リュナの日常
そろそろ犬風味が抜けて、我が愛しの犬娘の来世予想図が始まります。
朝。
陽の光がカーテン越しに差し込むと、リュナはぱちぱちと瞬きをする。
するとすぐに、母フェルシアが柔らかく覗き込んだ。
「おはよう、リュナ。今日もいい子ね」
フェルシアは熟練の職人であり、工房の長でもある。
淡い青の瞳からは、指導者らしい落ち着いた威厳と、母としての優しさが同時ににじんでいた。
抱き上げられるたびに感じる、香草と染料のほんのりした匂い。
その匂いは昔、夏美の手作りの石鹸の匂いに少し似ていて、リュナは安心する。
◆
フェルシアが仕事へ向かうと、家の中は一気に活気づく。
広い廊下を、工房スタッフや商会の従業員が行き来するのだ。
リュナの側にいるのは二人。
一人は、父レイヴンの秘書──ロイ・カーベル。
十八歳とは思えぬほど落ち着いた青年で、聡明で真面目。
いつも帳簿を片手にしているが、リュナの前では表情を緩める。
「今日もご機嫌ですね、リュナ嬢」
読み聞かせの声は落ち着いていて、川のせせらぎのように耳に心地よい。
リュナは手足をぱたぱたさせて返す。
ロイは微かに微笑しながら、指を差し出して握らせる。
「……ああ、握力が強くなりましたね。元気な証拠です」
◆
もう一人は五十代のベテラン家政婦――マーラ。
レイヴンの家に長く仕え、この家の“裏の主”とも呼べるほどの存在だ。
「今日も可愛らしいこと、ほら、抱っこだよ」
マーラはおむつ替えも、沐浴も、抱き上げる動作も完璧だった。
その確かな動作は、数十年の経験に裏打ちされた美しさすらあった。
「ロイ、ほら、赤子の抱き方はこう。腰と背中を安定させて――」
「努力はしているのですが……」
「まだまだだね、まったく」
リュナは「ふふ」と声にならない笑みを浮かべる。
この二人の掛け合いは、毎日の楽しみだった。
◆
昼になると、母が工房から戻ってくる。
工房では数名の職人を束ね、手仕事の指導も行っているため、
フェルシアはほとんどの時間をそちらで過ごしている。
今日も手に数枚の布を抱えて帰ってきた。
「見てリュナ、今日染めた布。陽に透かすと桃色が綺麗なのよ」
布を揺らすと、柔らかな色が光を受けて花びらのように見える。
リュナはじっと見つめ、手を伸ばした。
「まあ……この子、布に興味があるの?」
「そりゃあ、奥様に似たんですよ」
マーラが笑うと、フェルシアも目を細めた。
◆
そして、家の主――レイヴンが帰ってくる夕方。
広い玄関の扉が開く音がすると、
リュナは赤ん坊なりに“あ、父だ”と気配でわかった。
書斎で商談の書簡や帳簿に向き合っているレイヴンは、
外回りの日は町へ行き、仕入れや契約をまとめてくる。
商家の主として忙しい日々を送っている。
だが、リュナを抱く腕だけは驚くほど丁寧で、温かくて、慎重だった。
「ただいま。……おや、今日も元気だな」
リュナは無意識に手を伸ばす。
父はその小さな指に触れ、目じりをわずかに下げる。
「商会で、茶葉の新規契約を結べそうだ」
「まあ、また一歩ね」
フェルシアの声に、リュナも嬉しそうに笑った。
「リュナも喜んでいる。私たちにとっては、それが一番の励みだな」
◆
夜。
マーラが帰り、ロイが書斎でレイヴンと仕事を始めると、
家の中は静けさを取り戻す。
フェルシアが優しく子守歌を口ずさむと、
リュナはその胸の中でゆっくりと眠りに落ちた。
布と木の匂い、工房の音、父母の声、
ロイの穏やかな話し方、マーラの優しい手。
――この家が好き。
そんな思いを抱きながら、リュナは静かに眠った。




