第十二章〈過去〉逃げ場の消失
冬の朝は、音が少ない。駅のホームで靴底が鳴るはずの時間に、鳴らない。鳴らないから、別のものが聞こえる。電車がブレーキを掛ける金属の擦れ、遠くの踏切、制服の布が擦れる小さな音。九条雅紀は、神奈川県で最も偏差値が高いとされる公立高校の校門をくぐりながら、そういう音の少なさに救われていた。ここには中学の噂がない。少なくとも、ないように見える。合理的で静かな場所だ。成績と進路が会話の大半を占め、他人の体質に興味を持つ余白が少ない。余白が少ないことは、息をしやすい。
その余白が永続しないことも、九条は知っていた。永続しないものにすがる癖は、母が作った。母は「大丈夫」と言って、言葉を増やさずに暮らしを回した。言葉を増やさないことが、生活の手触りを守るのだと、九条は思ってきた。
言葉は膨らむ。膨らんだ言葉は、しばしば生活の上に乗る。乗った言葉は、誰かに運ばれていく。運ばれた先で別の意味を得る。意味を得た言葉は、戻らない。
期末試験の直前だった。時間割が書かれたプリントに赤ペンで丸を付けていた夜。台所の明かりが落ちて、部屋が急に広くなるときがある。母が鍋を火にかけているはずの音がしない。九条は、その音の少なさを不吉と呼びたくなかった。呼ぶと形ができる。形ができた不吉は、現実に近づく。
呼ばないまま台所へ行き、床に横たわった母の背中を見た。背中がいつもより小さい。小さく見える背中は、すでに「起き上がらない背中」だった。
救急車のサイレンは、近くで聞くと現実を削る。隣家の窓が開く。誰かの視線が見える。視線は善意でも、見られた事実は残る。九条は母の名前と年齢を言い、既往歴を言い、服薬を言い、息の状態を言った。看護師ではないのに、言えることだけを正確に言った。正確さは助けになる。助けになる正確さは、感情を置き去りにする。置き去りになった感情が、あとで遅れて追いついてくることも知っていた。
搬送先の病院名を復唱し、走って追いかける足音が廊下に吸われた。ストレッチャーの車輪の音だけが、規則正しく続く。規則正しさは、祈りの代わりになる。祈りは言葉を増やす。増えた言葉は、あとで自分を刺す。だから九条は祈らない。ただ、規則正しい音に縋った。
病院の廊下は白い。白さは清潔のためだ。清潔は命のためだ。命のための白さは、喪失の色でもある。診察室の扉が閉まって、開いて、また閉まる。医師の説明は、十分すぎるほどだった。急変という言葉は責任の所在を曖昧にするためではなく、起きたことをそのまま言うために使われる。救命処置の経過、発見までの時間、搬送時の状態。説明は矛盾がない。矛盾がない説明は納得を作るはずだ。
だが納得は救いではない。救いは、廊下のベンチに座っている九条の肩に、誰かが手を置く形でやってくるはずだった。手は来ない。親戚はいない。父はすでにいない。看護師が何度か視線を向け、声をかける。
「お水、飲めますか」
その優しさは痛い。痛いのは、優しさが必要とされている現実だ。必要とされる人間になった瞬間、九条は「助けられる側」という役へ押し込まれる気がした。役は、周囲の善意で固定される。固定された役は、本人の速度を奪う。
母が戻らなかったと告げられたとき、九条は声を出さなかった。声を出すと何かが壊れる。壊れたものは戻らない。戻らないものが増えるのが怖かった。だから壊れる音を出さなかった。息だけが少し乱れた。乱れは肺の問題ではない。肺ではない乱れは、吸入器では治らない。医師は「お悔やみ申し上げます」と言い、事務的な説明に移った。
書類、手続き、遺体の搬送。手続きは人を生かす。生かすというより、崩れないように支える。支えの言葉は冷たい。冷たい支えの上に、九条は座り込むしかなかった。
葬儀は簡素だった。喪主という言葉が九条の肩に乗る。肩に乗った言葉は重い。重いが、形は簡単だ。挨拶の文言、焼香の手順、会計の紙。人が少ないと儀式は短い。短い儀式は物語を作らない。九条はそれをありがたいと思った。母の死が、誰かの解釈で塗られることがない。誰も「意味」を語らない。意味を語らない沈黙が、この冬の中で唯一の保温材になる。
火葬場の待合室で、湯呑みの縁を指先でなぞった。熱いお茶は喉を守るはずなのに、喉が守られたところで、胸の奥の空白は埋まらない。空白は埋めるために存在しているように見える。見えるから怖い。
数日後、学校に戻った。教室の空気に、目に見えない距離がある。直接の言葉はない。だが視線が少し長い。長い視線は触れない配慮の形をしている。触れない配慮は、触れているのと同じだ。九条は席に着き、ノートを開き、黒板を見る。授業は進む。数式は裏切らない。英語の構文は裏切らない。裏切らないものに触れると息がしやすい。
息がしやすいのに、胸の奥が重い。重さは、誰かが知っている気配から来る。どこまで知っているのかが分からない。分からないことは答えより強い。答えには反論ができる。分からなさには反論できない。
