優しい女官だった。
「小蘭ちゃん……逃げて、ここへ来ちゃ駄目……っ」
「紅梅さん、何をしているのですか! その壺の中身は……!」
「毒だ」
冷酷な声が響いた。反乱軍の副長である。
彼は剣の腹で紅梅の背中を小突いた。
「この後宮の水源である大井戸に、遅効性の猛毒を流し込ませている。そうすれば、籠城している近衛も妃たちも、数日後には全滅するからな。……おい、手を止めるな! さっさと投げ入れろ!」
「ひっ……!」
紅梅たちは泣きじゃくりながら、震える手で毒の入った壺を井戸へ傾けようとした。
翠は信じられない思いでその光景を見つめていた。
反乱兵が自分たちで毒を入れるのではない。心優しい女官たちに、自分たちの同僚や仕える妃たちを皆殺しにするための毒を入れさせているのだ。
「やめてください、紅梅さん! そんなことをしたら、みんな死んでしまいます!」
小蘭が叫ぶが、紅梅は首を横に振り、虚ろな目で呟いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……。でも、これは副長様の『命令』なの……。私には逆らえないの。私はただ、命令に従っているだけなの……!」
彼女たちの心は、すでに限界を超え、完全に麻痺していた。
翠の思考空間に、前世の心理学の知識が重く、冷たく展開される。
アメリカの心理学者、スタンレー・ミルグラムが行った戦慄の実験――『アイヒマン実験(権威への服従原理)』である。
人間は、圧倒的な「権威(命令者)」の前に置かれると、個人の良心や道徳心を完全に停止させてしまう。
「これは命令だから仕方がない」「責任は命令したあの人にある。自分はただの道具だ」この『エージェンティック・ステート(代理状態)』に入ってしまった人間は、どれほど心優しい善良な市民であっても、他者に致死量の電気ショックを与えたり、毒ガス室のボタンを押したりするような残酷な行為を、平然と(あるいは泣きながらでも)実行してしまうのだ。
(あの女官たちは今、副長という『絶対的な権威』の奴隷になっている。「皆が死んでしまう」という道徳的な説得は、思考停止した彼女たちにはもう届かない……!)
この恐ろしい「服従のシステム」を破壊する方法はただ一つ。
現在の命令者の権威を完全に粉砕する『より巨大で、より絶対的な権威』をぶつけて、彼女たちの服従の対象を強制的に切り替えさせることだ。
「……小蘭、下がっていなさい」
翠は、己の命の危険も顧みず、闇の中からズンズンと井戸端へと歩み出た。咸魚の仮面は完全に剥がれ落ち、その目には冷徹な怒りが宿っていた。
「静嬪か。わざわざ殺されに出てくるとはな」
副長が嘲笑い、剣を向ける。しかし、翠は彼を完全に無視し、大きな声で女官たちに向かって叫んだ。
「女官たち! その手を止めなさい! 私は内務調査局長官、司馬淵様の『密命』を帯びた代理人である!」
翠は懐から、占いに使う木札を高く掲げた。暗闇の中では、それが特別な紋章のようにも見えた。
「ははは! 何を狂ったことを! 司馬淵はもう死んだ! 俺たちが殺したのだ!」
「愚か者! あの司馬淵様が、貴様らごとき小悪党の罠で死ぬと本気で思っているのですか!」
翠の圧倒的な声量が、夜の空気をビリビリと震わせた。
「これは、後宮に巣食う反乱分子を一網打尽にするための、司馬淵様の壮大な『罠』です! 長官は生きておられます! 間もなく、本隊を率いて貴様らを血祭りに上げるためにここへ到着します!」
ハッタリである。しかし、権威への服従システムにおいて、真実かどうかは問題ではない。「より恐ろしく、より絶対的な権威が存在する」と相手の脳に錯覚させることができれば勝ちなのだ。
「女官たち、よく聞きなさい! 長官である司馬淵様の命令は絶対です! たかが副長の命令に従い毒を入れれば、後で司馬淵様によって『一族もろとも凌遅刑』に処されます! 今すぐ壺を置きなさい!!」
副長の「斬り殺すぞ」という権威と、司馬淵(の代理人)の「一族もろとも処刑する」という権威。後宮の女官たちにとって、司馬淵という男の恐怖は細胞の奥深くにまで刻み込まれている。
「司馬長官が生きている」「一族が処刑される」という上位の権威の圧力が、女官たちのエージェンティック・ステート(代理状態)を強烈に揺さぶった。
「し、司馬淵様が……生きている……?」
「そ、そんな、嫌……一族が殺されるなんて……っ」
紅梅の手がガタガタと震え、壺が井戸の縁から離れた。
