父の努力
リュナが初めて言葉を発してから、数週間が経った。
レイヴンのショックはまだ尾を引いていたが、リュナの口から「父」という音を聞きたい一心で、
彼は書斎で仕事をする合間に「ふぁーざー」「ちちうえ」「とうさま」など、
あらゆる国の言葉で自分を呼ぶ練習をさせていた。
もちろん、リュナは不思議そうにレイヴンを見つめるばかりである。
そんなある日の昼下がり、いつものように庭のブランケットで遊んでいたリュナとカイ。
カイはロイから習ったばかりの受け身を披露し、芝生の上で前転を繰り返していた。
「見て、リュナちゃん!ぼく、もうころばない!」
「か、あ!」
リュナは楽しそうに手を叩く。その輝く瞳は、転がるカイの動きに釘付けだった。
前世で、なずなが走ることをやめて久しい体だったからこそ、
リュナは「動く」という行為に強烈に惹きつけられる。
突然、リュナはカイに向かって手を伸ばした。
そして、ゆらゆらと不安定ながらも、自力で立ち上がった。
「おお!リュナちゃん、すごい!」
カイが歓声を上げる。
フェルシアとマーラ、そして庭の隅で帳簿を読んでいたロイまでもが、驚きと喜びに満ちた表情でリュナを見つめた。
リュナの体はまだ小さく、その一歩は不安定に見えたが、彼女の意識は既に遠くへ向いていた。
* ――走りたい。あの芝生の上を、軽やかに、疲れなんて知らないみたいに!
その瞬間、リュナの足元に、まるで月明かりを集めたかのように、淡い白い光が一瞬だけ宿った。
「わっ!」
リュナはバランスを崩すことなく、カイに向かって一歩踏み出した。
その速度は、生後1年半の赤ん坊の歩き方ではありえないほど軽やかだった。
二歩目、三歩目。
リュナの体は、芝生の上を滑るように、まるで地面の抵抗を受けていないかのように進む。
ロイは思わず声を上げた。
「……速い!まるで、地面の上を滑空しているようです!」
「リュナちゃん、はやいよ!」
カイは驚きながらも、リュナが近づいてきたことに大喜びで両手を広げた。
リュナはまっすぐカイに向かって進むと、彼の胸に小さな頭を預けた。
「か、い……」
抱きしめられたリュナの足元から、白い光は静かに消えていった。
彼女は満足したように、目を細めている。
「すごい!すごいよ、リュナちゃん!」
カイは興奮してリュナを抱きしめた。
周囲の大人たちは、その一瞬の「異常な速さ」を、単に「すごい才能」として片付けることはできなかった。
しかし、リュナが泣きもせず、むしろ満足そうにしているのを見て、安堵の溜息を漏らす。
ただ一人、レイヴンだけは、庭の隅からその様子を凝視していた。
「……あれは……ただの徒競ではない……」
彼は、娘の尋常ではない「一歩」に、異世界から授けられた力を無意識のうちに感じ取っていた。
そして、その日以降、リュナは誰に教わるでもなく、庭の芝生の上を風のように滑るように移動するようになった。
《月華の脚》――彼女の最初のスキルは、誰にも気付かれぬまま、静かに発現したのだった。




