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優しさに包まれたなら

 ――泣き声。

 それは自分のものだと、なずなはぼんやり理解した。


 暖かい。柔らかい。包まれている。

 光の世界から、急に狭くて温かな世界に移ったことを、感覚だけが先に教えてくれる。


 「……おめでとうございます、元気な女の子ですよ!」


 知らない声だった。けれど、なずなは涙の続きのように、小さく声を漏らした。

 この声は、怖くない。


 ぐっと抱き寄せられる。

 頬に触れたのは、犬の頃には感じたことのないほど繊細で滑らかな手のひらだった。


 「……あなたが、私の子……?

 なんて、なんて……可愛いの……」


 優しい女の声。

 震えている。嗚咽を堪えている。

 初めて見る“母”という存在の温度だった。

 犬の母は覚えてはいない。


 なずなは、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 まだ視界はぼやけ、形も色も曖昧だったが、月明かりのような淡い銀髪が揺れているのだけはわかった。涙で濡れた瞳が、自分を見つめている。


 その瞳は、あの夜に祈った月の光と同じ色だった。


 「フェルシア様、どうか落ち着いて……!

 無事にお産を終えられたのです。母子共に健康、それが一番の奇跡でございます」


 「ええ……ええ、本当に……。ありがとう……ありがとう、私の子……」


 フェルシア――。

 おそらく、この女性が自分の新しい母なのだろう。


 なずなはかすかに手を伸ばそうとする。

 赤子の小さな指はぎこちなく動き、フェルシアの頬に触れた。涙の温度を感じる。


 ――……ああ。

 ――これが、“人としてのはじまり”なのね。


 その感動を伝えたいのに、赤子の喉はうまく言葉を紡げない。

 かわりに、フェルシアの胸に顔を埋めるように寄り添った。


 「……ふふ、甘えん坊ね。

 大丈夫よ。これから、ゆっくり……たくさん甘えていいのよ……?」


 その声は、どこか夏美に似ていた。

 少し慌てて、泣き虫で、でも底抜けに優しい。


 ふと、部屋の奥から足音が聞こえた。


 「フェルシア! 無事と聞いて駆けつけたが……!」


 低く落ち着いた声。

 次の瞬間、視界が影に覆われる。大きな影がフェルシアの横に膝をついた。


 「……なんと、美しい子だ……」


 目を細め、驚きと喜びを噛みしめるように呟く男性。

 フェルシアと似た銀髪だが、瞳は深い碧色をしている。


 ――この人は……正史のよう。


 表情は不器用だけれど、言葉の奥にある愛情ははっきり伝わった。


 「あなた……この子の名前、もう決めていたでしょう?

 私……聞きたいわ」


 「ああ……。

 月の加護を受け、星の巡りの中に生まれた子。

 ならば――」


 静かに、丁寧に、父は告げた。


 「――リュナ。

 “月に愛された者”という意味だ」


 リュナ。

 新しい名前。新しい人生。


 その響きは、胸の奥にすんなりと溶けていった。


 ――リュナ。

 ――これが、私の“人としての名前”なのね。


 フェルシアが柔らかく微笑む。


 「ようこそ、私たちの娘……リュナ。」


 その言葉を聞いた瞬間、なずな――いや、リュナの胸に暖かい灯がともった。


 家族の愛を受けて生きてきた犬の心が、

 今また新しい家族の中へ、そっと迎え入れられたのだった。

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