第20話 忘憂の占者と究極の防壁
後宮を揺るがした内務調査局の反乱から、一夜が明けた。
空には白々とした太陽が昇ったが、後宮を覆う空気は重く、焦げ臭い匂いと深い絶望に満ちていた。あちこちの宮から、怯える女官たちの泣き声や、失われた財宝を嘆く妃たちの金切り声が響いている。
反乱軍は司馬淵の計略によって一網打尽にされたものの、後宮の秩序が元に戻るまでには、まだ長い時間が必要だった。
そんなパニックとヒステリーが渦巻く後宮の片隅で。静嬪の翠は、忘憂亭の縁側に立ち、木槌でトントンと釘を打っていた。
「よし。屋根の応急処置、終了」
昨夜の火の粉で焼け落ちてしまった縁側の屋根の一部に、翠は手際よく板と防水の布を張り付け、見事に雨風を凌げる状態へと修復していた。
翠が満足げに額の汗を拭っていると、居室の隅で膝を抱えていた小蘭が、涙声で訴えかけてきた。
「せ、静嬪様……こんな時に屋根を直している場合ですか! もしまた暴徒の残党が襲ってきたらどうしましょう! 厨房も半分燃えてしまって、配給がいつ来るかも分かりません……私たち、これからどうなってしまうのでしょうか……っ」
小蘭は恐怖と不安に押し潰され、極度のストレス状態に陥っていた。無理もない。昨夜、命の危機に晒されたのだから。しかし、翠は木槌を置き、極めて穏やかな顔で小蘭の隣に座った。
「小蘭。人間が大きな危機や不安に直面した時、心を守るための『二つの盾』があるのよ」
「た、盾……ですか?」
翠の思考空間に、前世の心理学の知識――アメリカの心理学者、リチャード・ラザルスが提唱した『ストレス対処法』の理論が展開される。
「一つ目は、『自分で解決できる問題』に対する盾。心理学で言うところの『問題焦点型コーピング』よ。……例えば、屋根に穴が空いたなら、雨に濡れて風邪を引かないように自分で板を打ち付ける。これは、直接原因を取り除くための正しい行動ね」
「は、はい……」
「でも、世の中には『自分ではどうしようもない問題』の方が圧倒的に多いわ。後宮の治安がどうなるか、配給がいつ再開されるか。それは私やあなたのような下っ端がいくら悩んでも、一ミリも解決しないの」
翠は、小蘭の冷え切った両手をそっと包み込んだ。
「二つ目の盾は、『自分では解決できない問題』に対する盾。それが『情動焦点型コーピング』よ。……どうしようもない事態に対しては、問題そのものを解決しようと焦るのではなく、自分の『感情(情動)』の方をコントロールするの。『考えても仕方がない』と割り切り、気を逸らし、リラックスすることに全力を注ぐのよ」
「考えても、仕方がない……」
「そう。泣き叫んで体力を消費しても、配給は早く来ないわ。だったら、温かい白湯を飲んで、深呼吸をして、お腹を空かせないようにただジッと横になっている方が、生存確率ははるかに高い。……不安を切り分けて、心を省エネモードに移行する。これぞ、咸魚の究極の防壁よ」
翠の全くブレない、地に足のついた図太い言葉。それが、小蘭のパニックを起こしていた脳を冷静にさせた。「今は休むことが一番の対処法なのだ」という合理的な理由を与えられたことで、小蘭の肩からスーッと力が抜け、彼女は大きく深呼吸をした。
「……静嬪様の仰る通りです。私、少し白湯を沸かしてまいります」
「ええ、お願い。……それと、配給の心配は無用よ。最強のスポンサーが、そろそろツケを払いに来る頃だから」
翠が庭の木戸の方へ視線を向けた、まさにその時だった。
「……相変わらず、貴様のその神経の太さには恐れ入る。後宮中の女という女がパニックで泣き叫んでいるというのに、ここだけ別世界のように空気が緩いな」
木戸を開けて現れたのは、徹夜の事後処理で紫の衣を煤と血で汚し、疲労困憊の様子を隠しきれない内務調査局の長、司馬淵だった。
「これは淵様。後宮の平和を守るためのお仕事、大変お疲れ様でございます」
「嫌味を言うな。……本当に貴様の欲は底なしだな。こんな混乱の極みのような状況で、宴の催促か」
「当然です。命を懸けた心理ハックの報酬ですから。で、『後宮一の宴』はどこに?」
「……約束は約束だ。入れ」
淵が背後へ合図を送ると、無傷だった大厨房の料理人たちが、次々と巨大な朱塗りの卓と、信じられないほど豪華な料理の数々を忘憂亭の縁側へと運び込んできた。
それは、皇帝の祝いの席でしか出されないような『満漢全席』を思わせる、究極の美食の数々であった。
