第15話 忘憂の占者と勘違いの恋
後宮の妃嬪たちが負うべき労働の中には、一見華やかそうに見えて、実は地味で過酷な作業が潜んでいる。
本日の静嬪・翠に課せられたのは、祭事などで用いられる魔除けの『結び紐』を百本、正確に編み上げることであった。
細い絹糸を複雑に絡ませて美しい紋様を作る作業は、酷く指先を酷使する。他の妃たちが「糸が細すぎて指に食い込むわ」「爪が傷ついてしまう」と文句を並べ、すぐに休憩を口実にして手を止めている中、翠は一言も発することなく、黙々と作業を進めていた。
無駄な力を一切抜いた効率的な手つきで、スッと糸を引き、複雑な盤長結びを次々と完成させていく。誰の邪魔もせず、他の誰の視界にも入らない。色鮮やかな絹糸の山と完全に同化する、見事な『空気』としての所作である。
「よし。今日の仕事、終了」
翠は誰よりも早く己のノルマを完璧に終わらせると、監督役の女官に無言で完成品を提出した。女官がその寸分の狂いもない美しい結び目に驚嘆している間に、翠は足音一つ立てずにその場から姿を消した。
自らの庵である忘憂亭の縁側に戻ると、翠は衣の帯を緩め、敷いておいたござの上へ倒れ込んだ。
ここからは、いっさいの社会的義務から解放される咸魚の神聖な時間である。
「……指先を酷使したから、外はカリッとしていて、中はトロトロに甘いものが食べたいわね。たっぷりの白胡麻をまぶして黄金色に揚げた『芝麻球』……それを噛み割った瞬間に溢れ出す、熱々の黒胡麻餡。それに渋めの茉莉花茶を合わせたら最高だわ」
翠が空に向かって欲望のスイーツを妄想していた、その時だった。
「……相変わらず、解けた組紐よりもだらしなく転がっているな、占者」
庭の木戸が開く音すらなかった。ござのすぐ脇に、不吉な紫色の衣が音もなく立っていた。内務調査局の長、司馬淵である。
「これは淵様。私の平穏な呼吸音にまで同調するような完璧な潜伏スキル、さすが特務機関の長でございます。して、本日はどなたが呪われていますか?」
「相変わらず減らず口の回る女だ。……だが、厄介事なのは確かだ。下手な呪いより性質が悪い」
淵はござの端に立ち、冷たい声で告げた。
「婉妃という若い妃がいる。ひと月ほど前から、彼女が後宮を警護する『李』という若き近衛武官に対し、異常な執着を見せているのだ」
「執着、ですか」
「ああ。夜な夜な彼の警護ルートで待ち伏せをし、自ら縫った手巾を押し付けようとしたり、熱烈な恋文を送りつけたりしている。……言うまでもないが、妃嬪と武官の不義密通は双方死罪だ。これが明るみに出れば、後宮に血の雨が降る」
皇帝の女が他の男に狂うなど、宮廷においては最悪のスキャンダルである。
翠は居住まいを正し、スッと手を差し出した。
「お任せください、淵様。原因を特定し、見事にその執着を断ち切ってみせましょう。……ところで、今回の報酬は『揚げたての芝麻球を山盛り』と『最高級の茉莉花茶』で手を打ちたいのですが」
「……解決すれば、宮廷一の点心師に特別製の熱い餡で作らせてやる」
「商談成立です」
翠はすぐさま亀甲と木札を卓に並べた。
カラン、と木札を弾く。天からの啓示が、翠の脳裏にこの危険な恋の『絶対的な真実』を叩き込んだ。
(……なるほど。呪いでも淫靡な欲望でもない。婉妃はひと月前、後宮に迷い込んだ『狂犬』に襲われそうになったところを、偶然通りかかった李武官に助けられている。解決策は……『彼女の恋心が、ただの生理的な錯覚であると物理的に証明すること』!)
翠の思考空間に、前世の心理学の知識が展開される。
アメリカの心理学者、スタンレー・シャクターとジェローム・シンガーが提唱した『情動二要因論』。そして、その理論を実証したドナルド・ダットンとアーサー・アロンの『吊り橋効果』である。
人間の「感情」は、二つの要素から成り立っている。一つは、心臓がドキドキしたり汗をかいたりする『生理的喚起(身体の反応)』。もう一つは、なぜドキドキしているのかを頭で意味づけする『認知的評価(ラベル貼り)』だ。
婉妃は狂犬に襲われた時、恐怖で心臓が激しくバクバクと鳴っていた(生理的喚起)。その極限状態の時、目の前に自分を抱き留めてくれた李武官の顔があった。
彼女の脳は、この「恐怖によるドキドキ」の理由を誤認(誤帰属)し、「私はこの人にときめいているからドキドキしているのだ」という誤ったラベルを貼ってしまったのだ。
これが、危険な吊り橋を一緒に渡ると恋に落ちやすいと言われる『吊り橋効果』の正体である。
この錯覚を解くには、「ドキドキの理由が李武官ではない」ことを、彼女の身体と脳に直接理解させるしかない。
「……淵様、星は真実を告げております」
翠は静かに目を開き、立ち上がった。
「婉妃様は、李武官に恋などしていません。彼女の脳が、己の心臓の音の『理由』を盛大に勘違いしているだけなのです。……淵様、今夜、婉妃様に『李武官が密かに待っている』と嘘の文を届け、この忘憂亭の裏手まで呼び出してください」
「逢い引きをでっち上げろと言うのか。そんなことをすれば……」
「ただし、条件があります。婉妃様を案内する際は、必ず後宮の裏手にある『百段の急な石段』を駆け上がらせて、息を限界まで切らした状態で連れてきてください。そして、待ち合わせ場所には李武官ではなく……淵様、あなたが立っていてください」
「……私を囮に使えと?」
「錯覚を解くための、最も劇的な特効薬です」
