第16話 忘憂の占者と多すぎる選択肢
後宮の妃嬪たちが負うべき労働の中には、精神と視神経をゴリゴリと削り取るような緻密な作業が存在する。
本日の静嬪・翠に課せられたのは、宝物庫に収められている『数百個に及ぶ玉の装飾品の仕分けと磨き上げ』であった。
翡翠や瑪瑙といった貴石は、少しでも手入れを怠ればその輝きを失ってしまう。他の妃たちが「石の冷たさで指先が痛むわ」「どれも同じに見えて目が霞む」と文句を並べ、適当に表面を布で撫でるだけで終わらせようとしている中、翠は一言も発することなく、黙々と作業を進めていた。
無駄な力を一切抜いた効率的な手つきで、石のくすみを拭き取り、色と等級ごとに正確に木箱へと仕分けていく。誰の邪魔もせず、他の誰の視界にも入らない。色とりどりの貴石の山と完全に同化する、見事な『空気』としての所作である。
「よし。今日の仕事、終了」
翠は誰よりも早く己のノルマを完璧に終わらせると、監督役の宦官に無言で目録を提出した。宦官がその曇り一つない玉の輝きと、一糸乱れぬ仕分けに感嘆している間に、翠は足音一つ立てずにその場から姿を消した。
自らの庵である忘憂亭の縁側に戻ると、翠は衣の帯を緩め、敷いておいたござの上へ倒れ込んだ。
ここからは、いっさいの社会的義務から解放される咸魚の神聖な時間である。
「……硬い石ばかり見ていたから、口に入れた瞬間にフワッと消えてなくなるような、繊細で甘いものが食べたいわね。蜂蜜と麦芽糖を何万本もの細い糸状に引き伸ばして、その中に香ばしい砕き胡麻やピーナッツを包み込んだ『龍須糖』……繭玉のような細い飴が舌の上で溶けて、ナッツのザクザク感だけが残る……最高だわ」
翠が空に向かって幻の宮廷菓子の妄想を語っていた、その時だった。
「静嬪様! どうか、どうかお助けください……!」
ドタドタッという慌ただしい足音と共に、庭の木戸が勢いよく開かれた。現れたのは、先ほどまで翠が作業をしていた宝物庫を管理する初老の宦官、高であった。
「これは高殿。先ほど完璧な目録を提出したはずですが、何か不備でも?」
「いえ、静嬪様の仕事は一分の隙もなく完璧でございました! そうではなく、静嬪様の『星読み』の噂を頼って参りました。厄介事なのです」
高はござの端に膝をつき、泣きそうな声で告げた。
「西の同盟国から、後宮の妃たちへ友好の証として『三百種類にも及ぶ最高級の反物』が贈られてきたのです。特権として、皇太后様の次に位の高い『麗妃』が、最初に一反を自由に選ぶことになったのだが……」
「素晴らしいことですね」
「……三日経っても、彼女は一つに絞りきれず、宝物庫に引きこもってノイローゼ気味になっているのです。彼女が最初の一個を選ばない限り、他の妃たちへの分配もできず、後宮の秩序が完全に停滞してしまっております。さらに悪いことに、彼女は『どれを選んでも後悔しそうだ』と泣き出し、食事すら摂らなくなっている有様で……」
多すぎる財宝の山に埋もれ、決断力を失った哀れな妃。
翠は居住まいを正し、スッと手を差し出した。
「お任せください、高殿。原因を特定し、見事に一反を選び抜かせてみせましょう。……ところで、今回の報酬は『出来立ての龍須糖を山盛り』と『最高級の烏龍茶』で手を打ちたいのですが」
「……麗妃様に一つ選んでいただければ、私どもの首も繋がります。私めのツテで宮廷一の菓子職人に、極細の飴の糸で包んだ特製のものを作らせてお持ちいたします!」
「商談成立です」
翠はすぐさま亀甲と木札を卓に並べた。
カラン、と木札を弾く。天からの啓示が、翠の脳裏にこの優雅な悲劇の『絶対的な真実』を叩き込んだ。
(……なるほど。呪いでも我儘でもない。麗妃を苦しめているのは、『選択肢が多すぎる』という事実そのもの。解決策は……『彼女の視界から物理的に選択肢を排除し、極限まで絞り込むこと』!)
