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第三章 仮面の思惑(九)

 そろそろ宵が終わろうかという時刻。

 手にした白磁の茶器を見つめたまま微動だにしない主人に、リリーはいささかどころでなく不安を覚えていた。


 「カレン様」


 そっと呼びかけてみるが、まったく反応がない。

 夕刻、なぜか別行動をとっていたはずの王太子殿下と馬車で帰ってきてから、あきらかに様子がおかしい。

 原因はわかりきっている。人生の半分以上を伯爵家嫡男として育てられたカレンが動揺を見せるとき、大抵はあの王太子が関わっているのだ。だが、その詳細まではさすがにわからない。


 「カレン様、お茶を淹れなおしましょうか?」


 先程より近い位置からリリーが声をかけると、はっとしたようにカレンの目が焦点を結んだ。

 ようやくこちらに意識が戻ってきたらしく、長いまつげに縁取られた瞼を幾度か瞬かせた後、茶器をそっと受け皿に置いた。


 「すまない、少しぼんやりしていた。お茶、濃い目に頼む」


 まるで少年のような言葉遣いは、ここ数年で仕込まれた淑女の仮面が剥がれ落ちていることをなによりも物語っている。

 これは間違いなくあの王太子殿下になにかされたに違いない。


 「かしこまりました」


 いつもであれば鋭く指摘するところだが、リリーは何もいわずにお茶の仕度をはじめた。

 領地からわざわざ取り寄せた上質のポートティーだ。このお茶は、柑橘系の香りとさわやかな飲み口が一部の層から指示されているものの、まだ広く知られているわけではなく王都では入手が難しい。

 馴染みのあるもので少しでもカレンの気持ちが安らげばと思ったのだが、ただひとつ誤算があった。リリーが最も頭を痛めている人物、王太子がこの香を懐かしみ、度々カレンにお茶を所望してくることだ。最初はどうせ建前上の理由だろうと思っていたのだがどうやら本当にお茶を楽しんでいるようで、すべてが偽りでない分、余計に性質が悪い。

 王太子でなければ深夜のお茶会などカレンも肯きはしなかったろうが、カンディア時代のこともあり、おそらく無意識のうちに警戒心が薄くなっているのだ。


 「で? カレン様、王太子殿下となにかございましたか?」


 淹れなおしたお茶を差し出しながら尋ねると、カレンは平皿から取ろうとしてた胡桃と杏が練りこまれた焼き菓子を取り落とした。

 皿の上で焼き菓子が跳ねる。カラリという音がやけに大きく響く。あからさまな動揺をみせたカレンは、取り落とした菓子をそのままに、固まっている。その態度がなによりもリリーの質問に答えていたのだが、カレン自身は気がついていないだろう。