昼休み、廊下で誰かが笑っている。笑いの内容は聞こえない。聞こえない笑いは、すべて自分に向いているように感じる。感じるだけだと分かっている。分かっていることが、感じることを止めない。九条は購買のパンを買い、教室に戻り、窓際で食べた。窓の外には冬の空がある。冬の空は広い。広い空は逃げ場に見える。
逃げ場に見える空を見ていると、逃げ場がある気になる。気になるだけで、足は校舎の中から出ない。出ない足が、すでに逃げ場を失っている証拠のように思える。証拠と思った瞬間、また役が増える。
放課後、担任ではない教師に呼ばれた。呼ばれると、胸がわずかに締まる。締まるのは呼吸器のせいではない。呼吸器のせいではない締まりは、たいてい言葉の前兆だ。
「九条くん、大丈夫?」
教師の声は柔らかい。柔らかい声は安全に見える。安全に見える言葉ほど、役を作る。九条は一度息を吐き、それから言った。
「大丈夫です」
教師は頷いた。頷きは確認の形をしている。確認は、記録の入口だ。
「無理はしなくていい。何かあったら言って」
九条は「ありがとうございます」と答えた。答えながら、ここで説明をすると役が増えると感じていた。母の死を説明する。生活の段取りを説明する。睡眠の状態を説明する。説明は善意を誘う。善意は配慮を誘う。配慮は噂を誘う。噂は物語を誘う。誘われた物語は、今の自分の静けさを奪う。
奪われる静けさは、母が残した最後の保温材だ。九条は保温材を手放したくなかった。
教師は「辛かったら、保健室で休んでいいから」と言った。保健室という言葉が、九条の身体に張り付くのを感じた。身体に貼られた言葉は剥がしにくい。剥がそうとすると、周囲が「剥がそうとしている理由」を探す。理由探しはいつでも物語を連れてくる。
九条は、はっきりと決めた。否定をやめる、と。否定しない。説明しない。正しさを示さない。示した正しさが、誰かの納得に利用される未来を避ける。
何もしないことは臆病に見える。臆病に見えることは、外の眼には好都合だ。だが何もしないことだけが、残される輪郭を減らす。輪郭が減れば、触られる面積が減る。触られる面積が減れば、切り取られる部分も減る。九条は、そうやって息を確保しようとした。
その夜、真壁彰から電話が来た。着信表示の名前だけで、胸の奥の冷えが少しほどける。人の名前は役とは違う。役は他者に配られる。名前は本人に紐づく。九条は通話ボタンを押した。
「雅紀」
真壁の声は、体育館の床みたいな硬さがある。硬い声は、守りになりやすい。
「一人で大丈夫か」
真壁は直球で聞く。直球は優しいときがある。遠回しの言葉より輪郭が少ないからだ。輪郭が少ない言葉は拡散しにくい。九条は答えた。
「大丈夫です」
同じ言葉なのに、教師に向けたときと意味が違う。真壁に向けた「大丈夫」は拒絶ではない。拒絶ではないが、真壁の手を引く許可でもない。許可を出した瞬間、「駆けつけた」「支えた」「救った」という物語が出来る。物語は九条を助けない。助けないのに、勝手に出来る。
「抱えるな」
真壁は言う。
「抱えていません」
九条は嘘をついていないつもりだった。抱えるという行為は、意識的に胸へ抱えることだ。九条は意識的に抱えていない。ただ、手を放せないだけだ。放せないものが胸の中にある。そのものを言葉にすると、瞬間から外のものになる。外のものになったものは拾われる。拾われたものは、別の見出しになる。
「そっち、行こうか」
九条は即答しなかった。即答すると、また輪郭ができる。「幼馴染が駆けつけた」。拾われやすい言い回しが、どこかに落ちている。落ちている言い回しは、誰かが拾って整える。
「来なくていいです」
九条は静かに言った。真壁の息が、電話越しに一度だけ重くなる。重さは怒りではなく焦りだ。焦りは優しさの形をしている。優しさが形になると、矢印になる。矢印は人を刺す。
「分かった」
真壁はそう言った。分かったと言いながら分かっていないことも、九条は知っていた。真壁は場を守る癖がある。場を守る癖は、誰かを守る癖でもある。守る癖が、物語に利用される未来が怖い。
母の部屋を片付ける作業は、冬の中でゆっくり進んだ。遺品整理という言葉は、テレビの特集みたいで嫌だった。九条にとってはただの生活の再編だ。衣類を畳み、書類を仕分けし、台所の引き出しを開ける。引き出しの奥に、昔の診察券が入っている。父の名義のものもある。「胸の病」。九条はそれを手に取って、戻した。
戻す行為は、見ないという選択だ。見ないという選択は、母の沈黙に似ている。沈黙は嘘ではない。ただ言葉を増やさないだけだ。増やさないことが生活の輪郭を守る。輪郭を守ることで、誰かの物語が入り込む隙間を減らす。
だが隙間はゼロにはならない。人は空白が苦手だ。空白は埋められる。埋める手がいつか来る。九条は本能的にそれを知っていた。だから、部屋を片付けながら、同時に自分の生活の説明を減らしていった。学校での発言を減らす。廊下で立ち止まらない。笑いに近づかない。善意の誘いに応じない。
