第四章 金獣の逆鱗(七)
清潔ではあるが簡素な寝台の上でリューイは身じろぎひとつしない。
その深い眠りに、どうしても不安を掻き立てられる。
手の甲に重ねた指先から感じるぬくもりだけが、確かなつながりに思えてならなかった。
「大丈夫ですよ。解毒が早かったですからね、状態は回復に向かっています。それにこの方の場合、毒に対する耐性は持っておられますし、体力的にも問題ありませんから、今晩安静にしていれば完全に毒の影響はなくなります」
治療室に入ってきたオルガが淡々と状況を説明しながら、薬草茶です、と湯気の立ち上るティーカップをカレンに差し出した。
自身は、もう片方の手に持った薬草用のすり鉢だったと思しき白磁の椀から茶をすすっている。ふちが欠けてひび割れている様子をみるに、使わなくなった器具を日用品に転用したらしい。
こと医術に関する部分には恐ろしく几帳面だというのに、私生活においてはかなり大雑把なところもまるで変わっていない。
微苦笑で礼を言ってからカップを受け取り、少し癖のある香りに促されるまま口に含む。かすかな苦味と供に体の中が温かくなった。
リューイが倒れたときにはまだ頭上高く昇っていた陽もすっかり落ち、窓の外には都の光が輝いている。
路地から出て一区画も行かない場所にあるオルガの診療所に馬車を乗りつけた後、オルガを手伝い、指示されるままに湯を沸かし器具を洗浄した。
何もせずにじっとしていることなどできなかった。何も考えずにただ動き回り、すべての処置が施され、気がつけば寝台の横に据えられた簡素な木製椅子に座り、リューイを見つめていた。
「――ありがとう、オルガがいてくれて本当に助かった」
「いいえ、昔の癖ですね。あなたが王都にいらっしゃるというので、つい薬品と薬草をたっぷり仕入れてしまいました」
こともなげに言われ、言葉に詰まる。思えば、オルガにはずいぶん助けてもらった。
カンディアに在籍していた間、秘密を抱えたカレンが頼れる医師は彼女だけだった。外傷だけでなく熱や咳、さまざまな体の不調、カレンを診るために、それこそ多岐にわたる知識を身につける必要があったはずだ。
「顔を出すのが遅くなってすまない」
「リリーから大体事情は聞いていましたから」
「わたしが――切られるはずだったんだ」
手の中に包み込んだカップを見下ろし、ぽつりと零す。
「リューイはわたしをかばって……」
白い縁で区切られた濃い緑の水面に、泣き出しそうな情けない顔が映っている。
昨晩、軽率な行動は慎むべきだと痛感していたはずだ。それなのに、まんまと繰り返し、リューイを窮地に陥れた。
「なるほど、そういうことでしたか」
「わたしが守ると、彼を守りたいと言ったんだ。……本来ここに横たわっているのはわたしだったはずなのに。わたしであるべきだったのに」
呻くように吐露したカレンの隣に、すらりとした長身が並ぶ。髪色と同じ濃茶の瞳がどことなく苦笑を滲ませていた。
「愛する女性の危機を見過ごせというのは、ずいぶん酷だと思いますよ?」
「オルガ? なにを言って……」
「あら、婚約なさったのでは?」
真意の読めない真顔でオルガが首をかしげる。
「それは……」
方便、つまり偽りであり、ことが済めば速やかに解消される程度の意味しか持っていない、と言いかけたカレンの言葉を遮るように、部屋の扉が軽く叩かれた。
「カレン様、リリーです。よろしいでしょうか? 客人が一人いらっしゃっています」
抑えた声はリューイに配慮してのことだろう。オルガが肯くのを確認してから「はいれ」とカレンは低く答えた。
「これはまた……」
まあ何があったのか大体の想像はつきますが、と、リリーに伴われ部屋に入ってきた客人――フロイが呆れ顔で呟いた。
オルガとリリーのふたりは食事の用意をするという口実の元、フロイと入れ替わるように席を外している。話の内容如何によっては聞くべきではないという配慮だろう。
僅かの間、寝台に横たわるリューイを物珍しげに見下ろしていたフロイだが、やれやれと言いたげに大きなため息をつくと、背筋を伸ばしてカレンに向き直った。
「それにしてもヘルベロの血とはずいぶん懐かしい手法できましたね。国内への持込が厳しくなってからはあまり見かけなくなっていましたが」
顎に手をあてたフロイが僅かに眉根を寄せる。
ヘルベロの血は体内に入り込んだ直後こそ独特の香りを持つが、それは一瞬のこと。香りが霧散した後は何の痕跡も残さず心の臓を止めるという毒薬だ。
時間が経過すればするだけ毒殺であったことを証明する手立てがなくなるため、一昔前には暗殺に用いられることも多かった。ただ唾液と混じることにより効力を失うため、直接相手を傷つけて体内に送り込む必要があり、確実性を求めるなら暗殺対象者との接触が不可避であること、それに厳しい取締りがはじまったこともあって、いまではほとんど見かけなくなっている。
「毒の出所から相手をさぐれないだろうか?」
「ふん、そうですね。やってみましょう」
腰に手をあて直してフロイが肯く。カレンは変わらず身じろぎひとつせずに眠っているリューイへ視線を戻した。
「わたしの責任だ。リューイはわたしの身代わりに」
「ああ、でしょうね。この方が下手を打つのはあなたに関係したことでしかありえない」
反論出来ずに俯くことしかできなかった。フロイのいう通りだ。
