第四章 金獣の逆鱗(四)
「……ん? ……はい?」
「聞こえなかった? 僕の戦女神は君だよ、カレン」
盛大な聞き間違い、もしくは幻聴という可能性をすっぱり断ち切られた。
「……ご冗談を」
困惑したカレンがようやく搾り出した結論に、リューイが目を細める。なんだかとても楽しそうだ。先程まで烈火のごとく――実際にはどこまでも冷たく凍りつくようだったが――怒りを滲ませていた人物とは思えない。
「どう思う?」
「……いや、五年前にはまだ……」
わたし、いませんでしたよね? 口にしかけた言葉を飲み込む。こくっと咽喉が鳴った。
まさか少年趣味なんですか、とは恐ろしくてとても尋ねられない。微動だにしないカレンに、リューイが綺麗な笑みをみせる。
嘘か真か自分で見極めろ――と言っているのだ。もちろん戯れに決まっている。けれどもし真実であったのなら、カレンにとって考えたくもない事態だ。
引きつった笑みをどうにか作り出し、手にしていたグラスをぎこちなく口元に運ぶ。唇に触れる果実酒はなく、そういえば空だった、と円卓の上に戻した。
当然のようにリューイが果実酒を注ぎいれる。普段であればもう結構ですと固辞するところだが、今のカレンには冷静になる時間が必要だった。
赤い液体が咽喉を流れ落ちる。こわばっていた身体に染み渡る。
決着をつけるつもりだった。が、リューイの答えはあまりにも予想を上回りすぎていた。できることならば、このままそっと棚上げして、いっそ今夜のことはすべてなかったことにしてしまいたい。
わずかな光を反射させ青く輝く洋杯をじっと見つめ、ひとつため息を落とす。カレンは円卓の上に杯を置き、膝の上で手をそろえた。
「はっきりさせておきたいことがあります」
エディンバ家元嫡子としての責任を負った身に、日和見という選択肢は許されなかった。
「お答えいただけ」
ますか、といいかけたカレンをリューイが手で制した。何も問うことなくカレンは口をつぐみ、身構える。
リューイの視線が扉に向けられた。誰かこちらに近づいてきている。気配を消している様子はない。王宮の者に間違いはないだろうが、これ以上踏み込んだ話は危険すぎる。
「残念ながらこの話はここまでだね。たぶんフロイだ」
言葉とは違いリューイに落胆している様子はなかった。カレンは聞かされた思わぬ名に、はっとする。
色々と立て続けに起こりすぎて頭の隅に押しやられていたが、今宵の舞踏会であった諸々もおろそかにはできない。
「羅紗マントの君が誰か突き止められたのでしょうか?」
「おそらくね」
軽い口調だが、フロイに対するリューイの信頼がみてとれた。ともに戦渦をくぐった主従だ、それも当然なのだろうがカレンは小さな胸の痛みを覚える。
できることなら供にありたかった。リューイと過ごした歳月、嫡男として生まれていれば、と思ったこともある。けれどこればかりはどうしようもない。
――いまはそれよりも今宵の顛末だ。
「わたしにもフロイさんの話を聞かせてもらえないでしょうか?」
「報告を一緒に聞いてもらうのはかまわないけれど、その姿でフロイの前にでるつもり?」
指摘され、自身の姿を見下ろしてうっと言葉に詰まる。たしかにいまのカレンはあまり人前に出てよい姿とはいえなかった。
着崩れた衣服は、なにかがあったのだと如実に語っている。
「じゃあ僕から打開策をひとつ」
リューイが人差し指を唇にあてる。やはりとても楽しそうだ。当然の如く嫌な予感しかしない。
「寝室の扉越しに聞けばいいんじゃないかな?」
「それはつまり、貴方の寝室にまたお邪魔しろと?」
それこそ駄目だろう。寝室に入ったまま顔を見せないとなれば、限りなく黒に近い灰色の疑惑がかかるに決まっている。本末転倒過ぎる。
「じゃあ、入ってきた通路から帰る?」
すいっと先程出てきた隠し扉をリューイが指し示す。隠されてはいるが、もうひとつの出入り口だ。しかし帰れと言われても道がわからない。
だが、ここでもうひとつの策があると気付いた。
「でしたら、そこに隠れていれば」
通路の構造を知ってしまうのは問題だが、入り口の直ぐ近くに潜むくらいは許されるのではと考えたのだが、リューイのあっさりした肯定にカレンは諦めざるを得なかった。
