第四章 金獣の逆鱗(三)
「――なんのこと?」
リューイの声が重苦しい空気の中に凛と響く。そこには、ひらめく刃のような冷たさがふたたび宿っていた。
カレンは痛む胸を抱え、それでも見慣れた白皙の面をまっすぐに見返す。
エディンバ家を守るためというのも理由のひとつではあるが、純粋に重い責務を負った彼の役に立ちたいと思う。だからこそ、ひずみが増すばかりの曖昧な関係をこのまま続けることはできない。
面倒だと思われても、たとえここでリューイとの関係が断ち切られるのだとしても、はじめた以上、退くつもりはなかった。
この先、なにがおこるかわからない。どうにもならない局面で決定的な破綻をきたすよりは、いまこのときに決着をつけるつもりだった。
「カティアスを好んだという彼女は、戦女神にふさわしいと思います」
「なるほど、そうくるんだ……」
ため息と供に額を押さえたリューイが身を起こす。薄明かりの中では、それだけで表情がうかがえなくなってしまう。
カレンはようやくとけた拘束に、乱れた衣服を整えて寝台を降りようとしたのだが、なぜか思うように身動きができない。
足元をみれば、リューイの右膝がたっぷりした裾のうえに乗っている。力任せに引っ張ればどうにかなるかもしれないが、多少直したとはいえただでさえ着崩れているのだ、うっかり脱げてしまいそうで踏み切れなかった。
「……裾、踏むのやめてもらえませんか」
「うん? ああ、逃げないならどかしてもいいよ?」
もちろん逃げたい。が、逃げてもまた同じことが繰り返されるのであれば意味がない。
「逃げません」
きっぱり言い切ったカレンになにをみたのか、リューイの口元に僅かばかり笑みが浮かんだ。
軋んだ音と共にすべての拘束がとかれ、カレンは緩められてしまった衣服をできうる限り整えて釦を留めなおすと、寝台の縁から足を下ろして立ち上がった。
背後にいるリューイが動く気配はない。背筋を伸ばし、躊躇なく振り返る。青い瞳の金獣は、座したままただじっとカレンを見据えていた。
「本当に君は頑固で律儀だね。あのシーバルグ伯の娘とは思えない」
「それは吉報ですね、あの父にそっくりといわれることは良くありましたが、似てないといわれることは少なかったので」
ふっと苦く笑う。
『柔軟に立ち回ることを覚えなさい、家のために、ひいては領地のために』
カンディアに入学するときジョンから与えられた言葉だ。貴重な助言ではあったが、それを上手く活かせていたかまったく自信がない。いまも同じだ。確信の持てないままに進もうとしている。
曖昧なままでいるべきなのかもしれない。おそらく突き詰めてどうなるものでもないのだ、それならば、いっそ流されるまま王太子妃におさまってしまえばいい。
――選べるはずもない選択肢だな。
たやすく身のうちに染みてくる甘言を、カレンは自嘲の笑みひとつで切り捨てた。
――もうなにかの――誰かの足かせとして過ごすなど、ご免だ。
「リューイ、わたしは自身の持つ事情が複雑すぎます。どう考えても貴方にとって最良の相手では」
「どうしてアルノが戦女神だと?」
カレンの言葉を遮るリューイからは、一切の感情がうかがえない。意図的に消し去っているのだ。こうなってしまうと、なにを考えているのかをさぐることは困難だ。
ただ静かに問いかけられ目を伏せる。ため息交じりのリューイが床に足を下ろした。
「なにか飲もうか」
突然歩き出したリューイに戸惑いながらも、カレンはその背中に従い隣室に戻った。促されるまま円卓の傍に据えられた長椅子に座ると、蒼い色硝子に精緻な蔦の銀細工が施された杯を手渡される。
中には赤暗色の液体が揺れていた。立ち上る甘い香には酒精が混じっている。果実酒のようだが、覚えのない匂いだ。
促されるまま、一口含む。やや酸味のある濃厚な果実の味がうまくひきだされている。置かれた壜にラベルが貼られていないのは、おそらく一般には出回らない希少な品なのだろう。
「どう?」
「いいですね、重みのある味なのに飲み易いです」
素直に肯くと、リューイがどこか含みのある笑みを向けてくる。こういうとき、この王太子は大概突拍子もないことを言い出すのだ。
「催淫剤を仕込んである――と、言ったらどうする?」
