第14話 忘憂の占者と沈黙の群衆
後宮の妃嬪たちが負うべき労働には、知的な教養を求められるものも少なくない。
本日の静嬪・翠に課せられたのは、蔵書閣に保管されている『経典の修繕と虫干し』であった。
古びた紙の匂いと微かなカビの香りが漂う薄暗い部屋で、他の妃たちが「埃で喉が痛いわ」「古めかしくて気が滅入る」と文句を並べ、すぐに陽の当たる中庭へ休憩に出ていく中、翠は一言も発することなく黙々と作業を進めていた。
和紙と糊を使い、破れた箇所を素早く、かつ正確に補修していく。誰の邪魔もせず、他の誰の視界にも入らない。古い経典の山と完全に同化する、見事な『空気』としての所作である。
「よし。今日の仕事、終了」
翠は誰よりも早く己のノルマを完璧に終わらせると、監督役の宦官に無言で目録を提出した。宦官がその職人技のような美しい修繕跡に感心して頷いている間に、翠は足音一つ立てずにその場から姿を消した。
自らの庵である忘憂亭の縁側に戻ると、翠は衣の帯を緩め、敷いておいたござの上へ倒れ込んだ。
ここからは、いっさいの社会的義務から解放される咸魚の神聖な時間である。
「……古い紙の埃を吸ったせいか、喉をツルンと通り抜ける冷たいものが食べたいわね。濃厚な牛乳を寒天で固めて、桃のコンポートをたっぷりと乗せた『特製ミルクゼリー』……最高だわ」
翠が空に向かって欲望のスイーツを妄想していたが、いつまで経っても配給が届く気配がない。
それもそのはず、いつも配給を運んでくれる下働きの女官・小蘭は、今朝から軽い風邪で床に伏せっているのだ。代わりの女官が回ってくるのは、おそらく夕刻近くになってからだろう。
「……待てない。口の中が完全にミルクゼリーの口になってしまっている。仕方ないわね」
咸魚たるもの、基本的には自室から一歩も出ないのが鉄則だが、己の食欲を満たすためとなれば話は別である。翠はのっそりと立ち上がると、自らの足で直接、後宮の巨大な厨房へと向かうことにした。
厨房の裏手にある広い中庭に差し掛かった時のことである。
そこには、配膳の準備や小休止をしている何十人もの下級女官や下働きの宦官たちがたむろしていた。その大勢の群衆の真ん中で、異様な光景が繰り広げられていた。
「ちょっとあんた。生意気なのよ、最近厨房長に少し褒められたからって」
「も、申し訳ありません……返してください、それは静嬪様にお届けするお菓子なのです……!」
三人の体格の良い古株の女官が、ひとりの気弱そうな新米女官を取り囲み、彼女が抱えていた朱塗りの盆を強引に奪い取ろうとしていた。
盆の上に乗っているのは、間違いなく翠が求めてやまない『特製ミルクゼリー』である。古株の女官は意地悪く笑いながら、その盆を地面の泥水に向かって傾けようとしていた。
(ああっ! 私のゼリーが!)
翠が内心で悲鳴を上げたのと同時に、彼女は周囲の異様な事態に気がついた。
中庭には、ざっと三十人以上の人間がいる。誰もがそのいじめの現場に気づいており、チラチラと視線を向けている。中には顔をしかめ、可哀想にと思っている者もいるはずだ。
しかし、誰一人として助けに入ろうとしない。注意の声すら上げない。皆が「見て見ぬふり」をして、ただ遠巻きに沈黙を保っているのだ。
(……この群衆、全員が薄情な悪人というわけではない。集団の心理が引き起こす『呪い』に囚われているだけだわ)
翠は懐の亀甲と木札に触れずとも、この事象の真実を完全に理解していた。
彼女の思考空間に、前世の社会心理学の知識が展開される。
アメリカの心理学者、ビブ・ラタネとジョン・ダーリーが提唱した『傍観者効果』。そして、その中核となる『責任の分散』という恐ろしいメカニズムだ。
ある事件や緊急事態が起きた時、周囲に他者がたくさんいるほど、人は助ける行動を起こさなくなる。
「大勢いるのだから、自分が出しゃばらなくても『誰か他の人が助けるだろう』」
「誰も助けに行かないということは、実は大した事態ではないのかもしれない(多元的無知)」
「自分が助けに入って失敗したら、皆の前で恥をかくかもしれない(評価懸念)」
これらの心理が働き、結果として何十人もいながら「誰も助けない」という沈黙の悲劇が生まれるのだ。
この呪いを打ち破る方法はただ一つ。「誰か助けて!」と全体に向かって叫ぶことではない。責任の分散を物理的に破壊することだ。
「……私のゼリーは、誰にも奪わせない」
翠は、存在感を消していた『空気』の仮面を剥ぎ捨て、ズンズンと群衆の真ん中へ歩み出た。
そして、いじめている女官たちではなく、周囲で傍観している群衆に向かって、鋭く、通る声で指示を放った。
