第31話【八神燐花】適応最適解(オーバーライド)
アタシ、八神燐花の脳髄が蹂躙の予感に痺れ始めたその時だった。
『帯島ぁ! お前ら全員で、燐花を止めろ!』
切島の悲鳴に近い指示が、アタシの鼓膜を引き裂かんばかりに震わせる。
「あぁ? 切島ぁ。テメェ、何言ってんのか理解してるか?」
『燐花、お前が少しでも運動エネルギーを出せば、そのまま我々のスコアがマイナスに落ち込むんだ。お前が動かなければコロッセオは『引き分け』に持ち込める!』
アタシはその指示を聞いた瞬間、監視カメラを通して切島を睨みつける。
「だからよぉ、今なんて言ったか理解してんのかって聞いてんだよ、切島ぁ!」
『もしコロッセオまで落とせば、俺たちは4つ特区を制圧されたことになり、敗者階区罰則はマイナス25Aから、マイナス50Aに到達する!』
「……ふざけんじゃねぇよ、この三流インテリがぁ、ダミールールのことだろうがよ!」
『……っ』
アタシのドス黒い声がコロッセオ全体に響く。
「引き分けにしたら、テメェの作ったクソルールのせいで……」
アタシの脳内は今の状況を見て、既に計算を弾き出していた。
「アタシの5000万Rが、システムに没収されるじゃねぇかよ!!」
『……』
アタシの怒号を聞いた瞬間、切島の声が暫く止まる。
『あのダミーテキスト』――引き分け時は、サボタージュの有無に関わらず、全参加者の財産を半分没収するゴミルール。
切島が、安く値切るためだけに仕込み、発動しないと高を括っていた「無害な嘘」。
「アタシは出力を維持する……そして、アタシの行動を邪魔をする奴は、味方だろうが全員敵だ、肉塊になるまでガチで殺すぞ!」
アタシの視界に広がるのは、貧民どもが身を寄せ合い、頭を抱え込んでいる様子。
こいつらは、アタシが殺気を放って近づいても一歩も逃げ出さず、意地でもサボタージュを維持し続けている。
既に上空のホログラムに開示されている、黒塗りが解除された第五階区の本命パッチ。
《相手階区の10名がサボタージュした場合、相手の出力はマイナス(減点)に反転する》
「本当に、綺麗にハメやがったなぁ……」
インテリぶった切島は、このパッチを『0名配置による無効化の罠』だと誤読し、アタシをこのコロッセオに隔離したつもりになっていた。
だが、現実は逆だ。敵はアタシを隔離したんじゃない。
アタシを最強のマイナスポイント製造機として、効率よく自爆させるため、このコロッセオに誘い込んだんだ。
……アタシは、この学園の連中から『脳筋姫』だの『暴力メスガキ』だのと陰口を叩かれている。
否定はしない。
アタシにとって、他人の骨が折れる音や、アタシへの恐怖で顔を歪める表情を眺めること以上に、生を実感できる快楽はないからだ。
だが、アタシをただの「何も考えていない脳筋」だと思っているなら、そいつは致命的な勘違いをしているんだよ。
アタシの『象徴』としてのステータスは、体力と精神力、技術が満点の100。だが、それだけじゃない。
知力の数値も92だ。そこらの自称天才が束になっても敵わない頭脳を、生まれながらにして持っている。
だからこそ、自分に突きつけられた矛盾を解読し終えていたんだ。
『ま、待てくれ燐花! 早まるな!』
インカムを震わせる切島の声には、隠しきれない焦燥が滲む。
『お前の資産が没収されるのは痛手だ。だが、コロッセオを失えば第三階区全体がマイナスを被る。失った2500万は、後で何年かかっても俺が必ず補填する! だから頼む、従ってくれ!』
「うるせぇよ、雑魚が」
切島の言うことは、『組織』のトップから見れば合理的で正しい、間違ってねぇよ。
だが、アタシ『個人』から見れば、そんな持たざる貧乏人が組織を維持するための『全体最適』など、反吐が出るほどくだらない。
――大好きなパパがくれたお金。
それはアタシの血であり、肉であり、エゴの結晶だ。
それを、切島の薄っぺらいプライドと戦略ミスの尻拭いのために差し出せだと?