「……っはぁぁぁ!」
翠の目が、今日一番、いや、今世で一番の輝きを放った。
透き通るような黄金色のスープで丸二日煮込まれた『特大フカヒレの姿煮』。
飴色に香ばしく焼き上げられ、パリパリの皮から肉汁が滴る『北京烤鴨』。
伊勢海老を丸ごと使ったチリソース炒めに、鮑の冷菜、そして〆の極上点心の数々。
「さあ、小蘭! 倒れないようにしっかり食べるのよ!」
「ひ、ひええ……私のような下働きが、こんな恐れ多いものを……!」
腰を抜かす小蘭を無理やり卓に座らせ、翠は淵の方を見た。
「淵様も、立ったままでは体に障ります。事後処理のストレスは『情動焦点型コーピング(美味しいものを食べてリラックス)』で発散するのが一番ですよ。さあ、どうぞ」
翠は、半ば強引に淵の手を引いて卓に座らせ、温かい高級茶を注いだ。
淵は「……妃と同じ卓を囲むなど」と顔をしかめながらも、あまりの疲労と、目の前の料理の暴力的なまでの香りに抗えず、無言で箸を取った。
「では……いただきます!!」
翠は迷うことなく、熱々のフカヒレの姿煮に箸を伸ばした。
とろみのある極上スープがたっぷりと絡んだフカヒレを口に運ぶ。
歯を押し返すようなコリコリとした食感と、豚骨と金華ハムから抽出された圧倒的な旨味が、飢餓状態だった胃の腑を直接殴りつけてくる。
「……最高ッ! 生きててよかった!」
すかさず、薄餅に北京ダックの皮と白髪ネギ、甘味噌を乗せて包み、大口で放り込む。
サクッという皮の食感の後に、甘辛い味噌とアヒルの濃厚な脂が口の中で渾然一体となり、脳内の快楽物質が完全に振り切れた。
「……美味い。……だが、貴様と一緒に飯を食うと、どうしてこうも調子が狂うのだ」
「それは淵様が、私という究極の『咸魚』のペースに巻き込まれているからですわ」
淵が呆れたようにため息を吐きながらも、出された海老の炒め物を口に運ぶ。その顔からは、特務機関の長としての険しい冷酷さが少しだけ抜け落ちていた。
「出世も名誉もいらない。ただ、自分の平穏な生活と、美味しいご飯だけを守り抜く。そのためなら、他人の心の心理の歪みをいくらでも利用するわ」
翠は、北京ダックを頬張りながら、晴れ渡り始めた初夏の青空を見上げた。
後宮は、人間の欲望と嫉妬、そして様々な「心理学的な罠」が渦巻く巨大な密室だ。
しかし、人間の心の心理学を知り尽くした翠にとって、それは少しの知識と『天啓』さえあれば、いくらでもコントロール可能な庭でしかない。
「ごちそうさまでした。……さて、明日は何をサボろうかしら」
忘憂亭の占者は、今日も完璧な『咸魚』としての矜持を胸に、究極のダラダラライフと美食への探求を、心ゆくまで続けていくのだった。
(おわり)
※もう一話、特別編があります!
==========
■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【ストレス・コーピング】
異国の心理学者、リチャード・ラザルスは、人間がストレスに直面した際、それをどう評価し、どう対処するかという過程を『ストレス・コーピング』として体系化した。
コーピングには、大きく分けて二つの種類がある。
◎問題焦点型コーピング
ストレスの原因そのものに直接働きかけ、問題を解決したり、状況を変化させたりする対処法。
(例:試験が不安だから勉強する。屋根が壊れたから修理する。人間関係のトラブルを話し合いで解決する)
◎情動焦点型コーピング
ストレスの原因そのものを解決するのではなく、ストレッサーによって生じた「自分の感情や捉え方(情動)」をコントロールする対処法。
(例:自分ではどうしようもない問題に対し「考えても仕方ない」と割り切る。愚痴を聞いてもらう。美味しいものを食べて気分転換する。深呼吸してリラックスする)
現代社会を生き抜く上で重要なのは、「全ての物事を『問題焦点型(自力での解決)』で乗り切ろうとしないこと」である。自分ではコントロールできない問題に対しては、早々に『情動焦点型コーピング(見方を変える、気を逸らす)』へと切り替えることが、精神を病まずに平穏を保つ(究極の咸魚ライフを送る)ための最強の防壁となるのである。
ストーリーはここで終わりです。
最後に1話、番外編として作成してあります。もしよければ、なんらかのアクションをもらえると嬉しいです。