「そこの、赤い帯を締めているあなた! すぐに厨房の料理長を呼んできなさい!」
ビクッ、と。赤い帯を締めた女官が弾かれたように肩を揺らした。
「そこの、右手に手ぬぐいを持っている宦官のあなた! あのいじめられている娘をこちらへ引き寄せなさい!」
手ぬぐいを持った宦官が、ハッとして顔を上げた。
「そこの、青い簪のあなた! 彼女が落としそうになっている盆を支えてあげなさい!」
翠の言葉は、魔法のようだった。
「誰か」ではなく「赤い帯のあなた」「手ぬぐいのあなた」と特定され、名指しされた瞬間、その個人の肩に100%の『責任』がのしかかる。もはや「誰かがやるだろう」という言い訳(責任の分散)は通用しない。
名指しされた三人は、呪いが解けたかのように一斉に動き出した。
手ぬぐいの宦官がいじめの輪に割って入って新米女官を引き寄せ、青い簪の女官が慌てて盆を支える。そして赤い帯の女官が「料理長ー!」と叫びながら厨房へ駆けていった。
それを見た古株の女官たちは、突然周囲の群衆が一斉に自分たちに敵対したように感じ、顔面を蒼白にさせた。
「な、何よ……あんたたち……!」
「料理長が来るわ、逃げましょう!」
形勢不利と悟った古株たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
料理長が駆けつけて事態を収拾する頃には、中庭には平穏が戻り、新米女官は涙を拭いながら深々と翠に頭を下げていた。
「あ、ありがとうございます……! あのままでは、せっかく作ったお菓子が泥だらけになるところでした」
「気にしなくていいわ。怪我がなくて何よりよ。……それよりも」
翠は、無事に死守された朱塗りの盆をじっと見つめた。
「そのゼリー、忘憂亭への配給分よね?」
「あっ、はい! 静嬪様ですね。小蘭から、静嬪様はとてもお優しくて、甘いものが大好きだと伺っておりました。……助けていただいた御礼に、私が厨房でこっそり作っておいた『特製の桃の蜜』を、たっぷりと追加でおかけいたします!」
「……重畳。素晴らしい判断よ」
忘憂亭へホクホク顔で戻った翠の目の前には、白磁の器に盛られた特大のミルクゼリーが鎮座していた。
真っ白でプルプルとしたゼリーの上に、黄金色に輝く桃のコンポートがゴロゴロと乗り、さらに追加された特製の蜜がキラキラと光を反射している。
「……っはぁぁ!」
木匙で大きくすくい、口の中へ放り込む。
濃厚なミルクのコクと寒天の滑らかな喉越し。そこに桃のジューシーな果肉と、目が覚めるような強い甘さの蜜が絡み合い、歩き回って疲れた体に強烈な幸福感をもたらした。
「……最高。傍観者効果の破壊、大成功ね」
集団の心理は時に冷酷で薄情に見えるが、そのからくりを知っていれば、簡単にコントロールすることができる。
翠は冷たいゼリーを喉の奥に滑らせながら、己の食欲がもたらした小さな正義の余韻を、甘い蜜と共に味わい尽くすのだった。
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■ 『心魂の理(西域の学術書)』より抜粋 ―― 【傍観者効果と責任の分散】
異国の心理学者、ビブ・ラタネとジョン・ダーリーは、悲惨な事件が多くの目撃者の前で起きたにもかかわらず誰も助けなかったという実際の事件を機に、群衆心理の研究を行った。
◎傍観者効果
緊急事態に遭遇した際、周囲に他者がたくさんいるほど、援助行動を起こしにくくなる現象。周囲の人が冷酷だから助けないのではなく、以下の心理的メカニズムが働くためである。
◎責任の分散:「他にも大勢人がいるのだから、自分一人が責任を負って助けなくても、誰か他の人がやるだろう」と考えてしまう心理。
◎多元的無知:他者が誰も行動を起こしていないのを見て、「実は誰も助けないのだから、緊急事態ではないのかもしれない」と誤って状況を解釈してしまう心理。
◎評価懸念:「自分が出しゃばって間違っていたら恥ずかしい」「後で非難されるかもしれない」という、他者からのネガティブな評価を恐れる心理。
◎傍観者効果を打ち破る方法
自分が助けを求める側、あるいは周囲を動かしたい側に立った時、「誰か助けて!」と全体に向かって叫ぶのは効果が薄い。
「そこの赤い服の人、医者を呼んで!」「そこの眼鏡の人、手伝って!」と、特定の特徴を挙げて名指しで指示を出すことが重要である。個人を特定することで「責任の分散」が破壊され、指名された人は行動を起こさざるを得なくなる。




