第三章 仮面の思惑(十四)
「……レン、……カレン?」
ぱちん、と目の前で指が鳴らされる。
焦点の結ばれた視界に飛び込んできた美貌は思ったよりも近くにあり、カレンはぎょっと身を引いた。
テーブルの傍でぼんやり佇んでいたのだが、気付かぬうちにリューイが傍に来ていたらしい。
「心ここにあらず、だね」
紺碧の夜会服に身を包んだ姿はこれ見よがしのため息すらさまになっているが、くすんだ茶色の髪になじみがないせいか、どこかしっくりこない。
リューイが得た情報の通り、ガブロア家主催の仮面舞踏会がはじまるまであと半刻。カレンとリューイがいるのは、仮面舞踏会が開催される館近くにある高級宿屋の一室だ。
王宮からここまでは、手配された簡素な馬車を乗り継いでやってきた。ふたりとも、身元のわかるようなものは一切身に着けていない。
リューイの金髪は染め粉で見事に覆い隠され、鈍い茶色になっている。カレンも同じように銀髪を染めようとしたのだが、髪が痛むからという理由でリューイに止められた。仕方なくかぶった鬘の感触に加え、胸元に垂れる黒髪にもやはり違和感がある。
「どうしたの?」
「どうもいたしませんが?」
にっこり笑ってみたが、とても誤魔化せたとは思えない。時に、恐ろしく冷たい光を宿すこともある青い瞳がやや細められた。
「本当に?」
「はい、もちろん」
「君は嘘が下手だよね」
呆れたようにふっと笑われた。カレンの口元が引きつる。つまりは腹芸のひとつもできないのか、と言われているのだ。
素直さだけで渡っていけるほど貴族社会は単純なものではない。元伯爵家嫡子としては致命的過ぎる指摘だが、カレンは生まれてから十数年、ずっと偽りの人生を過ごしてきた。それはリューイも承知しているはずだ。カレンの年でこれほど年季の入った嘘つきはそうそういないだろうに、リューイの言いようは皮肉としか思えない。
「嘘などついてません」
「ふうん、そう? でもその顔はかわいくないかな」
きゅっと鼻をつままれ、咄嗟に反応できなかった。いや、相手がリューイでなければ触らせもしなかったはずだが、この王太子に対してはカレンの防御はとことん甘くなる。
こん、と部屋の戸が一度たたかれた。
「そろそろ時間です」
戸の外からフロイの声が低く告げる。今回、リューイが従者として伴っているのは彼一人だけだ。御者兼、護衛といったところだろう。
リューイの手が離れたカレンは、無言で後ろに二歩下がった。
「いま行く、外で待っててくれ」
「承知いたしました」
靴音と共にフロイの気配が遠のくと、鼻に手をあて目つきを険しくさせているカレンに、リューイが平然と手を差出してくる。
「では参りましょうか、カリン嬢」
「……ええお供いたしますとも、ランド様」
しぶしぶリューイの手をとったカレンだが、すべてが奇妙なことになっていて、まったくしっくりこない。
変装に仮面、そして仮初の名――。
リューイがカレンに付したカリンとは、ポートティーの香り付けに使われている柑橘果物のひとつで、緑の皮と白色の果肉を持っている。春から夏にかけ花をつけ実を結び、祝い事の席で供される事が多い。ポートティーを好むカレンにはなじみのある名だが、なんだか己が供物になったような気がしないでもない。
そしてカレンがリューイに付けた呼び名は、数百年前に実在したといわれる稀代の色男――実に百人以上の女性と関係したといわれている男爵の愛称だった。
これから赴くのは、後ろ暗いところのある社交場だということはわかっている。わかってはいたが、姿も名も違うという状況は、見知らぬもの同士になったようでお互いの距離感がつかみにくい。だが、リューイの青い瞳はどことなく面白そうだ。どうやらこの状況を楽しんでいるらしい。
「……ちょっ、なんですか」
乗せただけだったはずの手が強く握りこまれ、唐突に引き寄せられた。抗議するカレンに貴公子然とした笑みを向けた王太子は、いつの間にか仮面を手にしている。
黒の絹地に、ガラスと半貴石、玉石混淆の装飾がふんだんに施された豪奢な仮面が、両目と口元以外のほぼすべて覆い隠す造りになっているのは匿名性の高さを保つためだ。
宿屋に入るときはガウンについたフードを目深に被っていたが、支度を整えた後は仮面つきで出て行くことになるのかと、カレンはそれを受け取ろうとした。
触れる前にすっと遠ざけられ、指先が空を切る。
「はい、そのままじっとして動かないで」
「は?」
中途半端にあげられた腕の中に、リューイが入り込んでくる。
頬にかかっていた髪が丁寧に指先で払われ、仮面の左右に通された平紐のベルベットが耳の上を掠めていく。一瞬塞がれた後、視界はずいぶん狭まった。
王太子の手ずからつけられた仮面はひやりと冷たく、思ったよりも軽い。一歩下がったリューイが、顎に手を当てしげしげと眺めた後、納得したように肯く。
「うん、いいね。でもこれ、口付けするには邪魔かな」
「ふざけてないで、貴方もとっとと準備なさってください。遅れますよ」
軽口をたたくリューイに、テーブルの上におかれていたもうひとつの仮面をとって押し付ける。
これまでもずいぶん気安く触られていたはずだ。だというに、どうしたことか触れられた頬がいつもよりずっと熱い。
舞踏会の雰囲気に合うよう、胸元はいつもより広く開いている。跳ねる鼓動がばれてしまわないか、気が気ではなかった。
ぎこちなくリューイから視線をそらすと、窓硝子に映りこんだ自分の姿が目に飛び込んでくる。たとえ映った姿がどれだけ変わっていようと、中身は同じだ。わかっているはずなのに、なぜか見知らぬ令嬢に見返されたような妙な気分になった。
――おかしい、なんだこれは。鬘を被ろうが、仮面を被ろうが、本質はなにも……。
そう、なにも変わらない。カインでもなく、カレンでもなく。ひとりの娘に立ち返ったとき、そこに残った本質にこそ戸惑っているのだと不意に気付いた。
金の髪とすべてを見透かすような青い瞳。貴公子然とした笑みは作り物だと知っている。皮肉な笑みで毒を吐くことも、親しい人間にだけ見せる笑みが存外幼く見えることも、知っている――知っていた。冷たくて恐ろしい、性質が悪く、なのに、とてもやさしいのだ、この男は。
俯いたときに、うっすら朱色に染まった胸元がみえた。仮面を付けている最中のリューイが気付く前に、椅子にかけられていたショールを取り上げ、肩からかける。
――なんのしがらみもなくいられるのなら、わたしはこの人が――欲しい。
はっきりと自覚してしまった気持ちに、カレンは仮面の下できつく眼を閉じる。胸がきりきりと痛む。叶うはずのない想いならば、そのまま眠らせておきたかった。
「それじゃあ行こうか」
再び差し出された手に顔をあげれば、カレンと似た意匠の仮面に、瞳の色を隠すためのトップハットを被ったリューイがいる。
「ご随意に」
温かく大きな手のひらに自身の手を重ね、カレンは痛む胸を抱えながら口元だけで微笑んだ。