予想通り性質の悪い戯れをはじめたリューイにのせられるつもりはまったくなかった。
「ご冗談を。あなたはそんなことをなさらない」
真か偽か、考えるまでもなくカレンは一笑に伏して再び酒杯に口をつける。
のどの渇きに任せ、そのまま飲み干し酒杯を小さな円卓に置くと、リューイが困ったような呆れたような、なんともいえない表情をしていた。
「どうかなさいましたか?」
「君といると僕は大抵いつもどうかしているよ」
「それこそご冗談を」
貴公子然とした笑みで、それと気付かれないうちに周りを振り回すのは、いつでもリューイだ。
翻弄されるばかりのカレンにしてみれば、なにを云っているんだとしか思えない。
向かい合った椅子に座したリューイが自身の酒杯に口をつけた。透明な杯の中身は、見る見るうちに減っていく。
すっかり空になったそれが円卓の上に戻され、並んだ二つの器に再びリューイ自らが果実酒を満たす。だが、お互い手に取ることはなかった。
「カレン、戦女神――ティア=ヴァーロッケンは慈悲深いだけの神じゃない。武と知を持って平とする。つまり、戦いと策略により平和をもたらす女神だ」
足を組んで背もたれに身を預けたリューイが淡々と語る。カレンの中で戦女神は見知らぬ少女の姿を形作っていく。
「……存じております」
携えた銀の剣は武、傍らに佇む翼ある金狼は知と武を併せ持ち、それらを束ねるたおやかなる乙女が平和を象徴するという。
「アルノ=ヨークスはね、とても優しい人だったよ。だからこそ僕が彼女を戦女神に喩えることはありえない」
――ありえない?
ふと気がつけば、蝋燭の明かりが映りこむリューイの目は、まっすぐにカレンを捕らえていた。
「僕の戦女神はアルノではないよ」
落ち着いた低い声音に偽りを感じることはできない。
「カレン? 聴いている?」
「はい」
はい、と繰り返しうなずきながら、呆然とリューイを見返す。
――戦女神が、アルノさんではない?
ようやく理解が追いついてきたが、納得はできていなかった。
「彼女ではないんですか?」
「違うよ」
はっきりと否定され、一気に力が抜ける。カレンはどこかぼんやりしたまま卓上の杯に手を伸ばした。
こくりと一口、続けてもう一口。カティアスを好んだ少女は、彼の想い人ではなかった――では、王太子がなぜこれまで独り身を通してきたのか。得た答えは次の疑問を呼び込み、結局は堂々巡りだ。
「まさかあなたの戦女神は人妻ですか」
はっと思いつき尋ねたカレンの前で、リューイが底冷えするような笑みを浮かべた。どうやら違うらしい。
更に何度か酒杯をかたむける。気がつけば、いつの間にか二杯目も飲み干してしまっていた。
「ねえカレン、僕は君の質問に答えたよね? 今度は君が教えてくれるかな。どうして戦女神がアルノだと?」
先ほども尋ねられ、答えられなかった問いだ。生まれながらに淑女として育てられたのだろうアルノと自身が似ている、とはどうしても言い辛かったのだが、誤魔化すことなく答えてくれたリューイに、カレンは躊躇いながらも口を開いた。
「わたしが、アルノさんに似ている、と……」
「モネに云われた?」
――なぜわかる。
カレンの沈黙をリューイはそのまま肯定と捕らえられたようだ。
「ふうん、僕のことは全然信じてくれないのに、モネの云うことは簡単に信じるんだ?」
「いえ、そういうわけでは」
なくもないような、とは今の状況ではとてもいえない。語尾を濁したカレンの前で、リューイが不意に捕食者の笑みを浮かべた。
「ねえカレン、僕の戦女神が誰か知りたい?」
まるで狩をする獣そのものだ。じっと機会をうかがい、最適な一手を繰り出してくる。隙を見せたら最後、身体の下に引き込みいやおうなく食い尽くす、とリューイの雰囲気すべてが物語っている。
カレンはこくりと咽喉を鳴らし逡巡した。逃げないと決めたはずの心が揺らぐ。知りたくはあるが、知りたくはない。
その迷いを見透かしたようにリューイが酒杯を持ち上げた。しばらく考えるための猶予をもらえるのだろうと、カレンは目を伏せ――。
「僕の戦女神は君だよ――カレン=エディンバ」
身構える暇さえも与えてはもらえなかった。




