第三章 仮面の思惑(十六)
開け放たれた窓は中庭に面している。新鮮な空気を求めてそばによってみたが、入り込む夜気は熱い。まるで濃密な艶が含まれているようだ。
――どうやら予想していたよりも、ずいぶん厄介な相手らしい。
気配を殺したままカレンは天を仰いだ。質素な漆喰細工の天井は薄闇に包まれている。アマニを追ってきたものの、回廊の曲がり角で姿を見失ったのはつい先程のことだ。
尾行に気付かれたのか、それとも偶然だったのか。できれば後者を望みたいところだが、楽観的思考を排除するなら、気付かれていたと考えるべきだ。
アマニを見くびっていたつもりはない。事実、カレンは細心の注意を払っていた。だというのに撒かれてしまった。
おそらくそう遠くには行っていないだろうが、このままふらふらと捜しまわるのは危険極まりない。相手の力量が己より上であるならなお更だ。
幾ら仮面をかぶっているとはいえ、カレンの立場は現在、王太子の婚約者だ。身元がばれてしまえば醜聞は避けられない。そうなれば、リューイとエディンバ家を巻き込まずに事態を収束することはできないだろう。
窓の端に寄せられ飾り房のついた紐でゆるく括られた覆い布の影で、自身の軽率さに唇をかむ。リューイの制止を振り切ったのは、自分にはできる、と思っていたからだ。見くびったつもりはないが、驕りはあったのかもしれない。
幾つかの不規則な足音に、忍び笑いと抑えた話し声。カレンは覆い布の奥に身を潜めた。
――ひとり反省会はとりあえず後回しだ。いつまでもぐずぐずしてはいられない。
中央に配された三階建ての棟にはL字型の左翼と右翼がおかれ、中庭を囲い込んでいる。カレンがいるのは、右翼側だ。幾ら怪しい集まりとはいえ――いや、怪しい集まりであるからこそ、ひとりでうろうろと同じ場所を行き来していれば人の注意をひいてしまう。
適当な相手をつかまえて偽装する手段も考えたが、カレンには一夜の戯れに応じる気はまったくない。余計な騒動の種を撒くことは避けたかった。
カレンに気付くことなく通り過ぎた足音の主たちが、廊下の右側に並んだ扉を幾つか通り過ぎた後、ふいに止まった。そっと様子を窺えば、男がクラバットを解き、真鍮製の持ち手に引っ掛けている。その後、ぴったりと寄り添った二人は扉の中に消えていった。
――なるほど、使用中の合図か……。
休憩室といえば多少聞こえが良いが、ここでのそれは、いわゆる連れ込み部屋というやつだ。
意気投合した男女が秘密の情を交わす場所。まだ時刻が早いためか、使われている部屋はそれほどなさそうにみえるが、よくよく見れば、クラバット以外にもレース製のリボンや蝶タイ、中には女性の靴下が結わえられているところもある。
カレンは確認できる限界まで目をむけ、もっとも遠い扉に揺れる羽飾りに釘付けになった。むしりとられて形が崩れていはいるが、あきらかにアマニがトップハットにつけていたものだ。
羽飾りの君が愚者であるなら、女性を連れ込んでいる。だが、彼の隙のない身のこなしに、カレンはその可能性を捨てていた。
飛び込むべきか、逃げ出すべきか。罠とわかっていながら掛かりに行くほど馬鹿ではないが、懐に飛び込んで得られるものが多いというなら話は別だ。
男を落とす常套手段といえば色仕掛けだろうが、果たして陥落できるか、と自問し、カレンはきっぱり自身を否定した。
如何考えても経験がたりない。滑稽な有様を晒した挙句、こちらの身元を暴かれる未来しか見えなかった。
好機だとしても、いまはひとりで突っ走るべきではない――。諦めのため息が熱を含む夜気に溶け込む。