冗談じゃねえ。他人の命や組織の存続なんて、1Rにも満たないゴミクズだ。
アタシの資産を脅かす奴は、システムだろうが味方だろうが、等しく肉のスコアボードに変えてやる。
「いいか? 第三階区の手持ちは200Aだ。もし、ここでアタシがサボタージュして引き分けに持ち込んだとしても、敗北は確定してる。ペナルティのマイナス25Aを食らえば、来月の階区予算の残りは『175A』……換算すると『175万R』だ」
アタシは、再び金色の三白眼で監視カメラのレンズを鋭く睨み抜いた。
「アタシの口座残高は5000万。テメェの作った欠陥ルールが発動すれば、その半分の2500万が消える。切島ぁ、階区全体の配当が175万しかねぇのに、どうやってアタシの2500万の損失を補填するってんだ? 桁が一つ違うんだよ、桁が!」
『くっ……!』
アタシはインカム越しに、切島が鋭く息を吸い込む音を聞き取った。
切島は有能な指揮官だ。だが、優秀な人間特有の「全体主義」に脳を侵されている。
組織の微小な損切りで、アタシの莫大なお金を要求する。
そんな非合理要求など、ただの寝言に過ぎない。
アタシが暴れた結果、ペナルティがマイナス『25A』から『50A』になる?
知るかよ、たかが25万Rの追加赤字でしかない。
「テメェら貧乏人の赤字を減らすために、なんでアタシ個人の自腹を切らなきゃなんねんだよ。後で補填するだと? 他人の不確かな約束を信じて、今そこにある確実な現金を手放す馬鹿がどこにいる」
たしかに、アタシがサボタージュを選ばず「出力」を出せばいいだけなら、わざわざ味方を殴る必要はねぇ。
筋肉を強張らせて、その場でシャドーボクシングでもして、システムに運動エネルギーを検知させるだけで、第三階区のポイントは勝手にマイナスに落ち込んでいく。そう勘づく奴もいるかもしれない。
だが、ふざけんじゃねぇよ。アタシを誰だと思ってんだ。
切島のケチな算段のせいで、パパから貰った大事な金を人質に取られた。
その事実だけで、アタシの脳みその血管はブチ切れそうなほど熱く煮え滾ってんだよ。
このマグマみたいな渇きを、空気を殴るだけの体操なんかで誤魔化せるわけがねぇだろうが。
殴った拳から伝わる、生きた人間の頭蓋骨がひび割れる硬い感触。
無理やりへし折った関節が、メチャクチャな方向に曲がる時の、あの湿った音。
暴力に絶望し、顔面を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにして、命乞いをしてくる鳴き声。
それを味わわなきゃ、アタシの狂った欲望は満たされねぇ。
もう、アタシが欲しいのはポイントじゃねぇ。
――純粋な『暴力による蹂躙』だ。
アタシは首をコキリと鳴らし、金色の瞳が捉えたのはアタシにガンを飛ばす雨宮と地面で耳を塞いでガタガタ震えている第五階区のゴミ共じゃない。
アイツらは雨宮以外、心を折られている。
殴っても反撃してこない『肉の塊』なんて、快楽が分泌されねぇんだよ。
雨宮だけは気概があるな、こいつはいつか遊んでやる。
――じゃあ、誰を壊す?
首をコキリと鳴らし、アタシは窮屈なブレザーを乱暴に脱ぎ捨てて石畳の床に投げ落す。
プツン、と。アタシの中で、最後の理性の糸がちぎれ飛ぶ音がした。
アタシは、『味方』の中心へと向かって、歓喜の笑い声を上げながら飛び込んだ。
「はぁ! マイナスポイントを稼ぐためのサンドバッグは、アタシを止めようと向かってくるテメェらしかいねぇよなぁ!」
アタシの暴走を力ずくで止めようと、必死に構えている――帯島と、自陣の武断派エリート8名。
『帯島ぁ! 聞いているな!』
切島がすぐさま次善の策をインカムで叫んだ。
喚き散らすだけの無能ならここで思考停止するだろうが、流石はインテリだ。奴はコンマ数秒で、最後の対抗策を弾き出した。
『燐花は言葉では止まらん! お前たち9名全員で、燐花の意識を物理的に刈り取れ! 気絶させて、端末を奪いサボタージュボタンを押せ!』
「ほう」
アタシは、思わず獰猛な笑みをこぼした。
なるほど、理にかなっている。自軍の象徴を袋叩きにしてでも被害を最小限に抑えようとする判断。
その合理性だけは評価してやる。
「お前ら。やっちまえ! 燐花の姉さんには悪いけど、来月のメシ代がかかってんだ」
帯島竜司の号令と共に、8人の鍛え上げられた武断派たちが、四方八方から一斉にアタシに向かって飛びかかってきた。
彼らもまた、必死なのだ。
アタシが暴れてペナルティが増えれば、来月の彼らの生活費が削られる。
構図は『25万Rの追加赤字を回避するために必死な凡人』と『2500万Rを守るために暴れる天才ブルジョワ』だ。
「あははっ! いいねぇ、そうこなくっちゃ! 退屈しのぎにはちょうどいいよ!」
大柄な男たちが、怒号を上げながら全方位から殺到する。
常人なら、視界がパニックに染まり、防戦一方になる包囲網。