 傍らに無言で立つリリーを、カレンが意を決したように見上げてきた。


 「――いや、なにも。そうだよな、あれは普通のことだ。友人として問題ない。うん、よし、なんでもない」


 喋っているうちに、カレンの口調が力を帯びてくる。どうやら自身の中で無理やり折り合いをつけることに成功したらしい。


 「カレン様……言葉遣いが昔に戻っていますよ」


 はあ、とリリーがため息をつく。


 「え? ああ……」


 困惑したようにエバーグリーンの瞳をさまよわせるカレンは、やはり昔に戻っていることに気がついていなかったらしい。


 ――あの王子、いったいカレン様になにをしでかしてくれたのか。昔はもう少し可愛げがあったものを。


 リリーはカレンに笑みを向けたまま、心中で苦々しく舌打ちした。脳裏には秀麗な美貌を持った王太子が浮かんでいる。まったく忌々しいことこのうえない。


 「ちょっと気が緩んでいたみたいだわ。もう大丈夫」


 言葉遣いを正しつつ力強く言い切ったカレンを、リリーは胡乱にみつめた。


 「本当に大丈夫よ。……それでねリリー、今晩も殿下がいらっしゃるから支度を――」

 「またですか? もう夜ですよ? 暗いですよ? そしてカレン様は伯爵令嬢ですよ?」


 ありえないと首を振るリリーに、カレンが苦笑しながら首をかしげた。


 「リリーが心配しているようなことはないから」

 「どうしてですか」


 侍女としてはありえないことだが、つい口調がきつくなってしまう。

 リリーがなにを懸念しているかカレンは理解している。だというのに、どうしてこうも危機感がないのか不思議でならない。


 「殿下には、ずっと想いを寄せている女性がおられる」

 「……はい?」

 「だから殿下にはずっと想われている女性が」

 「いやはい、わかりました」


 繰り返そうとしたカレンをリリーはきっぱり遮った。


 「ちなみにですがカレン様、その想い人がどなたかご存知なのですか?」

 「いや、知らない。でも、少なくとも五年以上前に殿下と知り合った女性だと思う」


 なにがどうして、こんなに中途半端な情報をカレンが得ているのか。

 更に問いただそうとしたところで、こつり、と一度、部屋の扉がたたかれた。カレンの肩がかすかに跳ねる。

 思っていたよりも早いが、おとないには非常識な時間。訪ねてきた相手は間違いなくいましがた話題にのぼっていた人物だろう。

 どうやら複雑化の一途を辿っているらしいカレンと王太子の関係に、リリーは頭を抱えたくなった。

 おそらく、カレンほど自身の色恋沙汰に鈍い女性はそうそういない。

 幼少時から己の役割を理解していた為か、彼女は結婚というものをまったくの他人事、一生縁の無いものを考えていた節がある。

 無理の無いことだとは思うが、想像すらしたことのない王太子の婚約者という場所に立たされているいま、カレンは無防備な赤子同然なのだろう。

 ため息を押し殺したリリーはカレンの横を離れ、扉を開けた。


 「やあ、リリー」


 薄暗い明かりの中、綿の白シャツにやや緩めな黒の穿衣をまとった美貌の王太子が甘い笑みを浮かべて立っていた。

 リリーが頭を下げ礼儀的に対応すると、王太子は躊躇うことなく部屋に踏み入ってくる。

 迷いの無い態度は、リリーがタウンハウスの準備で王宮にいないときにもこうして尋ねてきているのだろうことをうかがわせた。

 長椅子から立ち上がったカレンが腰を落とし、軽く頭を垂れる。


 「殿下、ご機嫌麗しく」

 「うん、とてもいいよ」


 扉の傍に控えていたリリーは、おや、と妙な違和感を覚えた。

 昨日までは、カレンが『殿下』と呼ぶと、王太子はどこか呆れたような雰囲気を滲ませていたのだが、今日はまったくそれがない。


 「リリー、もう下がって大丈夫よ」

 「……承知いたしました。本日は王宮に控えておりますので、御用がありましたらすぐにお呼びください」


 すぐに、の部分を意図的に強くする。カレンは気がついていないようだが、美貌の王太子がふっと笑ったことをリリーは見逃さなかった。


 ――ああ、まったく性質の悪い。


 無表情のままリリーは心の中で散々に王太子を罵倒する。だが下がれといわれた以上、とどまるわけにはいかない。

 一礼し、扉を開け廊下に出る。そして、扉が完全に閉まる直前。


 「カレン、ふたりきりだね」

 「――そうですね」

 「じゃあ、リューイって呼んで?」

 「……いや、用もないのに呼べませんから……」


 聞こえてきた二人の会話に、リリーはカレンが何を思い悩み折り合いをつけたのか把握した。

 ぴたりと閉じられた扉を前に深く深くため息をついた後、踵を返す。

 薄暗い廊下を進み、王宮内にある使用人部屋に戻ると、そのままライティングテーブルに向かった。

 少なくともカレンの部屋の明かりが落とされるまで眠るつもりは無い。

 王宮とエディンバ家のタウンハウスを行き来している状況では勤務時間が不規則になることもあり、手狭ではあるがひとり部屋が割り当てられている。

 蝋燭の灯りが揺らめくたびに広げられた紙の上で踊る影を見つめ、リリーはインク坪にペン先を浸す。


 ――もう十年近く前になるのね。


 先程目にした王太子の姿に、リリーはカレンが刀傷を負ってカンディアから帰ってきた冬――既に王太子となっていたリューイが視察という名目でシーバルグ伯領に逗留することになった冬を思い出していた。

