第三章 仮面の思惑(七)
「それではエレーナ様、失礼いたします。とても楽しい時間を過ごさせていただき感謝いたします」
「楽しんでくださったのならなによりだわ。ぜひまたいらしてね、カレンさん」
そろそろ傾きかけた陽に促されて暇を告げると、やわらかな笑みを浮かべたエレーナにそっと抱きしめられた。
親愛の情を示すそれは、エレーナが――ひいてはヴィバック公爵家がカレンを王太子の婚約者として受け入れたことをなによりも明確にあらわしていた。
議会に承認されたとはいえ、社交界の中、とくに力を持つ女性たちに認められることはまた別の意味を持ってくる。後見人を務めるジュリエッタ以外に、上位貴族夫人であるエレーナの後ろ盾を得られたことで、カレンの立場はさらに磐石になったといえた。
「ありがとうございます、エレーナ様」
「いいえ、こちらこそありがとう。リューイ殿下を幸せにしてあげてちょうだいね、カレンさん」
感慨深げなエレーナに、リューイが生まれた時から知っているに違いない彼女は、かの王太子殿下を孫のように思っているのかもしれない、とふと思う。
リューイに幸せになってほしい。それはカレンも同じ気持ちだ。やはり真実想っている女性とこそ、リューイは添い遂げるべきだ。婚約が破棄されれば、王太子であるリューイは今度こそカレンでは手の届かない存在になるだろう。けれど幸せでいてくれるならそれでよかった。力になれることがあるかはわからないけれど、リューイの想いが叶うようできる限り尽力したい、それがいまの願いだ。
「はい……はい、エレーナ様」
胸の痛みを奥深くに押し込め、カレンはしっかりと肯いた。
「……リューイ様?」
公爵邸の玄関を出てすぐ、カレンは驚きに目を瞠り足を止めることになった。
栗毛の馬に引かれた馬車の傍に、見慣れた姿が佇んでいる。
どうしてここにいるのかと唖然とするカレンに、貴公子の笑みで手を振っているのは、間違いようもなくリューイだ。
議会に出席した後らしく、すらりとした長身は黒のモーニングコートに包まれている。
「やあ、カレン」
立ちすくんでいたカレンのところまで近づいてきたリューイが手を差し出した。さっと自身の手をそこに重ねたカレンの行動は、もはや条件反射だ。
「キュリアス夫人はまだ中?」
「あ、ええ、はい。ジュリエッタ様はお知り合いの侯爵夫人とお話を……」
「そう、なら迎えに来て正解だったな」
ぽつりと呟いたリューイの視線は、なぜかカレンの背後に向いている。後ろになにかあるのかと途中まで振り返ったところで、玄関口からエレノアがあらわれた。
「カレンさん? ……どうかされ」
エレノアが言葉を飲みこんだ。立ち止まっていたカレン越しにリューイが見えたらしい。彼女は無言で深々と頭を垂れた。
「お茶会は楽しかったようだね?」
「はい、とても……あの、殿下?」
リューイの視線は再びカレンに注がれている。
たしかにエレーナの采配により、お茶会はすばらしく和やかだった。きちんとみるべきところをみ、すべきことをする、女主人としてさすがの力量をみせてもらった。
が、いまはそれよりも、まるでエレノアが見えていないかのようなリューイの態度が気がかりで仕方ない。彼女の父親である公爵との関係を考えれば仕方がないのかもしれないが、それにしても露骨過ぎる。
いいのかこれは、とカレンが口を開こうとしたところで、エレノアがすっと頭をあげた。薄く紅の引かれた唇にふっと嘲るような笑みが浮かぶ。
「殿下、お久しぶりで御座います」
大胆にもエレノアは自らリューイに声をかけた。
「ああ、エレノア、久しぶり。君もお茶会に呼ばれていたんだね」
まるでいまその存在に気がついたといわんばかりだ。空々しいことこの上ないが、当事者のふたりは乾いた笑みの応酬を繰り広げている。傍観者であるはずのカレンだけが、なぜかはらはらしていた。