翠の思考空間に、前世の心理学の知識が展開される。
アメリカの心理学者、シーナ・アイエンガーが提唱した『選択回避の法則)』である。
人間は「選択肢は多ければ多いほど良い」と勘違いしがちだ。しかし、スーパーの試食コーナーに24種類のジャムを並べた場合と、6種類のジャムを並べた場合では、6種類しか並べなかった時の方が、客がジャムを購入する確率が圧倒的に高かったという有名な実験がある。
選択肢が多すぎると、人間の脳は情報処理の限界を超え、「決断疲れ」を起こしてしまう。その結果、「何も選ばない(選択の先送り)」という行動に出るか、あるいは無理やり選んだとしても「あっちの方が良かったかもしれない」という強い後悔を抱きやすくなるのだ。
麗妃は今、三百種類もの最高級の反物を前に、完全に脳の処理能力がパンクしている。
「赤も良いけれど、青も素敵だわ。でもこの刺繍も捨てがたいし……もしこれを選んで、明日になってあっちが良かったと思ったらどうしよう」
その無限ループに陥り、身動きが取れなくなっているのだ。これを救うには、「どれが良いですか?」と聞くのをやめ、彼女の脳の負担を減らすために『選択肢の絞り込み』を代行してやるしかない。
「……高殿、星は真実を告げております」
翠は静かに目を開き、立ち上がった。
「麗妃様は、欲深いわけでも、優柔不断なわけでもありません。あまりにも多すぎる『美の奔流』に魂が溺れ、身動きが取れなくなっているだけなのです。……宝物庫へ参りましょう。私が、その濁流を堰き止めます」
後宮の奥深くにある宝物庫。
その広い空間には、目も眩むような色とりどりの絹の反物が、壁一面、床一面に所狭しと広げられていた。
その中心で、麗妃はゲッソリと頬をこけさせ、三百の反物に囲まれてうずくまっていた。
「どうしよう……どれも美しすぎるわ。でも、私が選べるのは一つだけ……。ああ、頭が割れるように痛い……」
「麗妃様。ごきげんよう、静嬪の翠と申します」
翠は高を背後に下がらせ、麗妃の前に歩み出た。
「静嬪……? 高が、私を急かすために呼んだのね。でも駄目なの、どうしても一つになんて絞れないの……っ」
「案ずることはありません。星の導きにより、あなたの魂に最もふさわしい反物を『私が』絞り込みに参りました」
翠は、周囲に控えていた高たちに向かって、鋭い声で指示を出した。
「今から、私が指示した反物を、全てこの部屋の外へ運び出しなさい!」
麗妃が「えっ」と声を上げる間もなく、翠の鮮やかな『選択肢の削減』が始まった。
「麗妃様、お答えください。この反物で仕立てた衣は、昼の茶会で着ますか? それとも夜の宴で着ますか?」
「え? ええと……夜の宴かしら」
「では、暗い色は夜の闇に沈むため全て不吉です。高殿、それに宦官たち! 黒、紺、深緑の反物を全て下げなさい!」
宦官たちが素早く動き、反物の山がガサリと減った。
「麗妃様。あなたの今日の気分は、燃えるような『赤』ですか? それとも冷ややかな『青』ですか?」
「あ、赤の気分だわ……」
「承知しました。青、紫、黄色の反物を全て下げなさい!」
さらにドサリと反物が消え去る。
麗妃は自分の視界から反物が減っていくことに一瞬不安を覚えたが、同時に、頭の中を埋め尽くしていた「ノイズ」がスーッと晴れていくのを感じていた。
「大柄の刺繍と、細かい金糸の模様。どちらが今のあなたの肌を輝かせると思いますか?」
「……細かい、金糸の模様ね」
次々と条件を絞り込み、視界から物理的に選択肢を排除していく。
そして五分後。
三百あった反物は、たったの『三つ』だけになっていた。
真紅の絹に細やかな金の蝶が舞うもの、深い紅色の地に牡丹の金糸が施されたもの、そして、鮮やかな朱色に金雲が描かれたもの。
翠は、その三つの反物だけを麗妃の目の前に美しく並べた。
「麗妃様。星の導きにより、あなたの魂を輝かせる反物は、この三つにまで絞り込まれました。……さあ、この三つの中から、どれがお気に召しますか?」
三百の選択肢の前ではフリーズしていた麗妃の脳が、たった三つの選択肢を前にして、本来の「直感」と「決断力」を完全に取り戻した。
彼女は迷うことなく手を伸ばし、真紅に金の蝶が舞う反物を強く抱きしめた。
「……これよ。私が欲しかったのは、これだわ!」
麗妃の顔からノイローゼの暗い影が消え去り、極上の笑顔が咲き誇った。
「あっちの方が良かったかもしれない」という後悔は微塵もない。なぜなら、彼女の脳が処理できる『適切な数の選択肢』の中から、自分の意志で最高のものを選び取ったという確かな満足感があるからだ。
「見事な星読みでございました。麗妃様はこれで、心置きなく夜の宴の準備にかかれますね」
翠は深く頭を下げ、高と共に宝物庫を後にした。
その日の夕刻。忘憂亭の縁側に、高の約束通り、小さな白木の箱と、淹れたての最高級の烏龍茶が届けられた。
蓋を開けると、真っ白な繭玉のような『龍須糖』が、行儀よく並んでいる。
「……っはぁぁ!」
翠はそっと指先で龍須糖をつまみ、口の中へ放り込んだ。
何万本もの極細の飴の糸が、舌の温度に触れた瞬間にフワッと儚く溶けて消え、中から香ばしく砕かれたピーナッツと胡麻がザクザクと顔を出した。
強烈な甘さとナッツの香ばしさ。それを、渋みのある熱い烏龍茶でスッと洗い流す。
「……最高。選択回避の法則の打破、大成功ね」
他人の決断麻痺を解きほぐすのは骨が折れるが、その結果としてこれほどの美味にありつけるのならば、選択肢の刈り込み作業も悪くない。
翠は誰の目も気にすることなく、口の中に広がる儚い飴の甘さを、至高の咸魚ライフと共にゆったりと味わい尽くすのだった。
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■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【選択回避の法則】
異国の心理学者、シーナ・アイエンガーは、スーパーマーケットの試食コーナーに「24種類のジャム」と「6種類のジャム」を用意する実験を行い、人間の選択に関する重要な法則を発見した。
選択回避の法則(決断麻痺)
人間は「選択肢が多いほど良い」と考えがちだが、実際に選択肢が多すぎると、情報を処理しきれなくなり(認知的負荷の増大)、最終的に「何も選ばない」という選択をしてしまう現象。
また、多すぎる選択肢の中から無理に一つを選んだとしても、「選ばなかった他のものの方が良かったのではないか」という後悔(機会費用の意識)が強くなり、結果に対する満足度が著しく低下してしまう。
対人援助や交渉の現場において、対象者に「何でも自由に選んでいいですよ」と無限の選択肢を与えることは、かえって相手を苦しめることになる。支援者は対象者のニーズを汲み取り、あらかじめ選択肢を「3つから5つ程度」に適切に絞り込んで提示することで、相手の決断の負担を減らし、満足度の高い選択をサポートすることが重要である。
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