他の女官たちも、次々と毒の壺を地面に置き、後ずさりを始めた。副長の権威が、翠のハッタリによって見事に打ち砕かれた瞬間だった。
「ええい、馬鹿女ども! そいつのハッタリだ! 司馬淵は死んだと言っているだろうが!」
激昂した副長が、言うことを聞かなくなった紅梅を斬り捨てようと剣を振り上げた。翠が「危ない!」と叫んだ、その刹那。
ヒュッ、と。闇夜を切り裂くような鋭い風切り音が響き、一本の短剣が副長の右腕を深々と貫いた。
「ぐあああっ!?」
副長が剣を落とし、苦痛に顔を歪めて膝をつく。
直後、井戸端を囲む建物の屋根の上から、何十人もの黒装束の精鋭たちが音もなく舞い降り、反乱兵たちを瞬く間に制圧していった。
そして、暗闇の中から、氷のように冷たく、地獄の底から響くような声が落ちてきた。
「……私の名を利用して、随分と威勢がいいな、占者」
たいまつの明かりに照らし出されたその姿。不吉な紫色の衣。微塵の乱れもない足取り。
死んだはずの内務調査局長官、司馬淵が、まさに死神の如き威圧感を放ちながら、そこへ歩み出てきたのだ。
「ふ、副長。まさか本当に私が死んだとでも思っていたのか? 貴様らのような腐った臓物を一箇所に集めるための、他愛もない罠だとは気づかずに」
「し、司馬長官……!! ば、馬鹿な……っ」
副長は絶望に顔を歪め、そのまま黒装束の兵たちによって地面に引き伏せられた。
それを見た女官たちは、恐怖と安堵がないまぜになり、その場にへたり込んで泣き崩れた。完全な権威の証明である。
「……淵様。生きておいででしたか」
「貴様こそ、よくぞ持ちこたえたな。あのまま女官たちが毒を入れていれば、私の失態になるところだった。……星が、私が生きているとでも告げたのか?」
淵が鋭い視線を翠に向ける。翠は、膝の震えを必死に隠しながら、ふっと不敵に笑ってみせた。
「いいえ。占うまでもなく、淵様のような悪運の強い御方が、あんな小悪党に殺されるはずがないと『論理的』に判断したまでです」
「……減らず口は健在だな」
淵が小さく鼻を鳴らした時、後宮を包んでいた喧騒が、少しずつ鎮火していくのが肌で感じられた。反乱は、司馬淵の掌の上で完全に鎮圧されたのだ。
「……終わったのね」
翠は、全身の力が抜け、そのまま石畳の上にへたり込んだ。
「静嬪様! お怪我はありませんか!」
「ええ、大丈夫よ、小蘭。……それよりも」
翠は、煤で汚れた顔を上げ、淵をギロリと睨みつけた。
「淵様。この命がけの働き、当然『破格の報酬』をいただけますよね? 私は今日の夕餉から何も食べておらず、極限の飢餓状態なのです。温かくて、味が濃くて、魂が震えるようなご馳走を出していただかないと、割に合いません」
「……命を拾った直後に、考えるのは食い物のことか。相変わらず底知れぬ強欲さだ」
淵は呆れたように言い捨てたが、その顔には微かな疲労と、ほんのわずかな安堵が浮かんでいた。
「案ずるな。全ての事後処理が終われば、後宮一の宴を用意してやる」
かくして、後宮を揺るがした反乱の夜は明けた。
咸魚は己の命と平穏を死守し、いよいよ、待ちに待った『究極の報酬』を手にする時が近づいていた。
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■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【権威への服従(ミルグラム実験)】
異国の心理学者、スタンレー・ミルグラムは、普通の善良な市民がなぜナチスのような残虐な行為に加担したのかを解明するため、『権威への服従実験(アイヒマン実験)』を行った。
◎代理状態
人間は、白衣を着た研究者や軍の将校など、自分より圧倒的な「権威」を持つ者から命令されると、自らの道徳的な判断を停止させてしまう。
「これは自分の意志ではなく、あの人の命令でやっているだけだ」と責任を権威者に転嫁(代理状態に移行)することで、相手に致死量の電気ショックを与えるような残酷な行為であっても、最後まで実行してしまうのだ。
この恐ろしい「服従のシステム」に組み込まれてしまった人間に対し、被害者の痛みを訴えたり、道徳的な説得を試みたりしても効果は薄い。思考停止した服従状態を打ち破るには、現在の命令者の権威を失墜させるか、あるいは「より上位の権威」を提示して、責任の所在と服従の対象を強制的に書き換えることが、最も即効性のある物理的な心理ハックとなる。