「うん、それでもいいよ。フロイは君がそこに隠れているって気付くと思うけど。ついでに、あの通路を知っているのは王族と何代も仕えている侍従だけだから、もし婚約が無効になったら困ったことになるかもしれないね」
困ったことになるのは、おそらく主にカレンだ。おまけにフロイが通路の存在を知らないとなると、事態はさらにまずいことになる。
既に意識しなくとも、フロイの足音は聞こえる程になっていた。
「迷っている時間はあまりないみたいだよ?」
うう、と呻いた後、カレンはがっくりとうなだれた。
「……わかりました、寝室の扉越しに聞かせてください」
「扉は少し開けておいていいから、くれぐれも出てこないようにね」
出たくとも出られるわけがない。なんだかなし崩し的に追い詰められている気がする。
先程は抱えられて入った寝室に、カレンは自らの足で向う。同時にフロイの足音がぴたりと止まった。
「失礼します」
こつりと一度だけ扉がたたかれた。
「入っていいよ」
リューイから承諾を得たフロイが室内に入ってくる気配に、カレンは寝室の扉に身を寄せながらじっと息を潜める。どうせフロイには気付かれてしまうだろうが、できれば存在を忘れて欲しい、と切実に願う。
まさか寝室に潜んで気配を消すことになるとは思ってもみなかった。まるで間男のようだ。
――なんだってこんなことになっているんだ。
盛大にため息のひとつも落としたいところだが状況が許さない。結局、事態は曖昧なまま進んでいる。けれど、戦女神の話が中断したことに、どこかでほっとしているのもまた事実だった。
「あー……よろしかったんですか?」
一呼吸分の間が開いた後、フロイの声がした。普段よりもやや遠慮がちに聞こえる。間違いなく存在に気付かれているな、と再びがっくりうなだれた。
「あまりよろしくはなかったんだけどね」
淡々と答えるリューイに、更に頭を抱えたくなる。もうさらりと流してさっさと話を先に進めてほしい。
「それは申し訳ないことをしました」
「口元が笑っているよフロイ」
声の調子はふざけたものではなかったが、どうやら主の前でもフロイの人を小馬鹿にしたような態度はなりをひそめないらしい。
よく言えば裏表がないのかもしれないが、リューイが手元に置く男がそこまで単純であるはずがなかった。単に表裏を見せる相手を見極めているのだろう。
わざとらしい咳払いに続き、踵を打ち鳴らす音がした。近衛の正式な礼をとったのだとわかる。
「報告いたします。マントの男はケント=サルバン、ポンパヴェル子爵です」
扉に触れていた指先がかすかに震えた。心臓が嫌な速度で鼓動を刻む。ポンパヴェル子爵の名をいまきかされるとは思ってもいなかった。
「そうか。王宮の夜会では夫人が怪しい動きを見せていたよね」
――ポンパヴェル子爵夫人が?
あの晩、控えの間に入るところをみた後、カレンが彼女と顔を合わせることはなかった。
舞踏会の参加者はかなりの数にのぼっていたので不審に思わなかったが、カレンは紹介してもらう為に広間の中をジュリエッタと共にめぐっていた。たしかにホールで一度も見た記憶がないというのは奇妙だ。
カレンは扉に背を向けて座り込み、両手を組み合わせ額に当てた。ポンパヴェル子爵夫人、エレノア、モネの姿が脳裏に浮かぶ。
ポンパヴェル子爵だった羅紗マントの男、その夫人はモネと道ならぬ逢瀬を重ね、エレノアはそのモネに想いを寄せている。
――そもそも舞踏会の夜、たったひとりでエレノア様はどこに向かおうとしていた? あの先には裏庭、あとは――。
「どうされますか?」
「皇国の客人と密談、これだけじゃ拘束するには少し足りないかな。明確な何かをやり取りしたわけではないからね」
「ではもう少し泳がせますか?」
「うん、そうしよう。――さて、宰相殿が到着されるまで後七日足らずか……」
「ええ、シーバルグ伯殿は当たり障りのない地域を上手くまわってくれているようです」
「彼はそのあたり抜け目がないからね。戦略的に重要な場所はなにがあろうと決してみせないだろう」
背後ではリューイとフロイの話が続いている。
額に当てた手を離し、カレンは窓に目を向ける。薄暗い室内に薄く開けた扉から差し込む燭台の明かりが細く伸び、淡い月光に交じり合っていた。
カレンの父でありシーバルグ伯であるジョン=エディンバが王宮にくる。そして宰相が到着する。もうあまり猶予は残されていない。




