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右にある心臓  作者: 二条理|アコンプリス


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第十四章〈過去〉告白

 冬の帰り道は、光が薄い。日が落ちるのが早いせいで、部活の声も、下校のざわめきも、いつもより先に陰へ吸い込まれる。真壁彰は校門を出たところで、息を吐いた。吐いた息は白い。白いものは、見える。見えるものだけが現実だと、あの教室の空気は教えてくる。だからこそ、見えないものが怖い。

 並んで歩く九条雅紀は、いつも通りの顔をしていた。歩幅も、手の振りも、声の出し方も、普段と変わらない。変わらないのに、真壁の胸の奥がざらつく。原因ははっきりしている。ここ最近、教室で起きる“話のつながり方”が、九条の周囲だけ妙に滑らかになっている。肘が当たった、翌週に骨が折れた。水が跳ねた、その日の夜に運転手が怪我をした。どれも偶然だ。偶然は、どこにでもある。なのに九条に触れた瞬間だけ、偶然が意味を帯びた形で語られ始める。

 真壁はそれを、まだ“噂”と呼びたかった。噂なら、時間が経てば消える。だが、消えない噂があることも知っている。消えないのは、事実だからではない。言い方が便利だからだ。便利な言い方は、誰かを救うふりをして、誰かを縛る。

 商店街の角を曲がり、坂の手前まで来たとき、九条が少しだけ歩みを落とした。真壁も合わせる。合わせた途端に、背中に風が当たり、肌が刺された。刺す冷たさは、注意を促す。九条が何か言うときの気配は、いつも先に体が知る。

 街灯が点る。一本だけ、早く点った灯りが道を斜めに照らし、二人の影を引き伸ばした。影は、足元の小石まで拾ってしまう。拾ってしまうものほど、いずれ誰かに使われる。

 九条が立ち止まった。真壁も止まる。車の音が遠くで鳴って、すぐ消える。上着の襟を立てると、布の擦れる音が妙に大きい。

 九条は、いきなり言わなかった。言う前に、息を一つ整えた。発作の前兆ではない。ただ、声にする前の準備だ。真壁はその準備の時間が怖かった。準備がある言葉は、重い。

 九条がようやく口を開いた。

「俺は、村の生き残りです」

 声は小さい。小さい声ほど、聞いた側の中で反響する。真壁は言葉を返せなかった。返した瞬間に、この言葉が教室へ運ばれる気がした。運ぶのは自分ではない。自分の沈黙が勝手に運ばれてしまう。そんな感覚が、冬の空気と一緒に喉へ入り込む。

 九条は続けた。止まらない。止めるつもりもない。

「でも、生き残ったんじゃない。そう説明された」

 説明、という語が刺さった。真壁の中で、教室の笑いが再生される。冗談の形で投げられた一言。誰かの笑い。笑いが起きた瞬間に、言葉は皆の持ち物になる。持ち物になった言葉は、勝手に増える。

 九条は、事実だけを並べるように話し始めた。

「母の出身の村があった。名前は、九九尾村」

 地名を口にした瞬間、真壁の背中が冷えた。聞いたことがある。はっきり聞いたわけではない。誰かの話の端、テレビのテロップ、紙面の小さな見出し。断片のまま残っていたものが、いま目の前で繋がろうとする。繋がると、人は安心する。安心は危険だ。安心した途端に、人は疑うのをやめる。

「そこでは、いろいろ起きたとされている。病気、事故、自殺。警察は事件じゃないって言ったらしい。母は、村のことを話したがらない」

 話したがらない、ではなく、話さない。九条はそう言いたげだった。だが言い換えない。言い換えるほど、余計な形が生まれるからだ。

「俺が赤ん坊の頃、父は亡くなった。胸を病んだって聞かされてる。詳しいことは知らない」

 言いながら九条は、真壁の顔を見なかった。見ないのは逃げではない。相手の反応を材料にしないためだ。九条は、自分が語った事実が相手の表情で別物に変わるのを恐れている。真壁はそれを理解して、わざと顔の筋肉を緩めた。驚きも、同情も、今はどちらも危険だ。