リューイと合流して策を練り直す為、カレンは潜めていた窓辺から身を起こした。
「おい、あんた」
低い声は、綺麗な公用語をつむいでいた。ぎくりと身を竦めた後、振り向くべきか迷ったのは一瞬。カレンは何食わぬ風を装い、仮面におおされていない口元に淡い笑みを浮かべ、殊更ゆっくりと振り返った。
リューイよりもやや高い身の丈、仮面から覗く肌は日に焼け浅黒い。外套は部屋の中においてきたのか、身にまとってはいなかった。くっきりと筋肉の浮かぶ首元に、頑強そうな体躯。髪の色が漆黒ではなく、濃い茶褐色になっているのは鬘だろうか。
「はい、なんで」
しょうか? と答えきる前に、近くにあった空の休憩室に腕をつかまれ引きずりこまれた。あまりの暴挙に唖然とする。いくら仮面舞踏会とはいえ、駆け引きすらなく婦女子を手篭めにして良いわけではない。
――いや、こちらを疑っているからこその暴挙か。
やはり尾行に気付かれていたのだと確信できたが、なんの解決にもならない。
カレンは、扉が閉まる直前、ゆるく腰に巻かれていた細い飾り紐を廊下に向けてすばやく放り投げた。
この意味に気づいてくれるとすればリューイだけだが、羅紗マントの男はアマニとは逆へ向かっている。左翼、もしくは中庭に行ったのだとすれば、リューイがここにくる可能性はきわめて低い。
さて、どうしたものか、と簡易寝台に押し倒されたカレンは、冷たく見下ろしてくる男を、それ以上の冷ややかさで見つめた。
いっそ、誰彼かまわずの色呆けであってくれれば良かったものをと、厄介な事態に心の中で舌打ちする。
「離していただけませんか? どなたか存じ上げませんが、女性がひとりでいたからといって、むやみやたらに連れ込んでよいというわけではありませんよ」
「なにを探っている?」
「なんのお話でしょう?」
互いの間に、冷えた沈黙が落ちる。
「白を切るか。ではそれなりの扱いをさせてもらおう」
「ですからなんのお話かわかり、ま……っ」
ぞわりと肌が粟立った。無骨な男の手がカレンの腰を撫でながら滑り降りたのだ。寝台に押し付けられたときにふくらはぎまでめくれあがっていたドレスの裾が更に絡げあげられた。嫌悪感からくるうめき声をかみ殺し、咄嗟に男の腹を蹴り上げそうになった膝をどうにか押しとどめた。
「ずいぶん下衆な真似をなさるのですね」
「慣れていないな、生娘だろう。正直に言わねば、ここで純潔を散らすことになるが」
「ですから、なんのお話かわかりませんと申しております」
「まあいい、それなら楽しませてもらうだけだ」
楽しむ? 冗談じゃない。はっきりいって限界だ。だが、いま騒ぎを起こすべきではないということもわかっている。
こちらを嬲るつもりなのか、アマニはカレンの仮面には手をつけようとしなかった。いつでも如何とでもできる、と言われているようで不愉快極まりない。
殴りかからないよう自制心を総動員させたまま、どのみち誰とも結婚するつもりはないのだから、純潔のひとつやふたつ、なくしてもいいんじゃないか、とカレンは意識の隅で考えていた。
「……暴れないのか。ならば合意とみなすが」
引きずり込んで押し倒した挙句に合意? そんなわけが無いだろう、とでかかる罵倒を飲み込み、無言で睨みすえる。
ふっと鼻で笑ったアマニが、カレンの首筋に唇を押し当てた。押さえつけられている腕に力が篭る。続けられる行為を、意思とは関係なく身体が拒絶している。
リューイに触れられたときには、動揺はしたものの嫌だとは思わなかった。激しい嫌悪感に、自分の気持ちを再び突きつけられた気がした。
――無理なものは無理、ということか。ああまったく、どうしようもないなわたしは……。