その夜。忘憂亭の裏手にある人気のない木立の中。司馬淵は不機嫌そうに腕を組み、月明かりの下に立っていた。
やがて、急な石段の下から、荒い息遣いと衣擦れの音が聞こえてきた。
「はぁっ……はぁっ……李殿……お待たせいたしました……っ」
婉妃である。彼女は百段の石段を必死に駆け上がってきたため、肩で息をし、胸を激しく上下させていた。心臓は破裂しそうなほどにバクバクと鳴っている。
彼女が熱に浮かされたような顔で顔を上げた、その瞬間。目の前に立っていたのは、愛しの李武官ではなく、氷のように冷たい目をした内務調査局の長であった。
「ひっ……! え……え……淵、様……!?」
「ごきげんよう、婉妃様」
木立の陰から、翠がスッと姿を現した。
パニックに陥り、心臓をさらに激しく鳴らす婉妃に向かって、翠は静かに、しかし突き刺すような声で問いかけた。
「婉妃様。今、あなたの胸の奥で、心臓が激しく鳴っていますね? ……あなたは今、目の前にいる司馬淵様に『恋』をしてドキドキしているのですか?」
「なっ……あり得ません! このような冷酷な御方に恋など! この胸の高鳴りは、急な階段を走らされたことと、淵様に殺されるかもしれないという『恐怖』のせいです!」
婉妃は悲鳴のように叫んだ。
翠は深く頷いた。
「その通りです。あなたの脳は今、身体のドキドキの理由を『階段による疲労』と『淵様への恐怖』だと正しく理解しています。……では、ひと月前。後宮に狂犬が迷い込んだあの日の、あなたの心臓の音は?」
「え……」
婉妃の動きがピタリと止まった。
「あの時、あなたの心臓は今日と同じように、激しくバクバクと鳴っていたはずです。……その理由は、李武官への恋心ですか? それとも、狂犬に噛み殺されるかもしれないという『恐怖』ですか?」
「あ……」
翠の言葉が、婉妃の脳内に掛けられていた『錯覚の魔法』を鮮やかに解きほぐしていく。
「婉妃様。人間の脳は、身体が興奮した時、目の前にある一番都合の良いものに『理由』を押し付ける癖があるのです。あなたの心臓を鳴らしたのは犬への恐怖でした。しかしあなたの脳は、目の前にいた李武官を原因だと『勘違い』したのです」
婉妃は胸に手を当てたまま、呆然と宙を見つめた。
そして、スッと表情から熱が引いていくのが分かった。脳が「これは恋ではなかった」と正しく認知(ラベルの貼り直し)を行ったのだ。
「私……なんて馬鹿なことを。よく考えたら、李武官は私の好みでも何でもない、ただの平凡な顔立ちの男でしたわ……。なのに、どうしてあんなに必死になって……」
憑き物が落ちたように正気に戻った婉妃は、恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、逃げるように自分の宮へと帰っていった。
不義密通という最悪の悲劇は、完全に回避された。
「……なるほど。恐怖による体の反応を、恋だと誤認していただけか」
「はい。人間の感情など、その程度の脆いものなのです」
翌日の夕刻。忘憂亭の縁側に、淵の約束通り、大きな朱塗りの重箱が届けられた。
蓋を開けると、黄金色に揚げられたピンポン玉ほどの大きさの『芝麻球』が、香ばしい白胡麻の香りを漂わせて山盛りに積まれていた。
「……っはぁぁ!」
翠は火傷に気をつけながら、熱々の芝麻球を指でつまみ、一口齧り付いた。
サクッ! という軽快な音の直後、もっちりとした白玉生地の中から、とろとろに溶けた漆黒の黒胡麻餡がジュワリと溢れ出した。
揚がった油のコク、胡麻の香ばしさ、そして脳を殴るような餡の濃厚な甘さ。すかさず、温かい茉莉花茶で油を洗い流すと、胃の腑からジンジンとした幸福感が立ち昇ってきた。
「……最高。情動二要因論の解除、大成功ね」
他人の勘違いの恋を終わらせるのは骨が折れるが、その結果としてこれほどの美味にありつけるのならば、愛のキューピッドの逆をやるのも悪くない。
翠は誰の目も気にすることなく、口の周りに胡麻をいっぱいつけながら、至高の咸魚ライフを心ゆくまで貪り食うのだった。
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■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【情動二要因論と吊り橋効果】
異国の心理学者、スタンレー・シャクターとジェローム・シンガーは、人間の「感情(情動)」がどのように発生するかを説明する『情動二要因論』を提唱した。
◎情動の二つの要因
人間の感情は以下の二つの要素の掛け合わせで生まれる。
生理的喚起:心拍数の上昇、発汗、筋肉の緊張など、身体的な興奮状態。
認知的評価:自分がなぜそのように興奮しているのかという、頭での「意味づけ(ラベル貼り)」。
◎吊り橋効果(生理的喚起の誤帰属)
ドナルド・ダットンとアーサー・アロンの実験で有名になった現象。
揺れる吊り橋を渡る恐怖で心拍数が上がっている(生理的喚起)時に、魅力的な異性に出会うと、脳が「このドキドキは恐怖ではなく、目の前の人への恋愛感情だ」と誤って原因を意味づけ(誤帰属)してしまう心理効果。
このように、人間の感情は必ずしも絶対的なものではなく、身体の反応に対する脳の「解釈」によって容易に勘違いを起こす。このメカニズムを理解していれば、自身や他者の不自然な感情の暴走(パニックや異常な執着など)に対し、客観的な視点を取り戻させる一助となる。




