第18話 忘憂の占者と沈みゆく泥舟
その日の夕刻、後宮の空気は、これまで翠が経験したことのない異様な重さに包まれていた。
普段なら夕餉の準備で慌ただしいはずの厨房からは人の気配が消え、遠くの宮からは、時折、鈍い破壊音や誰かの悲鳴が微かに風に乗って運ばれてくる。
「……何かがおかしい」
忘憂亭の縁側に座っていた翠は、ただならぬ胸のざわめきを感じて立ち上がった。
今日の夕餉の配給が、まだ来ていないのだ。いつもなら必ず時間通りにやってくる小蘭の姿もない。
翠が様子を探ろうと庭の木戸に手をかけた、その瞬間だった。
「静嬪様っ! 開けてください、私です!」
木戸を激しく叩く音と共に、小蘭が転がり込んできた。彼女は髪を振り乱し、顔面を蒼白にしている。その手には食事の盆ではなく、血のついた小さな小刀が握られていた。
「小蘭!? どうしたの、その血は……!」
「私の血ではありません、逃げてきた時に……っ。静嬪様、大変です! 後宮が……『内務調査局』の反乱兵たちによって封鎖されました!」
「内務調査局が、反乱……? 司馬淵様が謀反を起こしたというの!?」
「違います! 淵様は罠に嵌められ、数時間前に何者かに暗殺されたと……! それを機に、淵様に反発していた副長や一部の宦官たちが一斉に蜂起し、上位の妃様たちを人質に取ろうと各宮を襲撃しているのです!」
翠の頭が殴られたように揺れた。
あの絶対的な権力と恐怖の象徴であった司馬淵が、死んだ。
その後ろ盾を失った瞬間、後宮の秩序が崩壊し、力を持った暴徒たちが我が物顔で略奪と破壊を始めたのだ。
「ここも危ないです! 彼らは金目の物を狙って、手当たり次第に宮を荒らしています。忘憂亭にもすぐに……っ」
「落ち着きなさい、小蘭」
翠は小蘭の肩を強く抱いた。
逃げるといっても、どこへ行くというのか。後宮の外周はすでに封鎖されているはずだ。闇雲に動けば、暴徒と鉢合わせる危険性が高まる。
咸魚として、ただ息を潜めてやり過ごすしかない。そう判断し、居室の奥に身を隠そうとした時。
「――ここだ! ここにも妃が住んでいるはずだ! 金目の物を探せ!」
荒々しい声と共に、忘憂亭の木戸が蹴り破られた。
雪崩れ込んできたのは、血走った目をした三人の宦官たちだった。手には松明と、抜き身の剣を握っている。
「ひっ……!」
小蘭が悲鳴を上げて翠の背後に隠れる。
翠は逃げ場を失い、縁側に立ち尽くした。
「チッ、なんだここは。ボロボロの庵じゃないか。金目の物などありそうにないな」
「だが、こいつは妃だろう! 少しは隠し持っているはずだ! おい、出せ!」
リーダー格の宦官が、剣の切っ先を翠の喉元に突きつけた。
恐怖で足が震える。美味しいものを食べるための余裕など、どこにもない。純粋な『命の危機』である。
「私のような下級の妃が、財宝など持っているはずがありません。……あなた方、自分が何をしているか分かっているのですか。反乱など、いずれ鎮圧されます。今ならまだ……」
「黙れ!!」
宦官が激昂し、翠の頬を平手で打ち据えた。翠はたまらず床に倒れ込む。
「今さら引き返せるか! 俺たちはもう、上位の妃の宮に火を放ち、近衛の兵も何人も殺したんだ! 今から降伏したって、どうせ死罪だ! なら、最後までやるしかねぇんだよ!」
彼の目には、狂気と、そして深い絶望が宿っていた。その言葉を聞いた瞬間、翠の冷え切った脳内に、一筋の理性が閃いた。
(……彼らは、狂っているわけじゃない。恐れているんだわ。『ここまでやってしまったから、もう後戻りできない』という心理の罠に落ちているだけ!)
翠の思考空間に、前世の心理学と行動経済学の知識が展開される。
『埋没費用効果』。人間は、すでにお金や時間、労力を注ぎ込んでしまった物事に対して、「これまでこれだけ費やしたのだから、ここでやめたら全てが無駄になる」と考え、明らかに引き際であるにもかかわらず、合理的な判断ができずに破滅まで突き進んでしまうという強烈な認知バイアスだ。
彼らは「もう人を殺した」「火を放った」という取り返しのつかないサンクコストを抱えている。だから、やめれば死罪になると思い込み、泥舟に乗ったまま沈むしかないと絶望して暴走しているのだ。
(彼らのサンクコストを、言葉で断ち切る。それしか生き残る道はない……!)