「ええ、カレンさんとも楽しくお話させていただきましたわ」
「そう、僕の大切な人が世話になったみたいだね、ありがとう」
王子の優雅な笑みに、親しげな感情はまるでない。話に入る切っ掛けを完全に逃したカレンは、ただ二人のやり取りを見守るしなかった。
「王太子殿下におかれましては、ご婚約おめでとうございます」
お手本のように優雅な礼は、さすがに公爵令嬢、年季の入りかたが段違いだ。
感心しながらエレノアを見つめていると、腰に回された腕に、問答無用で引き寄せられた。
突然のことによろめき、リューイに寄りかかるような格好になってしまう。慌てて身を離そうとしたのだが、力を緩めてくれない。
エレノアがいるため邪険に振り払うこともできず、意図が読めないままに、リューイのなすがままとなるしかなかった。
「ありがとう。今回のシーズンが終わるまでには婚約式を執り行う予定だよ」
「え?」
「え?」
エレノアが驚きの声をあげ、思わずカレンも裏返った声で反駁してしまった。
リューイが咎めるようにカレンをちらりと見遣る。しまったと思ったが、いきなり素っ頓狂なことを言い出すリューイにも確実に責任の一端がある。いや、寧ろすべてリューイの責任だろうと、なにごともなかったようにカレンは黙ったままにっこり微笑んだ。
困ったらとりあえず微笑んでください、と噛んで含めるようなリリーの言葉がある程度的を射ていることは、ここ最近の夜会で学習済みだ。幸いなことに、エレノアがカレンを不審に思っている様子はない。
「ずいぶんと急ではありませんこと? シーズンの終わりまでは、ふた月足らずしかありませんのに」
あまりおおっぴらに感情を見せるのは淑女として望ましいことではなく、こほりと咳払いしたエレノアは、つんとすました態度に戻っていた。
「そう? 寧ろ遅いくらいだと思ってるよ」
カレンの腰に回されたリューイの腕に更に力が込められる。踏みとどまる間もなく引き寄せられ、腕の中に抱き込まれた。
「リューイ様……」
引き締まったリューイの腹に肘を叩き込みたい衝動と戦いながら、小さな声で制止するが、腕はまったく緩まない。傍からは初心な令嬢が恥らっているように見えなくもないが、実情はあまやかなそれとは程遠い攻防戦だ。
「ほらね。僕の可愛い人は古風な性質だから、きちんと誓約を交わすまでは色々と許してもらえない」
カレンは最大限、リューイに譲歩しているつもりだ。だというのに、この言い様。
――しかも誓約? そんな日は永遠に来ないと誰よりも殿下自身がご存知だろうに……まったく厚い面の皮がうらやましい。
「……あなた本当にリューイ殿下ですの?」
カレンの知っているリューイは昔からだいたいこんな感じなのだが、エレノアにとっては違うらしく、片眉を器用に吊り上げ、強烈に気味の悪いものをみた、と言わんばかりに顔をしかめていた。
「ふふ、おかしい? そうかもね。だけど、心のそこから望んだものをようやく手中にできたんだから、少しぐらい浮かれても許されるだろう?」
とろけるように甘い言葉は、嘘に満ちている。真実などひとつもない、そうわかっているから、カレンに届くそれは酷く苦い。
けれどすべては今だけのこと。今シーズンが終わる頃にはすべてに決着がついているはずだ。
「カレンさん、あなたやっぱりすごいと思うわ。では殿下、わたくしはこれで失礼いたします」
あきらかに呆れているのだろうエレノアは、挨拶もそこそこに、さっさとオルフェン公爵家の家紋入り馬車に乗り込んでしまった。
蹄鉄の音を響かせ去っていく豪奢な二頭立ての後姿を見送り、これ以上おかしな真似をしでかされてはたまらないと、カレンは早々にリューイを馬車に押し込んだ。




