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右にある心臓  作者: 二条理|アコンプリス


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第十三章〈現在〉同じ現象

 事故は、遠い町で起きた。雪の匂いが残る朝、地方局の短いニュース枠で流れる程度の接触だった。県名も、市町村名も、最初の記事には出ていない。交差点を曲がり切れず、低速で縁石に乗り上げ、高齢の運転手が右脚を折る。救急隊の対応は早く、命に別状はない。誰かが怒鳴り、誰かが泣くような現場でもない。白いガードレールに擦れた塗装が残り、道路はすぐ元の顔に戻る。戻ったはずだった。

 昼過ぎ、その映像がネットに上がった。地方局の公式切り抜きではなく、まとめ系の短い記事だった。見出しは慎重な形をしている。断言しない語尾で距離を取っているのに、読ませたい場所だけは太字で近づいてくる。

 「“逆の心臓”医師の特集チャンネルのうp主が事故」

「事故直前にも記事をシェア」

 「関連があるとは言い切れないが、影響は否定できない」

 事故そのものは小さい。だが線を引く文章は、いつでも大きい。線は細いほど怖い。細い線は、誰も踏まないまま伸びる。

 真壁彰は、捜査一課の端末ではなく、自分のスマホでその見出しを読んだ。画面の明るさを一段下げ、周囲から覗き見されない角度にする。読んでいること自体が、材料になる。材料にされるのが嫌で、嫌だと思う自分まで見透かされそうで、舌の奥が苦くなる。

 怒りは出ない。出すと、誰かに切り取られる。怒りの文言は燃料として扱われ、燃料は別の火を作る。火が増えると、守るものが焼ける。

 彼は確認するしかないと思った。どこまでが記事で、どこからが解釈か。だが境界は溶けていた。記事は「断定していない」を盾にしながら、読者の想像を一か所へ導く。導かれた想像は作者の責任から外れ、拡散の責任へすり替わる。すり替わった責任は誰の手にも乗らず、誰の手にも乗らないものほど長く残る。

 真壁は画面をスクロールし、引用元のリンクを辿ろうとしてやめた。辿った瞬間に足跡が残る。足跡はいつでも、誰かの地図になる。

 記事のコメント欄は、途中で切られていた。切られているのに、想像できる。想像できる形が怖い。「偶然」「因果」「やっぱり」。結論だけが先に走り、理由は後から貼られる。貼られた理由は、剥がしても粘着だけが残る。

 真壁は画面を閉じた。閉じても、指先が覚えている。スクロールの速度。太字に近づいた瞬間の違和感。読まされた、という感覚。読まされた感覚は、読んだ事実を消さない。消えない事実は、心の中で勝手に反芻される。反芻は、次の言葉を作る。

 作りたくない言葉ほど、作られる。

 机の端に置いたスマホが震えた。通知は出ない。なのに震える。震えは、誰かの指の到着を知らせる。真壁は一度だけ手を止めた。止めると、周囲の音が入ってくる。キーボードの叩く音、紙をめくる音、電話の向こうの笑い。平時の音が平時のまま続くことが、今日は腹立たしい。

 同じ時刻、広報フロアでは二階堂壮也が、その記事の構造を見ていた。画面の左にニュースの原稿。右にまとめ記事。言い回しの差分を、頭の中で線として引く。線は人を納得させる。納得は思考を止める。止まった思考の上に、別の見出しが積まれる。

 二階堂は同僚に言った。

「これ、関連づけの暴走だろ」

 声は抑えていたが、抑えた分だけ切れる。切れた声は不安の形をしている。彼の仕事は不安を抑えることだ。なのに自分が不安を漏らしている。漏れは自責になる。

 返ってきたのは、冷静な言葉だった。

「断言してないよ。可能性として書いてるだけ」

「読者の判断に委ねてる。うちが騒ぐと逆効果」

 正しい。正しさが、ここでは刃になる。断言しない文章は撤回もできない。撤回ができないものは、訂正の射程から逃げる。逃げたものは自由に増殖する。

 二階堂は頷けないまま、指先で机を一度だけ叩いた。叩く音は小さい。小さい音ほど、室内では耳に残る。耳に残った音は、本人の中で増える。

 彼はモニターに別の窓を開いた。拡散の経路。誰が、いつ、何を引用し、どの言葉に反応したか。数字の列が、矢印の列に見える。矢印は人を刺す。刺す順番がある。刺される場所がある。

