第四章 金獣の逆鱗(六)
王都の中心、市場が近い街区は行き交う人々の活気と喧騒が常に満ちている。石畳の街路には露天が軒を並べ、食品や日用品、衣類や装飾品が雑多なようで一定の規則性を持って商われていた。
王宮から一旦タウンハウスに寄り、黒塗りの箱馬車に乗り換えたカレンの目的地は市場の外れにある。同じような馬車がそこかしこに見受けられるのは、富裕層が所持することの多い型をわざわざ選んだからだ。
必要以上に供をつけたくなかったカレンは最初、徒歩で行くつもりだったのだが、リリーが頑として首を縦に振らなかった。しばらくの押し問答の末、瞳を潤ませるリリーにカレンが根負けした。
結果、妥協案として薄手の黒い外套に身を包んだリリーが御者を務めている。
「申し訳ありません、すこし混み合っているようです。速度が落ちますが、あと半刻足らずで着きますのでしばらくご辛抱を」
箱馬車の前にある小窓からリリーに告げられ、知らず知らずため息がこぼれた。馬車の中でひとり、眼を閉じて車輪から伝わる振動に身を任せる。
伝えられたとおり、時折行く手を阻む人の波に度々馬車は減速する。穏やかな陽気も手伝ってだろう、人出がいつもより多いようだ。
オルガに会いたいのか会いたくないのか――微妙な心境なのだ。はっきりさせるべきだとわかってはいても、何事か起こって取りやめになればいい、とも思ってしまう。考える時間が増えれば増えるだけ勢いがそがれ、行動に迷いが生まれてしまう。
脳裏には、いまよりもずいぶん幼い姿のリューイが浮かんだ。端正な笑みの下に隠された毒に気がついたのはいつだったろう。
――いや、たぶん気付いたというよりも、気付かされた、だな。
意図しない相手にリューイが自らの本性を悟らせることは決してない。その点において、ある程度の信頼は得られているのだろうと思う。
からかわれてはいるが、遠ざけられてはいない。騙していたことに腹を立てているのかと尋ねれば、そうではないという。それに――。
昨夜のことを思い出し、頬がわずかに紅潮した。突き詰めれば右往左往していただけのように思う。リューイに対してはいつだって思い通りにことが運んだためしがない。
「ああもう」
かっと目を見開き、自身の膝に拳をたたきつける。気分を落ち着けようと、何とはなしに小窓の外に目をやった。
丁度、赤い天幕の前で馬車は止まっていた。通行人がいるのか、前の馬車が詰まっているのかはわからなかったが、動き出す気配はない。
小窓から覗く軒先には、雫型をした濃い橙色の果実が山と積まれている。しばらく前に交易が開かれたナジャール公国の特産物であるパコトトは、瑞々しい果汁と濃厚な甘みの果肉で、ここ最近、王都で人気を博していた。カレンも茶会や夜会で度々味わっている。
南国産の果実が育ったナジャール公国の地理、気候を頭の中で羅列していくと、少し気持ちが落ち着いた。王国から流通しているのは絹織物や酒類――まで知識を引っ張り出したところで、馬車がかすかな揺れとともにゆっくりと動き出した。
果実の並んだ軒先から、店の横を通る路地へと景色が移っていく。カレンの視線がある一転に吸い寄せられた。椅子から腰を浮かせて、小窓の横に片手をつく。
ぎりぎりまで顔を寄せたカレンの凝視する先には、薄手の黒い外套で身を包んだ大柄な男がいた。
「……まさか……」
眉根を寄せ、目を眇める。市場には国外の者も多く、殊更その男が目立っているわけではない。寧ろ、上手く気配を消しているらしく、辺りに溶け込んでいる。
けれどがっしりした体躯、それに歩き方には僅かだが軍人特有の癖がみられる。それも王国のものではない。
男はするりと路地に入り込んだ。後姿が遠のく。カレンは前の小窓をたたいてリリーに馬車を止めさせた。一瞬の隙に馬車から滑り降りる。
御者台のリリーが唖然としていたが、手振りでそのまま進むように指示し、カレンは何事もなかったように雑踏の中を歩き始めた。
路地の入り口に近づき、不自然にならない程度の動きで中を窺う。外套の裾がちらりと見えた。路地の奥にある四辻を右に曲がっていく。
――アマニだ。
奇妙な確信があった。見張りがついている様子はなかったが、おそらく撒いてきたのだろう。尾行していた者たちは今頃必死に王都を捜し回っているに違いない。
このまま後を追うことには、些かの躊躇いがあった。昨夜、まんまと相手の手管に翻弄されている。だが、如何考えても怪しい。それは間違いない。
カレンは俯いて自分の姿を見遣った。もともと歩いて出かけるつもりだったので、少々裕福な商人の娘と大差ない服装だ。その上に濃茶の薄い外套を羽織っている。銀の髪は編みこんで巻き上げ、更にボンネットをかぶっているので人目に触れることはない。
仕方がないと意を決したカレンはすっと息を吸うと、十分な間を取ってから慎重に路地へと足を踏み入れた。
舗装されていない小道は、住人が捨てたのだろう生活水でぬかるんでいた。人通りの多くない場所だ。気配を消し、新しい靴跡を辿っていく。
違和感を覚えたのは、追跡を開始して直ぐのことだった。
――おかしい。わたし以外にも尾行しているものがいる……?
