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《完結》天啓妃のひもの日記 〜美味しいご飯のためなら、チートも無駄づかいします〜  作者: ひより那


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第17話 忘憂の占者とすれ違う視線

 心地よい風が吹き抜ける、穏やかな午後。後宮の最奥、使われなくなった旧書庫の裏手にある荒れ庭は、静嬪せいひんの翠にとって、誰にも邪魔されない最高の『昼寝スポット』のひとつであった。


 日当たりの良い草むらの上に茣蓙ござを敷き、木漏れ日を浴びながらうたた寝をする。咸魚にとって至福の干物作りタイムである。


 ――しかし、ここ数日。その神聖な平穏は、ひとりの《《とある者》》によって乱されていた。


「…………ああっ、今日も凛々しい……」


 翠が寝転がるすぐ横の、崩れかけた土塀の陰。そこに、目立たない薄紅色の衣を着た下級妃・蓮貴人れんきじんが張り付き、穴が空くほどの熱視線を塀の外へと送っていたのである。

 彼女の視線の先には、この旧書庫周辺の見回りルートを担当している、若く誠実そうな近衛武官・ちょうの姿があった。


「……あの、蓮貴人様。人の昼寝の真横で、荒い鼻息を漏らすのはやめていただけませんか。気が散って仕方がないのですが」

「ひっ! せ、静嬪様!? い、いつからそこに!?」


 ビクッと肩を跳ねさせた蓮貴人が、顔を真っ赤にして振り返る。いつからと言われても、翠の方がずっと前からこの場所の主である。


「あなたが毎日毎日、ここで熱烈なストーキングを始める前からずっと寝ております。……そんなに彼が好きなら、さっさと声をかけて手巾ハンカチでも落とせば良いではないですか」

「そ、そんな恐れ多いことできません! 私のような地味で取り柄のない女が声をかけたら、不審に思われて、嫌われてしまいます! こうして、遠くからお姿を拝見しているだけで十分幸せなのです……っ」

「はぁ……」


 翠は深いため息を吐いた。

 このままでは、毎日この時間帯に彼女がやってきて、翠の昼寝を阻害し続けることになる。


(面倒くさい。さっさと二人がくっつくか、玉砕して諦めるかして、この場所から立ち去ってほしいわ)


 誰かに依頼されたわけでも、報酬を約束されたわけでもない。己の安眠を死守するという純粋な動機から、翠はのっそりと身を起こした。


「蓮貴人様。遠くから見ているだけでは、絶対に恋は始まりませんよ」

「で、でも、会話をする勇気なんて……」

「会話など不要です。ただ、彼の『視界』に入りなさい」


 翠は亀甲も木札も取り出さなかった。天からの啓示に頼るまでもない、あまりにも単純な心理法則が彼女の頭にはあったからだ。

 アメリカの心理学者、ロバート・ザイアンスが提唱した『単純接触効果《ザイアンスの法則》』である。


 人間は、見ず知らずの他者や物事に対して、最初は警戒心を持つ。しかし、それを見たり聞いたりする回数(接触回数)が増えれば増えるほど、警戒心が薄れ、無意識のうちに『親近感』や『好意』を抱くようになるという強力な心のバグだ。

 重要なのは「接触の時間」や「会話の質」ではない。「接触の『回数』」である。一時間じっくり話すよりも、毎日一瞬だけ挨拶を交わす方が、はるかに好感度は上がりやすいのだ。


「いいですか。明日から、ここで隠れて覗き見をするのは禁止です。その代わり、趙武官が見回りをする時刻に合わせて、わざと彼と『すれ違う』ように歩きなさい。……話しかける必要はありません。ただすれ違いざまに、軽く会釈をするだけでいいのです」