 事故の映像自体は再生数が伸びていない。伸びているのは、事故に貼り付けられた「線」の方だった。線の引用回数。線のスクショ。線の一部分だけを切り出した投稿。本文を読まない人のために、本文の意図だけが精製されていく。

 精製された意図は、もう元の文章ではない。

 二階堂は自分のメモを開いた。いつから「同じ現象」になったのか。九条個人の問題ではなくなる瞬間。中心が不要になる瞬間。中心が不要になった物語は、永続する。永続するものは止めようがない。止めようがないものに対して、広報は何をするのか。

 弱める。面白さを奪う。温度を下げる。材料を渡さない。

 その手順を、頭の中で反復しないようにした。反復すると、習慣になる。習慣は、自分の言葉を自分のものではなくする。二階堂は自分の言葉が、自分のもののまま残っているかを確かめたかった。

 九条雅紀は、その頃、自宅で座っていた。ニュースは見ない。SNSも開かない。だが情報は届く。届かないように暮らすこと自体が、今では目立つ。静かに暮らす姿勢さえ「何かを隠している」と言われる。

 九条は息を数え、湯を沸かし、コップを満たす。湯気が立つ。湯気は生活の証拠だ。証拠は、いつか奪われるものだと知っている。だから証拠を誇らない。誇らないことが、また別の意味を呼ぶと分かっていても。

 玄関扉の下の隙間に薄い封筒が一通挟まっていた。差出人はない。切手も最小限で、雑に貼られている。雑さは怒りの証明に見える。九条は部屋へ戻り、封を切った。紙は安い。指先にザラつきが残る。

 中は一枚だけだった。

 「おまえのせいだ」

 それだけ。説明はない。説明がないから強い。強い言葉は、反論の入り口を塞ぐ。九条は紙を二つに折り、さらに折り、指で押さえて破った。破る音は乾いている。乾いた音は、何も解決しないことを告げる。

 破った紙片を捨てても、意味は捨てられない。捨てられるのは紙だけだ。

 九条はゴミ箱の蓋を閉めた。蓋が閉まる音が、部屋の中で妙に大きい。大きい音は、誰かに聞かれる気がする。聞かれていないのに、聞かれる気がする。気がするだけで、体が固くなる。固さは呼吸を浅くする。浅くなった呼吸が、また別の意味を呼ぶ。

 呼ばないように、九条は台所の蛇口をひねり、水を出した。水の音は生活の音だ。生活の音は、物語に対抗できるはずだった。だが今日は、水の音が「落ち着いている演出」にも聞こえる。演出という言葉を思い浮かべた瞬間、自分の頭が既に侵食されていると理解する。

 侵食は、相手の手で起きない。自分の中で起きる。

 真壁は夕方、九条の部屋に来た。呼ばれたわけではない。それでも来た。来ることが理由になると知りながら、理由になることを選んだ。ドアの閉まる音が、いつもより硬い。硬い動作は怒りではなく焦りの匂いを出す。

「もう、切り離されてる」

 真壁は言葉を選ばなかった。選ぶほど、現実が遠ざかるからだ。

「九条がいなくても、誰でも拾って繋げる」

 九条は頷いた。

「ああ。もう、誰でもいい」

 その一言が怖かった。中心が不要になった物語は、止めようがない。中心が不要なら、中心を守っても無意味になる。無意味という言葉は、真壁の倫理を壊す。壊れていく音が、真壁の胸の奥で鳴った。

 真壁は紙袋をテーブルに置いた。中身は、何かの食べ物だった。買ったものの匂いだけが、部屋に入る。匂いは、説明より先に生活を思い出させる。生活を思い出させるために来たのかと自問し、真壁は答えを出せない。答えを出すと、理由になる。

 九条は食べ物に手を伸ばさなかった。伸ばすと「食べられる」になる。食べられるは「平気」の材料になる。材料になった平気は、また攻撃の踏み台になる。九条は、平気にも弱さにも、役を与えたくなかった。