翠は口元から流れる血を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
天啓の亀甲を弾く余裕はない。己の頭脳と話術だけが頼りだ。
「……愚かですね。あなたは今、沈みゆく泥舟の上で、『もう濡れてしまったから、底に穴を開けて一緒に沈もう』と言っているのと同じです」
「なんだと……? 命が惜しくないのか、貴様!」
「惜しいから、あなた方に『生き残る道』を教えて差し上げると言っているのです」
翠は、剣の切っ先から目を逸らさず、冷徹な声で言い放った。
「あなた方は人を殺した。火を放った。それはもう『消えない過去』です。今さら取り消すことは絶対にできません。……ですが、このまま反乱を続ければどうなるか。近衛の本隊が到着し、あなた方は無惨に斬り殺されるか、捕らえられて一族もろとも凌遅刑に処されるでしょう」
「だから! どうせ死ぬなら――」
「『死ぬ』ことと『罪を軽くする』ことは違います!」
翠の強い声が、彼らの狂気を一瞬だけ押し留めた。
「人間は、失ったものを惜しむ生き物です。しかし、過去にどれだけ罪を重ねたとしても、『これから先の未来』の選択は、今この瞬間のあなた方に委ねられているのです。……今すぐ剣を捨て、この場にいる私と小蘭を『保護』しなさい」
「保護、だと……?」
「そうです。あなた方は暴徒に襲われそうになった静嬪を助け、守り抜いた。『首謀者に脅されて仕方なく従っていたが、正気に戻って妃をお守りした』と、私があなた方の『減刑』を強く証言して差し上げます。……一族の命と、あなた方自身の首の皮一枚を繋ぐための、それが唯一の合理的な選択です」
サンクコストの呪縛を解くには、「過去の損失はもう戻らない」と明確に切り捨てさせ、「未来の損得」だけに焦点を当てさせるしかない。
暴走を続ければ確実な「最悪の死」。今ここで翠を守れば、「減刑の可能性」。どちらの未来を選ぶべきか。
「……」
リーダー格の宦官の持つ剣が、微かに震えた。「もう後戻りできない」という絶望の暗闇の中に、翠が「減刑」という蜘蛛の糸を垂らしたのだ。狂気に染まっていた彼らの脳が、損得勘定という理性を強制的に取り戻し始めていた。
「俺たちが……お前を守る? そんな口約束、信じられるか……!」
「信じるしかありません。この泥舟から降りるための、たった一本の命綱なのですから。……剣を下げなさい。過去に執着して全てを失うか、未来のために今踏み止まるか。選びなさい!」
翠の気迫に押され、三人の宦官たちは顔を見合わせた。
やがて、チャリン、と。リーダー格の男が、剣を床に落とした。それに続くように、他の二人も武器を手放した。
サンクコストの呪縛が解け、彼らが「生き残るための合理的な選択」を下した瞬間だった。
「……へたり込むな。この庵の外を見張れ。他の暴徒が来たら追い払うんだ」
リーダーの男が仲間に指示を出し、彼らは忘憂亭の入り口を固めるように背を向けた。
翠は、ギリギリのところで張り詰めていた糸が切れ、その場にへたり込んだ。
「静嬪様……っ! ご無事で……っ」
「ええ……なんとかね。でも、これは時間稼ぎに過ぎないわ。あの三人は騙せても、後宮全体はまだ……」
ドォォン! 翠の言葉を遮るように、遠くの宮から大きな爆発音が響き、夜空を赤々と染め上げた。
後宮の反乱は、まだ終わっていない。司馬淵という最強のカードを失い、絶対的な平穏の地であったはずの忘憂亭すらも戦場と化した。
咸魚は今、己の命と、ささやかな日常を取り戻すための、最も過酷な戦いの渦中に立たされていた。
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■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【埋没費用効果】
異国の行動経済学において、人間の非合理的な判断を説明する最も有名な概念の一つ。
◎埋没費用
すでに支払ってしまい、どうやっても取り戻すことができないお金、時間、労力のこと。
◎サンクコスト効果
人間は「せっかくこれまでお金(時間)をかけたのだから、ここでやめたらもったいない」という心理が強く働き、明らかに損をすると分かっているにもかかわらず、その物事をやめられなくなってしまう現象。
(例:「つまらない映画だと分かったが、お金を払ったので最後まで観る」「勝てない博打に、これまでの負けを取り返そうとさらにお金を突っ込む」「長く付き合った恋人だから、モラハラされても別れられない」など)
この心理の呪縛から逃れるためには、「過去にどれだけ注ぎ込んだか(取り戻せない過去)」を判断材料から完全に切り捨て、「今からどう行動するのが、未来の自分にとって最も得か(損が少ないか)」だけを基準に考えるという、極めて合理的な思考の切り替えが必要となる。