「中学に入ってから、いろいろ起きただろう。先生の声のことも。骨折も。事故も」

 九条はそこで一拍置き、ほんの少しだけ笑いかけた。笑いではない。自分の話を、他者の不幸を笑わないための、薄い膜のような表情だ。

「俺が何かしたわけじゃない。でも、説明がつくと、人は安心する」

 真壁はその言い方に、ぞっとした。安心のために誰かが傷つく構造を、九条は中学二年の冬にもう掴んでいる。掴んでいるから、沈黙を選ぶ。沈黙が自分の生存に直結している。

「母は、村のことを“場所”としてしか言わない。信仰の話みたいなものは、聞いたことがない。ただ、言い回しは覚えてる」

 九条は街灯の光の下で、自分の指先を見た。左手だ。左手の指が冷えで赤くなっている。

「大丈夫、とか。意味がある、とか。そういう言葉」

 真壁は、胸のどこかが痛んだ。痛む理由は、その言葉が祈りの形に見えるからではない。生活の中で何度も使われる言葉が、ある日突然“怪しい文脈”に回収される、その理不尽が痛い。

 九条は顔を上げた。

「俺は、怖い」

 真壁はやっと声を出せた。

「呪いとか、そういうのか」

 九条は首を横に振った。

「違う。呪いの話は、好きな人が勝手にやればいい。俺が怖いのは、説明されることだ」

 説明される、という受け身が、真壁をさらに冷やした。説明する側はいつも善意の顔をしている。善意は疑われない。疑われないものほど、強い。

「説明されると、逃げ場が消える。俺が何を言っても、何もしなくても、意味が生まれる。生まれた意味は、固定される。俺のものじゃないのに」

 九条はそこで、息を一つ吐いた。吐いた白い息が街灯の光で短く光る。

「俺が生き残りだって言われたのも、そうだ。生き残った、って言われると、理由が必要になる。理由が必要になると、次が必要になる。次が必要になると、誰かが探し始める」

 探し始める、という言い方が、今の教室の空気と重なった。探すのは犯人ではない。筋の通る話だ。筋の通る話は、嘘でも長生きする。

 真壁は、心の中で何度も言葉を組み替えた。慰める言葉は危険だ。励ます言葉も危険だ。どちらも、九条を役に閉じ込める。真壁は自分の中にある“場を荒らすな”という癖が顔を出すのを感じ、奥歯を噛んだ。荒らすべきものがある。荒らさなければ守れないものがある。だが、どう荒らす。今は高校二年だ。自分はただの生徒だ。できることは限られている。

 それでも、言わなければならないと思った。言葉しかないなら、言葉の出し方を間違えてはいけない。

「俺は、信じない」

 九条が初めて、真壁を見た。驚きでも怒りでもない、確認の目だった。

「何を」

「その説明を」

 真壁は続けた。

「お前が“生き残りだから”何かが起きる、みたいなやつ。俺は、そういう形では見ない」

 九条は小さく頷いた。

「それでいい」

 その返事が、真壁の胸を締めた。“それでいい”は、拒絶ではない。救いでもない。選択肢の一つを採用しただけの声音だ。九条は、自分を救う言葉を欲しがっていない。救われると、役が生まれるからだ。

 九条はさらに続けた。止まると、言わなかった部分が勝手に語られる。だから言う。言い切れない部分は、あえて空白のまま差し出す。

「もし、全部が説明になったら」

 九条は一度だけ、右胸に指先を触れそうになって、触れないまま手を下ろした。

「俺は、自分で自分を説明できなくなる」

 真壁はその瞬間、九条の恐怖が何なのか分かった気がした。死ぬことではない。怪我をすることでもない。誰かの物語の中で、自分の言葉が使えなくなることだ。自分のことを、自分の言葉で言えなくなる。九条にとってそれは、息ができなくなるのと同じ種類の苦しさだ。

 真壁は、言葉を選ぶ余裕を失った。

「そのときは、俺が止める」

 九条は微かに眉を動かした。

「止めるって、どうやって」

 真壁は答えられなかった。方法はない。あるのは衝動だけだ。衝動は未熟だ。未熟な衝動は誰かを傷つける。だが、衝動がなければ何も変わらない。真壁は、答えられないことが悔しくて、拳を握りかけてやめた。握った拳は見せない。見せた瞬間に、“守る役”になってしまう。