 真壁は視線で促す代わりに、封筒の破片が捨てられたゴミ箱を見た。見た瞬間に、九条は理解した。

「玄関に挟まってた」

 九条はそう言った。内容は言わない。言うと、その言葉が増える。増えた言葉は、真壁の中で重くなる。重くなった言葉は、真壁を動かす。動いた真壁は、外から見える。

 外から見えた動きは、また線になる。

 真壁は頷きかけて、やめた。頷くと確定する。確定したものは、いつか引用される。引用される未来を、今ここで作りたくなかった。

 その頃、二階堂は部署内の小さな会議に呼ばれていた。外部対応の可否、発表の文言、クレームの見立て。いつもなら自分が先頭で処理の形を作る。だが今回は、形が火種になる。彼は資料を出し、淡々と数字を並べた。検索ワードの推移、共有数の相関、事故記事の媒体別拡散率。

 数字は面白くない。面白くないものは拡がりにくい。

「公式に、つまらない説明を出します」

 二階堂は言った。

「確率の話に落とす。統計で輪郭を薄める」

 反論はすぐ出た。

「そんなの、誰も読まない」

「読まれないなら意味がない」

 二階堂は首を横に振った。

「読まれないことに意味があります。読まれると、物語の栄養になります」

 言った瞬間、自分の言葉が恐ろしかった。栄養という比喩は正しい。正しい比喩は、人を納得させる。納得はまた思考を止める。止めたくないのに、止める言い方しか出てこない。

 二階堂は一度、口を閉じた。閉じた口の中で舌が乾く。乾きは不安の合図だ。合図を隠すために、水を飲みたいと思い、思った自分が「演出している」ようで腹が立つ。演出ではない。ただの生理だ。生理さえ、今は疑われる。

 会議が終わり、二階堂は廊下で壁に背中を預けた。壁は冷たい。冷たさは体温を奪う。奪われると、余計なことを言わずに済む。彼はスマホを見た。外の反応は「影響は否定できない」を真似して増えている。否定できない、という言葉が便利すぎる。便利な言葉は人を怠けさせる。怠けた思考は誰かの文章に乗る。文章は矢印になる。矢印は人を刺す。刺された側は反論する。反論は切り取られ、また矢印になる。

 輪が閉じる。閉じた輪は、外から開けにくい。

 九条は机の上に、破った紙片が一つだけ残っているのを見つけた。捨てたはずの端切れが床に落ちていたのかもしれない。拾い上げると、インクが少し滲んでいた。滲みは書いた側の手汗か、雨に濡れた封筒か。どちらでもいい。

 どちらでもない可能性を考えた瞬間、九条はその思考を止めた。止める癖が身についている。癖は防御だ。防御は疲れる。疲れは息の重さになる。今日は発作ではない。だが胸が重い。重さは薬では軽くならない。重さは意味の重さだ。

 真壁は帰り際、玄関で振り返った。

「明日も来る」

 九条は止めなかった。止める言葉が、もうない気がしたからだ。来ることを止めても、物語は止まらない。なら、止める体力を温存した方がいい。温存は生存の技術だ。

 九条は「分かりました」とだけ言った。分かりましたは同意ではない。だが同意のように見える。見えることが怖い。怖いが、怖いと言うことがもっと怖い。

 夜更け、廊下の足音がした。隣人の帰宅かもしれない。エレベーターの扉が閉まる音も聞こえた。九条はカーテンの隙間から外を見なかった。見れば、見たという事実が残る。残った事実は、自分の記憶の中で増殖する。増殖した記憶は、いずれ文章になる。

 文章になる前に、見ない。見ないことで守れるものが、まだ少しあると信じたい。

 翌日、二階堂は「面白くない資料」を外に出す段取りを進めた。危険な作業だ。数字は反論されにくい代わりに、冷たさへの反発を招く。「人の不幸を数字にするな」という怒りは正当だ。正当な怒りは燃える。燃える怒りは拡散される。

 二階堂は、自分が燃料を撒く側になる覚悟を決めた。燃えるのが自分ならまだいい。九条が燃えるのは耐えられない。耐えられないという感情が、また物語の匂いを出す。匂いを出さないように、二階堂は画面を見続けた。

 昼過ぎ、真壁に連絡が入った。捜査一課の仕事とは直接関係のない、しかし無視できない報せだった。「九条の部屋の前に、何か置いてあったらしい」。管理会社が共有廊下の清掃をした際に見つけたという。監視カメラはあるが、角度が悪い。

 角度が悪いという言葉が、今の世界では一番不吉だ。見えない部分は、いつでも物語で埋められる。埋められた物語は、証拠の代わりになる。代わりになった瞬間、人は証拠を求めなくなる。

