第三章 仮面の思惑(三)
石畳をいく馬車の中で、カレンは天鵞絨の背もたれにぐったりと身を預けていた。
眉間にくっきりと皺を刻み、唇を引き結んでいる様子は不機嫌そうにも見えたが、単純に疲労困憊した結果だ。
「今夜も大活躍だったね」
前の座席でくすくす笑う礼装姿のリューイを、きっと睨みつける。
――誰の所為だ、誰の。疲れた……まったくもって疲れた。
王宮で夜会が開かれてから二日の後、リューイの婚約が正式に発表された。相手はもちろん、カレンだ。
婚約式は準備の都合上、まだまだ先のことになるが、これで対外的に正式な王太子の婚約者という立場をカレンは得たことになる。
父であるシーバルグ伯には、リューイと取引をした次の日、事情により王太子と婚約する運びになる、とリリーを通して知らせている。
数日後、リリーから渡されたジョンの書状にはたった一言、『君の望むとおりにしなさい』とだけあった。もしや暗喩か? とも思ったのだが、リリーの話ではどうやら本当にカレンの判断に任せる、ということらしい。
――それはそれで責任重大だな。
軽く眉間を押さえ、ちらりと目を向ければ、優雅に足を組むリューイにまったく疲れは見えない。それどころかたいそう機嫌がよさそうだ。
「ご機嫌よろしいようですね?」
「うん? そうだね、積極的な君がとても可愛らしかったからかな」
からかうように言われ、折角解きほぐした眉間の縦皺が瞬く間に復活する。気遣い無用だと告げた晩からこちら、なにをどう受け取ったのかリューイの態度は更に悪化していた。ことあるごとにカレンに誘い文句をかけてくる。冗談も大概にして欲しい。精神的な疲労の一因は確実にリューイだ。
「わたしは自分の役目を果たしただけです。それと、この間もお話したとおり、可愛いとかいりませんから」
近頃、すっかりそっけないそぶりが板についてきてしまっているが、リューイ相手にはまるで効果がない。
「オリビア嬢、ものすごい形相で君をみてたね」
「……そうですね」
ぽつりと零し、きつく睨みすえてきた令嬢の姿を思い出す。
夜会の最初に挨拶を交わした彼女は、自信に満ち溢れた大変美しい少女だった。こちらを見下していることを隠そうともしない態度は、ああ、甘やかされて育ったのだろうなあ、とカレンに思わせるには充分過ぎわけだが、決まりきったやりとりを終えるとオリビアの中で王太子の婚約者という存在はすっかりなかったことにされたようだった。リューイの婚約者と正式に通達されているので、最低限の挨拶だけは仕方なくする、という令嬢はまだまだ多い。
問題は、リューイが彼女に捕まってしまったことだ。夜会の主催者であるカルファン侯爵家は親王派、そのご令嬢とあれば無下に扱うこともできなかったのだろうが、かなり長い間引き止められていた。カレンはといえば、これまでの夜会で紹介を受けた幾人かの女性――既婚者や婚約者もちのご令嬢が主だが――と和やかに歓談していたのだが、カレンはリューイが自由に動くために据えられた婚約者、つまり、オリビアのようなご令嬢から彼を救い出すことが役目だ。舌打ちしたい気持ちを覆い隠し、しぶしぶリューイに近づいた。
こちらを向いたリューイの甘い笑み。カレンは礼服に包まれた逞しい腕にそっと手をかけ、首をかしげる。
「カレン? 少し顔色が悪いね」
「……申し訳ありません、少々、人に酔ってしまったようです」
控えめな笑みを浮かべると、リューイの指先がカレンの頬をそっとなでた。
「おいで、少し風に当ろう。オリビア、すまないけれど、少し失礼するよ」
オリビアは一瞬悔しそうに赤い唇を引きつらせたが、こちらこそお引止めして申し訳ありません、と優雅に礼をとった。
カレンとしても大変心苦しいのだが、ここで役割を果たさなかった場合、後が恐ろしい。
「ああ、それとも部屋を用意してもらう?」
カレンの腰に腕を回したリューイが、ふと思いついたようにいい、なぜかカレンではなくオリビアが「え」と小さく声をあげた。
「え? いえ、そこまでは……?」
「そう? じゃあいこうか」
リューイに促されるまま歩き出したものの、オリビアの反応が妙に気にかかったので、露台へ抜ける大窓を潜り抜けたところで、小声で尋ねてみた。
「あの、殿下? オリビア様が驚いていたようですが」
「僕とふたりで夜会を抜けて用意された部屋に行く。意味がわかる?」
リューイはとても楽しそうだ。カレンはしばらくリューイの言葉を繰り返し、その意味するところにはっとした。
――つまり、ふたりで抜け出して……いかがわしい方面の話かっ。
『いいですかお嬢様、間違っても殿方に殴りかかってはいけませんよ』
リリーの声が脳裏によみがえる。そんな馬鹿な真似はしないと答えたカレンだったが、その自信が揺らぎ始めていた。
――まずい、真っ先に殿下を殴り倒しそうだ。ああ、初日に殴りかかっていたか……でもあれは未遂だったし。
そんなカレンの心中など、リューイにはわかりきっているらしい。形のよい口元にたちまち面白がるような笑みが浮かぶ。
「なんならいまからでも部屋を用意してもらおうか? カレン」
そっと右手をとられた。興に乗ったリューイが、カレンの指先に恭しく口付ける。咄嗟に手を引こうとしたが、意外な強さでつかまれていた指先は、びくともしなかった。露台に出ているのはふたりだけではないというのに、悪乗りしすぎだ。
