第三章 仮面の思惑(十)
「だんな様、リリーからの連絡が届いております」
ジョアンが手にしている小さな銀の盆には、細く折りたたまれた紙が乗せられていた。執務机でペンを走らせていたジョンがガラス製の丸眼鏡を外し、トレーから白い紙を取り上げる。中には几帳面なほど丁寧な文字で、タウンハウスの準備について、そして、カレンの近況が細かく記されていた。
「ふむ、なかなか苦戦しているようだ」
ジョンが口元をにやりと歪める。事態が動き出してから既にひと月近くが経とうとしているが、彼の愛娘は相変わらずらしい。
「――だんな様」
ジョアンの声には咎めるような響きが宿っていた。冷静な彼にしては大変珍しい。
カレンが王都に出立後、ジョンは別邸の使用人を一時的に呼び戻していた。リリーがタウンハウスの準備に向かったのは予定通りだが、皇国宰相のお守りが決まったのは今回の社交シーズンがはじまる直前という慌しさで、人手が欲しかったこともあり古館には維持に必要な者だけを残すことにしたのだ。
ずいぶん長い付き合いになる家令に苦笑し、ジョンは引き出しから茶色の小瓶を取り出した。
ガラス製の蓋をあけ、少し刺激臭のする液体を丁寧に伸ばされた紙の上に一滴垂らす。網の目状の筋が瞬く間に紙面を覆い尽くした。紙の角がくるりと丸まり、下から薄紙が覗く。
昔から秘密裏の文書でよく使われる仕掛けだ。当たり障りのない表面の紙、その下に秘すべき文書が挟まれ、裏面となる紙にはなにも書かれない。
一度分離させてしまえば二度とは元に戻らず、痕跡無く盗み見ることは不可能だ。
引き出した薄紙には、やはり綺麗な文字で、たった一文が記されていた。
『本当にエディンバ家の花を手折らせるおつもりですか?』
エディンバ家の花――すなわちカレンを、本気で王太子妃にするつもりか、ということだろう。
エディンバ家当主は、手にしていた薄紙をはらりと机上に舞い落とし、肘をついて組んだ手の上に顎を乗せた。
「さて、それは殿下次第。我が家の箱入り娘はなかなか手ごわいからなあ」
「差し出がましいとは思いますが、一言よろしいでしょうか」
机の前に控えていたジョアンに向けて、ジョンは再び苦笑した。幾ばくか年嵩の家令が主人に意見すとき、それは数奇な半生を持つ主家の娘がおおむね絡んでいる。
「聞こう」
「カレン様に幸せになっていただきたい、それがわたくし――いえ、わたしくどもの総意でございます」
古くからエディンバ家に使える者たちは、カレンの出生に何があったのかを知っている。
シーバルグ伯領は王国の要所。領主の館には信頼できる人間だけが集められており、もちろん誰一人として秘密を漏らすことはない。
老いて後は、カレンの住む古館に移り住むものも多く、どうにも不器用な生き方しかできないカレンに心を砕いていることをジョンも知っていた。
「――ジョアン、私もだよ。けれどね、あの子は諦めることを知りすぎている。自分から強く望まなければ、この先、殿下の隣に立ち続けることはできない。――もし諦められるというのなら、その程度だったということだ」
シーバルグ伯爵としてではなく、ひとりの父親として彼もまた娘の幸せを願っている。けれどこの先を決めるのは、どの未来を掴み取るかは、結局のところカレン自身なのだ。
「申し訳ありません、余計な口出しをいたしました」
すっと頭を下げようとする家令を片手をあげることで押しとどめ、ジョンは立ち上がった。執務机の後ろにある窓から庭園を見下ろすことができる。
月明かりに照らされ、白木で作られた四阿が仄かに輝いていた。彼の妻、ユリアが気に入っていた場所だ。
――カレンをリューイ=モーハンストに委ねたことが正しかったのかどうか。君が生きていたら、私の選択をどう思うのだろうな……。叱り飛ばすか、笑い飛ばすか。案外、呆れてなにも言ってくれないかもしれない。
だが、その答えは永遠に得られない。フィルイを生み落とした年の春、ユリアはあっけなくその生涯を終えてしまった。
死の間際、打ちのめされるジョンにユリアが向けたひどく美しい笑み――。親族から新しい妻を迎えろと矢の催促を受けながらも独り身で通しているのは、いまだその意味を掴みかねているからかもしれない。