 真壁は九条のマンションへ急いだ。息が上がる。上がった息を隠しながら、エレベーターの鏡に映る自分の顔を見る。刑事の顔ではない。焦っている隣人の顔だ。隣人の顔は、守る理由の質を変える。変えた理由は、いつか自分を刺す。刺されてもいいと思うほど、いまは足が速かった。

 廊下の角を曲がると、九条の部屋の前の床に、小さな石が置かれていた。拳より小さい。川原にあるような丸み。だが丸みが不気味だった。拾い上げると冷たい。冷たさは無機質の証拠だ。無機質は感情を持たない。感情を持たないものがここにあることが怖い。

 石の下には、紙はない。言葉はない。言葉がないから、意味が勝手に生まれる。生まれた意味が、また誰かに渡る。渡った意味が、次の矢印になる。

 九条は玄関の内側に立っていた。顔色は変わらない。変わらないように見せているのかもしれない。見せている、と考えた瞬間に、真壁は自分を叱った。九条を演技にするな。九条の生活を舞台にするな。

「……置き石だ」

 九条が言った。事実だけ。形だけ。意味を言わない。意味を言うと、言った瞬間に拡がる。

「来たんだな」

 真壁はそう返してしまい、言葉の雑さに舌打ちしたくなる。来た、という語は相手を作る。作った相手は、物語に必要になる。必要になった相手は、また来る。

 九条は遠い目で呟きを落とす。

「……もう、自分の境目がわからなくなってきた」

 真壁は声を飲み込む。九条の目は何も映していない。

「俺が悪いのが、正しい気がしてきた」

 真壁は石を握りしめ、掌の冷たさを覚えた。冷たさは「これが現実だ」と告げる。現実は言葉より遅い。遅い現実は、いつも不利だ。

 二階堂から電話が入った。

「今日、出すぞ」

 声は平静を装っていたが、語尾がわずかに硬い。

「つまらないやつ」

 真壁は短く返した。

「ああ。つまらないものしか、効かないかもしれない」

 効くかもしれない、という言い方が救いだった。断言しない。だが投げない。二階堂はそのバランスの上で仕事をしている。真壁は、彼が今どれだけ怖いかを想像し、想像の輪郭を削った。輪郭を作ると、また別の物語になるからだ。

 九条は石を見ずに、玄関の隙間から廊下を見た。見たのは廊下ではない。廊下の向こうにある「誰かの気配」だ。気配は目に見えない。見えないものほど生活を侵す。侵された生活は戻らない。

「もう、内側に入ってきた」

 九条が言った。静かな声だった。静かな声ほど重い。

 真壁は頷き、言った。

「なあ、雅紀。今夜、俺のところに来い」

 それは提案ではなく命令に近かった。命令は危険だ。危険だが、危険を恐れていたら守れないものがある。真壁は自分の言葉の乱暴さを自覚しながら、引っ込めなかった。

 引っ込めた瞬間に弱さが見える。弱さが見えた弱さは、また材料になる。

 九条は少しだけ目を伏せてから、短く答えた。

「考えます」

 考えます、は拒絶ではない。だが許可でもない。境界線の上に立つ返事だ。境界線の上に立つことが、九条の生存術だ。

 その夜、真壁は帰り道に一度だけ足を止めた。冬の空気が肺に刺さる。刺さる冷気が、昔の帰り道を連れてくる。中学の帰り、夕焼けの中で九条と並んで歩いた道。斜向かいの灯り。互いの家の距離。距離が近いほど世界は狭い。狭い世界は噂が速い。速い噂は意味をすぐ作る。

 真壁は自分の中で、あの頃の一場面が不意に立ち上がるのを感じた。二人きりで歩いた道で、九条がふと立ち止まり、言葉を探したときの気配。あの瞬間に、何かが告白されるはずだった。告白が遅れたことが、今のすべてに繋がっている気がした。

 過去へ戻る音が、遠くで鳴った。学校のチャイムではない。自分の心臓の音だ。右でも左でもない。ただの拍動が、次の記憶を叩き起こそうとしていた。

 そして真壁は理解する。これは事故ではない。同じ現象だ。小さな出来事を拾い、矢印を作り、矢印の先に人を置く。置かれた人間は、そこにいるだけで意味になる。意味になった瞬間から、本人の生活は「材料」に変わる。

 材料が増えていく音が、静かに聞こえていた。


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