――いや、人がいるからこその甘い仕草か。
婚約を発表したばかりだというのに早速不仲の噂が流れては、これからの行動に支障が出る。
「殿下、馬鹿なことおっしゃってないで、とっとと情報集めに向かってください」
仕方なくリューイに身を寄せて、低く呟いた。
「つれないなあ」
くすくす笑うリューイは、カレンの複雑な心情をよそに、どこまでいっても楽しそうだった。
――このままなにごともなく過ぎてくれれば、それに越したことはないが。
馬車はまだ王宮に向けて走り続けている。窓にかかった覆い布の横から僅かに見える町並みは闇に沈んでいた。
まわりには護衛の兵士が並走しているはずだが、馬車の中からその姿は見えない。馬の蹄が石畳を蹴る音だけがする。
こんなに緊迫感がなくていいのだろうかと不安はあるが、いまのところアマニ周辺に動きはないらしい。
「とにかく、できるだけご令嬢方に捕まらないよう殿下も気をつけてくださ」
「あ、今夜、三度目」
「……っ」
慌てて口を押さえたので、ぐっとおかしな声が咽喉から漏れた。目を細めたリューイは獲物を見つけた獣のようだ。
「リューイ、だよね? カレン?」
「……う」
両手で覆った唇から低いうめきが漏れる。
殿下と呼ぶのはやめて欲しい、とリューイが求めたのは婚約を発表した日だった。
なんでですかと理由を尋ねたカレンに、デビューを飾った夜会のダンスでリューイ相手に数えた三つのしくじりの罰だと。
いまさら? といぶかしみつつ、「え、じゃあカーライル公様と呼びますか?」と言ったら、きっぱり否定された。
『もちろん違う。再会したときになんて呼んで欲しいか言ってるよ?』
『ええー……』
思い当たったカレンは、思い切り顔をしかめた。
『はい、どうぞ』
『リューイ……殿下』
『うん、最後はいらないね』
『リューイ……様』
リューイの崩れない笑みが逆に怖い。
『これ以上は無理です。精一杯です。勘弁してください』
懇願するカレンに、リューイがこれ見よがしなため息をつく。
『――しかたない、妥協してあげる』
とてつもなく恩を着せられている気がした。なんだかものすごく腑に落ちない。
『そのかわり、殿下と三度呼んだらお仕置きね?』
『……もうそれよしませんか』
が、カレンの抗議は受け入れられず、その後様々な仕置きという名のささいな嫌がらせを受ける羽目になった。
人目がなくとも傍にいるよう言われ、おやすみのキスはもはや常套化している。
――いったいリューイ様は何がしたいのか。そしてわたしは今回なにをさせられるんだ。
馬車の窓枠に肘を付き、細い隙間から車外を眺めるカレンの目がやや虚ろになる。
「そういえば、ヴィバック夫人からお茶会の誘いが来ていたね」
もう迂闊に喋らないでおこう、と決めたのにリューイは無視しづらい話題をふってくる。
こういう時にからかってくれれば心置きなく無言を通せるのだが、リューイ相手ではなかなかそうはいかない。本当に一筋縄ではいかない男だ。
「……明日うかがうつもりです。ジュリエッタ様も来られるそうですよ」
「そう。くれぐれも身辺には気をつけて。僕も一緒に行ければよかったのだけれど」
「そんなに心配なさらなくても、きちんと淑女らしく振舞いますから」
最初の夜会で色々しでかしてしまった身としては、信用のなさも甘んじて受けるしかない。
神妙に肯いたのだが、リューイはどこか呆れたようにカレンをみている。
「そこは心配してないよ? だけど、初心なご令嬢方をむやみに誘惑しないように」
「は? どうしてわたしが……で……リューイ様でもあるまいし」
殿下といいかけ、慌てて呼びなおす。
「さっきの夜会では、シシリーナ男爵の娘を誑し込んでた」
「……シシリーナ男爵の……?」
たしか濃いブラウンの髪に同じ瞳を持った、大人しそうな令嬢だ。誑し込んだ覚えどころか、碌に話もしなかったはずだ。
なんのことかさっぱりわからない。
「袖に引っ掛けて落としそうになったグラスを受け止めたでしょう?」
「ああ、はい。そういえば……」
薄い緑のタフタで仕立てられたシシリーナ男爵令嬢の夜会服はその袖にもたっぷりのドレープがとられていた。軽食のおかれたテーブルの傍にいるとき、その上におかれたワイングラスに裾が触れ落ちかけたところを、傍にいたカレンが受け止め礼を言われた。ただそれだけのことだ。
「は? ええ? 意味がわからないんですが」
「無自覚とか性質が悪いよ」
今度こそはっきりとした呆れ顔でリューイが呟く。会話がまったく噛み合っていない。
がたっと僅かな振動で馬車が止まった。どうやら王宮の門についたらしい。覆い布を上げ、リューイが窓から顔を覗かせると、再び静かに動き出した。
「無自覚ってなんですか、もうリューイ様、さっぱりわけがわかりません」
「君は昔から変わらないよね、良くも悪くも」
「……それ、嫌味ですか」
「ああごめんね、性別が変わってた」
「すみませんね、淑女になれてなくて。殿下こそ変わってませんよ、まったく性格の悪い……」
「殿下じゃない」
「……っ、ああもう面倒くさい人ですね。リューイ様、これで満足ですか」
「まさか、全然たりないよ」
決定的になにかがずれたままの二人をのせ、馬車は王宮前に向かって静かに進んだ。