「えっ!? 会釈だけですか?」

「ええ。それを、毎日欠かさず続けるのです。……彼の警戒心を解き、あなたを『風景の一部』から『気になる人』へ昇格させるための儀式です」


 蓮貴人は半信半疑だったが、翠の妙な説得力に押され、小さく頷いた。


 翌日から、翠のプロデュースによる『単純接触作戦』が始まった。

 蓮貴人は、趙武官が見回りで長い回廊を歩いてくるタイミングを見計らい、反対側から歩いていく。そして、すれ違う一瞬だけ、恥ずかしそうに目を伏せて「お疲れ様です」とだけ小さく会釈をした。

 初日、趙武官は「……? お疲れ様です」と、少し不思議そうな顔をして通り過ぎた。

 三日目。彼は蓮貴人の姿を遠くに見つけると、自分の方から先に「今日もご苦労様です」と会釈をしてくれるようになった。警戒心が解け始めた証拠だ。

 そして七日目。すれ違いざまに、ついに趙武官の方から足を止め、声をかけてきたのだ。


「あの……蓮貴人様」

「は、はいっ!」

「最近、この時間によくお見かけしますね。いつも庭のお花の手入れをされているのですか? その……あなたが通られると、いつも良い香りがするので、つい気になりまして……」


 見事に、単純接触効果が結実した瞬間だった。

 毎日顔を合わせるうちに、趙武官の脳内で無意識に親近感が育ち、彼の方から「もっとこの人のことを知りたい」という好意へと発展したのだ。

 顔を真っ赤にして頷く蓮貴人。二人はその後、少し長立ち話をして、いい雰囲気のまま回廊を去っていった。


「……作戦完了ね」


 遠くからその様子を盗み見ていた翠は、ホッと息を吐いた。

 これで明日から、蓮貴人が土塀の陰で荒い鼻息を漏らすことはなくなる。旧書庫の裏庭は、再び翠だけの神聖な昼寝スポットに戻ったのだ。


 翠が日当たりの良い茣蓙に戻ると、そこには見慣れない小さな包みが置かれていた。

 先ほど、蓮貴人がそっと置いていったものだろう。


「あら?」


 包みを開けると、中からは香ばしい匂いと共に、熱々に煎られた『天津甘栗』がゴロゴロと姿を現した。


「……! これは、香ばしく煎られた甘栗!」


 殻の割れ目から覗く、黄金色の実。翠は嬉々として皮を剥き、口の中へ放り込んだ。

 ホクホクとした食感と、栗本来の優しく深い甘みが、心と体を心地よく温めてくれる。


「会話ゼロから恋を芽生えさせる。ザイアンスの法則、最高だわ」


 誰にも依頼されず、天啓にも頼らず、己の平穏のために他人を動かした結果が、この極上の甘栗である。

 翠は茣蓙に寝転がりながら、高く澄んだ空の下、誰にも邪魔されない至福の咸魚ライフを、栗の甘みと共にゆっくりと味わい尽くすのだった。


==========


■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【単純接触効果《ザイアンスの法則》】


 異国の心理学者、ロバート・ザイアンスは、人間が他者や物事に対して好意を抱くプロセスにおいて、非常にシンプルかつ強力な法則を発見した。


◎単純接触効果

 人は、見ず知らずの人物や、初めて見る物事に対しては、本能的に警戒心やネガティブな感情を抱きやすい。

 しかし、それらと接触する「回数」が増えるにつれて、警戒心が薄れ、無意識のうちに親近感や好意、高い評価を持つようになるという心理効果である。


 重要なポイントは以下の通りである。

 ① 「接触の時間」よりも「回数」が重要:1時間じっくり話すよりも、毎日10秒の挨拶を繰り返す方が好感度は上がりやすい。

 ② 最初から嫌われている場合は逆効果:第一印象が明確に「不快」である場合、接触回数が増えると逆に嫌悪感が増幅してしまうため注意が必要。


 対人援助や人間関係の構築において、最初から深い会話で信頼を得ようと焦る必要はない。「毎日顔を見せる」「挨拶だけ交わす」といった、負担のない『単純接触』を意図的に積み重ねることで、自然と相手の心の壁を取り払うことができるのである。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!皆様からの『イイネ』や『応援』が、本当に、本当に毎日の執筆の最大の原動力になっています。

 

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