「分からない。でも、止める」

 真壁は言い直した。言い直しは弱さを見せる。だが嘘を混ぜるよりはいい。

 九条は、短く息を吐いた。

「ありがとう」

 ありがとう、が怖かった。感謝は美しい。美しい言葉は物語に採用されやすい。採用された瞬間、関係は“そういうもの”にされる。真壁はそれでも黙って頷いた。頷きは肯定だ。だが否定でもある。言葉を増やさないための頷きだ。

 二人は歩き出した。街灯の下を抜けると、光はすぐ背中へ回る。背中に回った光は、顔を見せない。顔が見えないと、人は勝手に表情を想像する。想像は危険だ。だが、今夜の九条には想像を許す余白がある。余白を作らないために話したのに、話したことで別の余白が生まれる。この矛盾が、九条の言う“説明の恐怖”なのだろう。

 坂を下りきる前に、九条が言った。

「彰」

 呼び捨ての音が、冬の空気に馴染む。

「俺は、怪異じゃない」

 真壁は即座に返した。

「知ってる」

 九条は続けた。

「知ってる、で終わらせて。証明しようとしないで」

 真壁は、胸の奥が熱くなるのを感じた。熱は危険だ。熱は言葉を過剰にする。過剰な言葉は場を荒らす。場を荒らすと、矛先が九条へ戻る。真壁はその循環を避けるために、短く答えた。

「分かった」

 分かった、は万能で、万能な言葉は空っぽに見える。だが今夜は空っぽでいい。空っぽな器のほうが、九条の言葉を勝手に味付けしない。

 家の明かりが見えてくる。斜向かいの距離が、久しぶりに目に入った。近い。近いことは安心のはずなのに、今は怖い。近い距離は、噂が届く距離でもある。届いた噂は、母親の耳にも入る。母親の沈黙がまた別の意味にされる。意味にされた沈黙は、説明の補強材になる。補強されれば、壊しにくくなる。

 別れ際、九条が足を止めた。真壁も止まる。九条は、街灯ではなく自分の家の玄関灯を見ていた。灯りは温かい色だ。温かい色ほど、影を濃くする。

「彰」

「なんだ」

「信じないで、って言ったけど」

 九条は言い淀んだ。言い淀むのは珍しい。九条は普段、言うべきことを必要な形にしてしまう。形にできない言葉があるのだと分かって、真壁の喉が締まった。

「信じてほしいものもある」

 九条はそう言い、すぐ首を横に振った。

「違う。信じる、じゃない。置いてほしい」

「置く?」

「俺が今日言ったことを、誰にも渡さないで。彰の中に置いて、必要になったら取り出して」

 真壁は、その頼み方が九条らしいと思った。信頼という言葉を使わない。信頼と呼んだ瞬間に、関係が物語化されるからだ。

「分かった。置く」

 真壁はそう答え、言葉の軽さが足りない気がして、もう一つだけ付け加えた。

「俺は、俺の中でだけ覚えてる」

 九条は頷いた。頷きは短い。短い頷きほど、感情を見せない。見せないことが、九条の守り方だ。

 九条は玄関へ向かい、鍵を差し込む前に一度だけ振り返った。街灯の下に立つ九条の姿が、影ごと真壁の目に焼き付いた。影は細く、長い。長い影は、未来まで伸びる。伸びた影の先に、今日の言葉が待っている気がした。待っている言葉は、いつか使われる。使われるときは、今よりずっと危険な場所で使われる。

 真壁は背を向け、家へ歩き出した。玄関灯の下で母の声が聞こえる気がする。父の無言の気配もある。家は現実だ。現実は、いつでも明日を作る。だが明日の中には、今日の説明が紛れ込む。紛れ込んだ説明は、誰かの文章になり、誰かの矢印になる。

 真壁が玄関の鍵を回した瞬間、ポケットの中で携帯が震えた。通知ではない。実際に震えたわけでもない。だが、震えのようなものが手のひらに残る。残った震えは、いずれ別の形で戻ってくる。戻ってくるとき、今日の言葉が必要になる。真壁はその予感を振り払えず、靴を脱ぎながら一度だけ天井を見上げた。

 その夜の空気は、静かだった。静かさがいちばん恐ろしいと、真壁はまだ知らない。物語が完成する瞬間は、いつだって静かだからだ。


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