 その当時、まだ十代半ばだった王太子殿下は、既にずいぶんと浮き名を流していた。

 王太子が来るとわかった段階で、年若い侍女が王太子殿下に関わることのないよう、メイド頭をしていた母が頭を悩ませていたことがいまでは懐かしい。

 実際に王太子殿下の滞在がはじまった後は、近隣から貴族令嬢がずいぶん押し寄せた。

 結局、その誰にも王太子がなびくことはなく、女性関係については綺麗なものだった。

 王都の噂というのは当てにならない、とエディンバ家に務めていた者たちは皆、王太子に大変よい印象を持ったのだが、リリーは違っていた。

 カレン――カインの傍に甲斐甲斐しく寄り添う王太子の姿に友情以上のものを感じたからだ。

 メイド頭の母からは止められていたのだが、できるだけ二人きりになることがないよう、リリーは常に気を配っていた。

 けれど、カレンより三つ年嵩とはいえリリーもまた子供だったのだ。王太子に対する警戒心は、本人にしっかり伝わっていたのだろう。

 王太子はリリーがいると殊更カインに触れるのだと気付いてからは、悔しく思いながらもできるだけ王太子に近づかないようになった。


 「……でも一緒の寝台で眠っていたときには、さすがに気が遠くなりかけたわよ……」


 近況を綴るペン先に力がこもり、インクが滲む。


 その日、朝食の準備ができたことをカインに告げに行くと、いつもなら起きて身支度をしているはずの姿がどこにもなかった。

 おかしいと思いながら寝室まで様子を窺いに行き、リリーは広い寝台の上に深く寝入っているカインを見つけることができたのだが――。

 その傍らには王太子殿下が横になっていた。

 見間違いではないかと一度両目をつぶり首を振ってみた。ぱっと目を開いたその時、美貌の王太子が消えていることを願って。


 『……王太子様……なぜこちらに』


 瞼を押し上げたリリーは、自身の願いが叶わなかったことを知った。


 『ああ、昨晩、話しているうちにカインが眠ってしまってね。寝台に運んだ後、僕もうとうとしてたみたいだ』

 『そうでしたか。主人がご迷惑をおかけいたしました。朝食の準備が整っておりますので、どうぞ一度お部屋に戻られてお支度を……』

 『そうしよう。ああリリー、僕が朝までいたことはカインには内緒に。寝顔をみてたって知られたら怒らせそうだ』


 くすくすと楽しそうに笑って寝台を降りた王太子を、リリーは驚愕の眼差しで見送った。

 性別を偽っているカインが人前で無防備に眠るなどありえないことだ。カイン自身、気を張り詰めているところがあり、たとえリリーといえどその寝姿をみることは稀だった。それが、話している内に眠ってしまったという。幾ら怪我をしているとはいえ、人の気配にとても敏感なはずのカインが話の途中で眠ってしまうとは。

 カインにとって、たしかに彼は特別な存在になっている、それはあきらかだ。おそらく王太子は、親族でも使用人でもない、カインがはじめて心を許した完全なる他人。

 しかしカインの出自では、この先、確実に彼とは道が分かたれてしまうだろう。やるせない想いを抱え、リリーはぎゅっと拳を握った。


 『ああ、リリー、朝食にはポートティーを用意してもらえるかな』


 部屋を出る直前で振り返った王太子に、リリーは整理のつかない諸々を頭の中から押しやった。

 いまは侍女としての勤めを果たさねばならない。


 『はい、かしこまりました……お気に召していただけましたか?』

 『うん――あのお茶、カインと同じ香りがするよね』


 楽しげに呟いた王太子が静かに部屋を出て行く。その後姿を見送りながら、リリーは王太子の真意を掴みかねていた。


 書き終えた内容を見直し、リリーはペンを置いた。

 昔のことを思い出していた所為か、主人への近況報告だというのに幾分か感傷的になってしまった気がする。けれど直す気にはなれず、そのまま封を施す。


 「――ふたたび交わった道がカレン様にとって良かったのかどうか……」


 幸せになってほしい――それは生まれながらに駒とされながらも、黙々と自らの役目をこなしてきた少女の未来に向けたリリーの願いだった。


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