ここまで愚かな真似をする人間が、これまでリューイの傍にいることを許されていたとは到底思えない。
リューイがあの場にいた理由がどうあれ、手助けするどころか足手まといにしかなっていない。
「あー……、いや、誤解しないでください。別に糾弾したいわけじゃないので。いまのが切っ掛けであなたが離れたなんてことになったら、多分自分は殿下に殺されます」
こんなときだというのに、フロイの物言いは相変わらずだ。ふと、これはこれで才能かもしれない、と思う。
「まさか。手駒がひとつ減るくらいリューイは気にしないだろう。しかも役に立たないのならなおさらだ」
自嘲の笑みが浮かぶ。もう傍にいるべきではないのだろうとわかってはいる。だが、あと少し、せめて婚約者の役割だけはこなさなければならない。
公式に発表してしまった以上、ことが済む前に反故となれば余計な注目や憶測を招き寄せ、ますますリューイの動きが制限されることになる。
「……やっぱり自覚無しですか」
「え?」
「いえ、とにかくこの周辺に信用できる手の者を配置しているので、警備は安心してください。因みに殿下は今夜、内密にシーバルグ伯のタウンハウスにご宿泊、ということになっています」
「うちに?」
「はい、カレン様にお忍びでご同行してお泊りですね。まあ、お忍びといっても話はどこからともなく漏れます。大変な溺愛ぶりだと、ごく一部ではありますがちょっとした噂になってました。エディンバ家側の対応についてはリリー殿にお願いしたので、辻褄あわせは問題ないかと」
「そうか、リリーなら上手くやってくれるだろう」
カレンが答えると、フロイがおやっというように片眉を器用に持ち上げた。
「なにか?」
「文句のひとつもあるものと覚悟してました。内密とはいっても王宮内ではほぼ公ですから」
正直なものいいに苦笑するしかない。
「うまくごまかしてくれて感謝する。敵がどこにいるかわからない以上、いまの状況を知られるのは避けるべきだと思う。最善だ」
「あなたの評判はがた落ちと思いますが」
「問題ない」
倫理観のゆるい息女がいると多少は家名にも傷がつくかもしれないが、本人が表舞台から消えれば噂もそのうち霧散するだろう。
もとより自身の評価について、カレンはどうでもいいと思っていた。
「問題ない、ですか」
フロイの口元に面白いとでもいいたげな笑みが浮かぶ。どうも本当にリューイのことはまったく心配してはいないらしい。
「では自分はこれで。王宮で雑事を片付けた後、この近辺の警備に戻りますから、何かあればリリー殿経由で声を掛けてください」
「わかった、ありがとう」
「あなたにお礼を言われるとは思いませんでした。殿下は大丈夫ですよ、殺しても死なないと自分は思ってます」
「ひどいいわれようだな」
「経験則です。それよりも少し休まれたほうがいい――ひどい顔色ですよ」
苦笑しながら背中を見せたフロイが静かに扉から出て行くと、しん、と手狭な部屋の中が静まり返った。
カレン自身自覚がなかったが、フロイに心配され、どうやら自分がよほどひどい様子をしているらしいことはわかった。
リューイにまだ目覚める気配はなく、秀麗な美貌が作り物めいて見える。
不安に駆られ、掛け布から覗く首元にそっと指先を当てる。確かな暖かさと血の流れに、ほっと安堵の息をついた。
ふうっと長く息を吐き、椅子に背を預けて天井をみあげる。自分はそんなにひどい有様なのかと、右手で目元を覆った。
つん、と鼻の奥が痛み、瞼が熱を持つ。透明な雫が目じりに溜まっていく。
リューイが倒れたとき、怖くて仕方がなかった。また、大切なものを失うのかと。
強くなったはずだった。大切な人を守れるだけの力を得たいとなによりも思ってきたのに、お前は無力なのだと再び突きつけられた気がした。
あふれそうになる涙を堪えるために、ぐっと歯を食いしばる。もう一度だけ深呼吸をして、カレンはゆっくりと目を開けた。
「……リューイ」
真っ白なシーツの上に置かれている節ばった手をぎゅっと握り締める。固く厚い皮で覆われた手のひらは、優れた剣士である証だ。
色を失った頬を手の甲でそっとなぞる。リューイの瞼がふるえ、ふっと開いた。
「……リュっ」
「――カイン?」
昔の名で呼ばれ、カレンはとっさに口をつぐんだ。意識がまだ混濁しているのだろう。
「はい。殿下」
「ここは……」
「大丈夫、安全な場所です。なにも心配はありません」
カレンは動揺を押し込め、秀麗な額に零れ落ちていた金色の髪をそっと払う。
気だるげに一度閉じられた瞼が緩く持ち上がり、再びカレンをいつもより深く見える青が捕える。
「そばに――君は、傍にいてくれる?」
かすれた声は、不安げにゆれていた。薄く開いた瞳にはどこか焦りにも似た色が滲んでいる。
一瞬の躊躇いの後、カレンは肯いた。
「――はい、お傍におります。殿下のお傍に」
安心したようにリューイの瞼が再び閉ざされる。
浅く繰り返されていた呼吸が再び深くなり、けれど、その表情はこれまでよりもずっと和らいでいた。
「まるで昔の再現ですね。――あの時とは立場が逆ですけれど」
眦から零れた雫が頬を伝い、顎の先に溜まったそれが、胸元を濡らす。
今よりもずっと少年に近い容貌のリューイが剣をふるっている姿が記憶の底からよみがえってくる。
懐かしい――とても懐かしい、それは甘く、苦く、けれど今となっては幻のような過去だった。