応じないことが「感じが悪い」と見えることもある。感じが悪いという評価はどこかで噂になる。噂は怖い。だが噂はまだ「この学校の中」で完結する。完結する噂なら、息ができる。
冬のある夕方、教室の後ろで誰かが小声で言った。
「九条って、親……」
言葉の後半は聞こえなかった。聞こえなかったのに、九条の背中に刺さった。刺さったものは、たいてい想像が作る。想像は現実より鋭い。九条は振り返らなかった。振り返ると視線が交わる。視線が交わると、物語が始まる。始まった物語は止まりにくい。
帰宅して、部屋の明かりを点けた。明かりが点くと部屋の影が消える。影が消えると、母がいた場所の空白が見える。空白は、誰かの声で埋まるべきだと錯覚させる。錯覚する自分が怖い。
九条は冷蔵庫を開け、食材を確認し、簡単な味噌汁を作った。湯気が立つ。湯気は生きている証拠だ。生きている証拠は、外からは「静かに生きている」という演出にされる。演出にされる未来を想像してしまう自分が、もう侵食されていると感じる。侵食は怪異の形では来ない。侵食は言葉の形で来る。
スマホが震えた。ニュースアプリの通知だった。九条の指が止まった。開かなければ、知らないままでいられる。知らないままでも物語は進む。進むなら知らない方がいい。だが知らないことが、また空白になる。空白は埋められる。埋められる前に、埋められ方だけは知っておきたいという欲が生まれる。その欲は自滅に近い。
九条は通知を開かなかった。代わりに、画面を伏せた。伏せた画面は黒い。黒い画面は鏡になる。そこに映る自分の顔は、落ち着いているようにも、疲れているようにも見える。どちらに見えても危険だと、九条は知っている。
真壁からのメッセージが一件届いた。「飯、食え」。短い文は助かる。短い文は解釈の余地が少ない。九条は「食べてます」と返し、送信した。送信したあと、指先が少し冷えた。言葉を送ったことで、外に小さな輪郭ができた気がしたからだ。輪郭ができると、誰かが触りたくなる。
冬は、呼吸が乾く季節だ。九条は吸入器を取り出し、必要がないのに手の中で重さを確かめた。必要がないのに確かめる行為は、不安の形だ。不安は咳になる前に、手の動きになる。手の動きは、誰かに見られると材料になる。材料になった不安は、すぐ「代償」という言葉へ変換される。
九条は吸入器をしまい、キッチンの水をもう一度飲んだ。水は冷たい。冷たさは意味を消してくれない。意味は、冷やしても残る。
翌朝、学校へ向かう道で、九条は自分の足音を意識した。足音が揃っていると安心する。安心が欲しいのではない。足音が揃うと周囲に溶ける。溶けると役になりにくい。役になりにくいことが、いまの九条の唯一の逃げ方だった。
だが逃げ方は弱くなる。母がいない。母の沈黙がいない。沈黙は守りだった。守りがいなくなると、沈黙はただの空白になる。空白は埋められる。埋めるのは、他者の言葉だ。
学校の昇降口で、知らない大人の男が、スマートフォンを伏せたまま教師と話しているのが見えた。スーツの色が周囲と違う。名札がない。教材も持っていない。顔だけが、場の外側を向いている。九条は目を逸らした。逸らした瞬間に、視線が追ってきた気がした。気がするだけで十分だ。気がした時点で、生活の線が一本増える。
昼休み、クラスメイトのスマホの画面が一瞬見えた。見出しだけが太字になっている。本文は読めない。読めないのに、見出しの単語だけは目に刺さる。「急逝」「原因」「不明」。不明という言葉は、説明の入口になる。入口があると、人は入ってくる。
九条は息を整えようとしなかった。整えようとする動作すら、誰かの目には「何かある」に見えるからだ。見えるものは、すぐ物語になる。
放課後、学校の外で着信があった。知らない番号だった。九条は出なかった。出ないという選択が、すでに何かの材料になることを知っている。拒絶は、相手の物語を強化することがある。だが出てしまえば、もっと形が残る。形が残れば、切り取られる。
画面の上に、小さなプッシュ通知が重なる。短い見出し。
「“影響は否定できない”」
何の影響かは書かれていない。書かれていないのに、読み手の頭の中では補完が終わる。補完されたものは、もう九条の手を離れている。
九条は歩幅を変えずに、ただ息を吐いた。吐いた息は白い。白い息は冬の証拠だ。証拠はいつでも誰かに拾われる。拾われる前に、彼はもう一度だけ自分の中で決め直した。否定しない。説明しない。役を増やさない。
逃げ場は、もうない。そう信じさせるだけの材料が、揃ってしまった。逃げ場がない場所で、どのように生きるかだけが残る。残ったものは少ない。少ないものほど、外は勝手に増やす。増やされる前に減らす方法を、九条はまだ持っていなかった。