追っている男――アマニとは十分に距離をとっている。辺りを見ても煉瓦塀に凭れ寝込んでいる酔っ払いがひとり、走り回る子供たちが二三人、見上げれば洗濯をしている女性がひとり。怪しい者は見当たらない。そのまま屋根まで振り仰いだカレンは、太陽光のまぶしさに手を翳して目を細めた。
白い光の中に、男がいた。灰色の外套が風に揺れ、細身の身体が除く。フードを目深にかぶった男の暗い瞳と、一瞬だけ視線がまぐわった。
まとっているのは、凍てつくような殺気。王宮の夜がまざまざとよみがえる。以前、エレノアを襲おうとしてた刺客だ。
男の口元に、僅かだが薄い笑みが刷かれた。まったく音をたてることなく、男の姿が屋根の向こうに掻き消える。
カレンは咄嗟に走り出していた。男の狙いはアマニだ。それもエレノアのときとは違い、脅しではない。確実に命を狙っている。
――なんて馬鹿な真似を。ここでアマニに何かあれば国際問題、いや、へたをしたらこれを理由に皇国が攻め入ってくるぞ。
泥濘で跳ね上がる泥も気にせず、カレンは路地を右手にはいりその先を歩いているアマニを視界にとらえた。辺りは無人だ。
薄闇のような影が屋根の上にいた。アマニを射程にとらえる距離で、刺客の男が短剣を構えている。
カレンは外套の下に手を入れ、鞘から剣を抜き払う。長剣より刃渡りは短いが、その分軽く、特殊な加工を施した刀身の強度は通常の剣よりも勝っている。
「よけろ……っ」
男の手から短剣が放たれた。カレンが声を張り上げ、はっとしたようにアマニが身をかがめる。身を低くして一気に距離をつめたカレンの前に、灰色の薄闇が舞い降りた。
「なぜ邪魔をする」
低い低い男の声が問う。カレンは剣を構えたまま、アマニの前に回りこんだ。まさか皇国の人間を守ることになるとは思わなかったが、ここで殺させるわけにはいかない。例えアマニがよからぬことをたくらんでいるとしてもだ。
「ここが王国内でなければ邪魔などしない。貴様こそ他所でやれ」
割と真剣に答えたつもりだったが、刺客はふっと皮肉気に口元を歪めた。笑ったのかもしれない。
「おかしな女だ。この間の娘とて助けて益があったわけでもないだろう」
「余計なお世話だ」
短く吐き捨てる。背後のアマニが立ち上がり後退しはじめたことに気付いたが、引き止めるつもりはなかった。さぐられたくない腹を持つであろうアマニがここに留まるはずもない。
「――すまん」
抑えられてはいたが、たしかにアマニの声だった。どのみち加勢は期待していなかったが、謝罪されるとは思わなかった。意外な律儀さに思わず苦笑する。
「わかっているとは思うが、簡単に追わせるつもりはない。人が集まってくるぞ、どうする?」
短剣を構えて踏み出してきた男の行く手を阻むため、軽く剣をあげて通路の中心に向かう。相手も次の一撃を繰り出すための場所へすり足で移動している。
「さっさと消えろということか。だが、そうもいかないようだ。どうあってもあなたは俺の仕事を邪魔してくれるらしい。ならば先に始末するまで」
言うが早いか、男は真正面から襲い掛かってきた。掲げた剣が短い刃と交差し、革製の靴が泥濘に沈む。細身ではあるが力は強い。押し負ける前に、カレンは刃を弾いて距離をとったが、息つく暇もなく凶刃が襲い掛かってくる。
男は相手を巧みに翻弄する術を心得ていた。どうやら暗殺だけを生業としているわけではないようだ。灰色の外套をカレンの刃が掠めれば、短剣の先がボンネットの縁を切り裂く。一進一退の攻防。
均衡を破ったのは、小さな子供たちのはしゃぎ声と近づいてくる足音だった。
カレンの意識が僅かだけ背後に逸れた。その隙に対峙していたはずの男を見失った。直後、背後から感じたのは紛れもない殺気。後ろに回り込んでいた刺客の短剣がカレンの背中めがけて振り下ろされた。