わずかな歪みのある窓硝子。映りこんだ自身の姿には、過ぎてきた年月が確実に降り積もっている。
どうやら古くからの使用人たちが戻ってきたことで感傷的になっていたようだ、とジョンは背後にいるジョアンに顔だけを向けた。
「私の方もそろそろ宰相殿の迎えにでる」
「準備はできております」
「そうか、それでは精々わが国を見物していただこうか」
ただし当たり障りの無い場所だけをね――。
ふっと口元に笑みを浮かべ、もう一度窓の外に視線を向ける。そこにはもう苦さを含む感傷に浸っている男はいない。
窓に映りこむ真意を読ませない笑みに、ジョアンが深く一礼した。
侍従に案内された庭園の中、その中心に堂々と立つ樹木を見上げ、カレンは感嘆のため息を漏らした。
まわりでは数人の男女がやはり同じように新緑と白い花に見入っている。
「カレン様、いらっしゃいませ」
親しみの篭った少女らしい声に呼ばれ振り向く。
たっぷりと襞のとられた下衣の裾を軽く持ち上げて、小柄な少女が芝で覆われた庭園の中、カレンに向かってきていた。
肩にかけている白い薄手のペルリヌを整えなおし、カレンもアミーリアの方に歩を進める。精緻な蔦の刺繍が刺された藤色のディドレスにあしらわれた三段のフラウンスが一歩毎にふわりと揺れた。
社交の場ではリューイの用意した衣装を着ることが多いのだが、全般的にいって使われている布がとても多い。動きやすさを重視したいカレンはもう少し簡単なドレスを望んでいるが、公式な場には色々と制約があり、要望が通る見通しは限りなく少なかった。
「アミーリアさん、お招きありがとうございます」
やや息を切らせているアミーリアにカレンがやわらかく微笑む。小柄な少女はほんのりと頬を染め、はにかむように俯いた。
「あの……いらしてくださってうれしいです」
小花が散らされた薄緑の綿で仕立てられたディドレスをまとったアミーリアは、森にあらわれるという精霊のようでとても愛らしい。
以前、リューイから森の精霊と呼ばれている、といわれたこのあるカレンだが、それはアミーリアのような娘にこそふさわしい呼び名だろうと思う。
「すごいですね。カティアスの樹がこんなに花をつけているのははじめてみます」
ヴィバック公爵邸よりは手狭だが、自然を生かした造詣見事な庭。なによりも、ここを訪れた人々は中央に配されたこのカティアスの樹に必ず驚嘆の眼差しを向けていた。
王都の外れにのみ自生するカティアスはとても枯れやすく、背丈の何倍もあるものを見るのはカレンも初めてだ。しかも、みたことがないほど大きな花弁と花びらを持つ真っ白な花が、零れ落ちんばかりに咲き乱れている。
「はい、亡くなった曾祖母が植樹して育てたんです。数年前から皆さんにみていただこうと、この時期には開放することになって」
アミーリアは控えめながらとても誇らしげだった。素直で純真。彼女を見ていると愛情に満ちた家族像が浮かんでくる。自然、ベルポック男爵の人柄を慮ることができた。
「すばらしい曾おばあ様ですね。ご存命ならぜひお話を伺いたかったです」
「ありがとうございます、曾祖母も喜んでいると思います。姉もカレン様とお話したがっていたのですが、昨日、嫁ぎ先に帰ってしまって」
「そうですか……わたしもお会いしてみたかったです」
アミーリアの姉であるサリーヌは、カールスト王国の北に位置するアルセン王国の貴族の元へ嫁いでいる。おそらく庭園の開放時期に合わせて里帰りしていたのだろう。アルノの直接の友人であるサリーヌとはカレンも直に話してみたかったのだが、残念なことにすれ違いになってしまったらしい。
「姉に伝えておきます。カレン様にとても会いたがっていましたから、喜ぶと思います。あの、こちらへどうぞ、お茶をご用意させていただきました」
「ありがとうございます。では遠慮なく」
足取り軽く先導するアミーリアの後ろに従い、カレンは促されるまま庭園に設えられた休憩所――赤い屋根が四方に配された柱に支えられている四阿に向かった。