避けられない――覚悟を決めたカレンに、けれど短刀が突き立てられることはなかった。
「なぜ……」
腕をつかんで引き寄せ、間一髪刃を避けさせた闖入者を見上げカレンは呆然と呟いた。飾り気のない服に身を包み、特徴的な髪は前鍔のある帽子で隠されているが見間違えるはずがない。
子供たちの笑い声にはっとし、振り返る。潮時だったのだろう、既に灰色の外套をまとった刺客の姿は掻き消えていた。
「たいした逃げ足だ。王宮の警護をかいくぐって忍び込むだけのことはあるね」
感心したように肯かれ、どっと力が抜ける。彼自身は王宮で刺客を見ていないはずだが、特徴的な短剣から見当をつけたのだろう。
「……ええ、はい、エレノア様を襲った刺客と同じ者でした……どうしてこのような場所にいるんですか」
剣をおさめるカレンに、リューイが青い瞳を眇めていた。
態度といい格好といい、妙に堂に入っている。この様子では常習犯だろうと、カレンはため息をついた。カンディア時代、半ば騙されるように市街に連れ出されたことが思い出される。まさか王太子殿下が日中、供も連れずに市場を歩いているとは誰も思わないだろうが、フロイの苦労が偲ばれた。
どうにも馬は合わないが、リューイの事では意気投合できるかもしれない。
「ちょっと野暮用、君こそ」
「わたしは……オルガのところに参ったのです」
「オルガ? ああ、あの時の医師だね」
帽子の鍔で陰になってはいるが、納得したように肯くリューイの頬がいつもより青い。
「リューイ? 顔色が」
「うん――しまったな、しくじった」
いうなり、ずるりとリューイがくず折れた。カレンの腕にずしりと重みが圧し掛かり、支えきれずに膝が折れる。
そのまま座り込んでしまったが、どうにか胸元にリューイを抱きとめた。
「どうされ……」
カレンの言葉が途切れる。リューイの二の腕にわずかな血痕があった。
刃が掠めたのだろう、袖の生地が一文字に裂けている。だが、傷は浅く、そこまで出血も多くはない。
まさかと思いながら鼻先を近づけると、かすかだが妙な甘みのある香りが漂ってくる。ぎりっと歯をかみ締めた。
――ヘルベロの血か。
躊躇うことなく自身の裾をからげ、ペチコートの裾を帯状に引き裂く。リューイの腕を持ち上げ、傷口よりも手のひらひとつ分上にそれを巻いてきつくなり過ぎないように結わえた。裂けた袖の裂け目を更に広げ、傷口に唇を近づける。
「駄目だ」
「大丈夫です、口径摂取では効果がありません」
リューイの制止を振り切り、血を吸い出す。口中に鉄の味が広がる。
ふっと地面に吐き出した唾液は、赤く染まっていた。口元をぬぐい、もう一度身をかがめたが、押し殺した叫び声がカレンの動きを止めた。
「カレン様……っ」
路地に駆け込んできたリリーだった。息を呑んでいる。
――王宮よりへ戻っていてはおそらく手遅れになる。
「オルガのもとへ」
「私ならこちらに」
リリーの後ろから、濃茶の髪を後ろでひと括りにした長身の女性が進み出た。染みひとつない白衣は彼女の几帳面な性格をあらわしている。
三十も半ばのはずだが、印象は昔とあまり変わらなかった。
「途中まで出迎えに来ていたのですが血相を変えたリリーと会いまして。何かあってはとお捜ししておりました」
辺境伯のもとで長く仕えてきた彼女たちの理解と判断の速さに、カレンは感謝した。
「毒ですか。――これは」
リューイのそばに屈みこんだオルガが眉根を寄せる。
「ヘルベロの血だと思う」
カレンが短く告げると、ことの重大さにリリーの頬がさっと青ざめた。
そこから先、無駄口は一切なかった。




