解決編
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ヤオ・ワンから認められることで、僕ははこのままこの寮に住んでいい事になった。
それについては大変喜ばしい事であり、異論をはさむ余地は微塵もない。
しかしそれでも、人と人が関わり合いながら生きていくのにはなにかしら問題が生じるもので、僕がこの寮に住み続ける事で新たな問題が生じてしまった。
いや、問題はずっとあった。
これまで目を逸らし続けてきただけだ。
そしてそれが最悪の形で爆発し、出てきてしまった。どうして僕は後回しにしてしまったのか。
後悔しても、もう遅い。
人間とは本来偽善的な生き物で、たとえ周りから良い人と評価されても、それは根本を見直せばあくまで独善であり、それを独善と認めないの非常に愚かしい事だ。
とはいえ、僕は偽善を否定する気はない。たとえ偽善であろうと、それで救われる人がいるならそれはそれで良い事だろう。
僕が言いたいのは、人間には独りよがりなところがあるという事だ。
人は社会的動物だが、それはあくまでマクロ視点で見た場合の話で、ミクロ視点で見れば人間は所詮独りだという事が、これまで少しでも人間について考えていれば、おそらくは解かるだろう。
そう。人間は所詮、独りなのだ。
だからこそ────、
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「だからこそ…………何だろう?」
気付けば僕はベッドの上でざらついた天井を見ていた。
どうやら僕は眠っていたようだ。
頭が異様に重い。
睡眠が足りてないのだろうか。
ゆっくりと身体を起こし、ぼんやりとした頭で何を考えていたかを思い出そうとする。
だが、思い出せない。
鈍重な頭は夢の記憶を無意識の沼から引きずり出せない。
今までの経験上、そこに沈めばもう二度と浮上する事はないのは分かっている。
底なし沼だ。
僕は、記憶の復元を諦め、部屋を出る。
骸骨のような真っ白な廊下を歩き、洗面所に向かう。
洗面所の鏡には幽鬼めいた男がぎらりとした眼光でこちらを睨んでいる。
僕だ。
一旦、目を離すと、鏡の中の僕から幽鬼みたいな眼光は消え、代わりに愉悦の笑みでこちらを嘲笑ってくる。
…………隙を見せたな? こちらに引き摺り込んでやるぞ…………。
僕は慌てて鏡を見つめ直す。
……やはり気のせいだ。
鏡の中には慌ててこちらを見つめる阿呆な男がいるだけだ。
僕は悪夢を振り払うかのように顔を洗う。ひんやりとした水が肌を突き刺し、意識を覚醒させる。
もう一度、鏡を見ると幽鬼の如き形相は消え、見覚えのあるいつもの顔が映っている。
ただ、心なしかいつもよりも顔色が悪い。
まるで死体のようだ。
鏡の中にいる僕は死んでいるのだろうか。
それとも僕の方が死んでいるのだろうか。
…………思わずため息を吐く。
我ながら悪い冗談だ。
顔を洗い終えたので、次は朝食をとりに食堂に向かう。
その際、誰かを誘おうかと頭の中に四人の顔を思い浮かべるが、誰もピンとこない。
結局、僕は独りで食べる事にする。
大丈夫。人間はいつだって独りだ。
たとえ誰かが隣に居たとしても、それはあくまで幻想。
本質的に人間は孤独なのだ。
外に出る。
外は、曇ってるせいか、夢の中のように薄暗かった。
早朝特有の透き通るような冷たい空気も、今はどこか生温かく、鏡の中の自分が息を吹きかけているような気さえする。
そんな気持ち悪い空気の中を、僕は独りで歩く。
道中は誰ともすれ違わなかった。
まるでこの世には僕しかいないような気分だ。
いくら人間が本質的に孤独でも、それはそれで寂しいモノがある。
食堂に着いた。
流石に食堂には人がいた。
僕はほっと息を吐き、そこでいつものメニューを注文する。
注文後は空席の一つを埋める。
食堂の中は水中みたいに静かだった。
時折、泡のような声が聞こえてくるが、意識を外界から切り離すと声は遠くに離れてくれる。
深海のような空間で食事を取り、そのまま何事もなく食事を終える。
人生のように。
食堂を出る。
さて、これから何処に行こうか。
寮に戻ろうか。それとも図書館に向かうか。
そろそろ授業にも参加したいので、理事長先生に話を聞きに行こうか。
三つの選択肢が頭の中で空転する。
少し迷った挙句、僕は寮に戻る事を選択した。
★
寮に戻ると、鉄の臭いを感じた。
微かだけど、むせ返るような鉄の臭いが鼻腔にこびり付いている。
僕は入り口の前で立ち止まり、当たりを見渡した。
何もない。基本的に人気のない、いつもの光景だった。
僕は、普段なら自室に戻るところを、今日はなんとなく別の方に向かう事にした。
おそらく、臭いのせいだろう。
普段と何かが違うと、こちらも何かしら違う行動をしてしまう。
そうじゃないと異変に適応できないかのように。
扉を開く。
キッチンだ。
キッチンは狭く、料理は作れても、食べる事はできない。入り口も浴場の陰に隠れており、誰かの案内がなければきっと見逃してしまうだろう。まるで隠し部屋みたいな場所だ。
僕はそのキッチンに足を踏み入れ、器具を見渡す。
ここは寮生共用のキッチンで、置かれた器具もほとんど共用だが、いくつかの器具は個人用として並べられてある。その中には包丁がある。
包丁は僕以外五人全員が一本ずつ自分用に置いている。
僕は包丁の置かれた引き出しを開けた。
一本だけ包丁がなくなっていた。
…………鉄の臭いが少しだけ強くなった。
★
キッチンを出て、真っ白な廊下を歩く。
いつもはどことなく薬品臭が漂う廊下だが、今日は何故か鉄の臭いが漂っている。
この臭いはなんだろう。
何があるのだろう。
何が香ってるのだろう。
僕は自室に戻ろうとするが、ふと足を止める。
鉄の臭いが二階から漂ってる気がする。
気のせいだろうか。
いや、たとえ気のせいだとしても、気にはなる。
好奇心というよりも、これは何か別の衝動だ。
誰かに迫られているような圧迫感がある。
どうしようか。
二階に上がるべきか。やめておくべきか。
どうせこの後、用事らしい用事もないので、二階に上がる事はできる。
正直、気は進まない。
だけど何故か、どうしても避けられない気がする。
きっと二階には何かがあるのだろう。
僕は何かに誘われるかのように二階に上がる。
★
二階には人がいた。
彼女だ。
僕の知ってる彼女が二階の廊下に立っていた。
「よぉ」と僕は声を掛ける。
しかし、答えはない。
それで、いつもと様子が違う事に気付く。
纏う雰囲気が妙に重苦しい。
足元の影は何故か若干薄い気がする。
「どうしてこんなところに?」
尋ねてみる。
だが、やはり答えは返ってこない。
死体に話し掛けてる気分だ。
こちらを見つめる彼女の瞳も死体のようだ。
「臭いが……するよな」
「何の?」
ようやく返事が来た。
死体ではなかったようだ。
「鉄の」と僕は答える。「鉄の臭いだな。これは」
「そう」と彼女は言った。
他人事のような答え方だった。
「どうしてだろうな」と僕は言う。
「さあ」と彼女が答える。
「この臭いはどこからきてるんだろうな」
「さあ」
儚く短い応酬が続く。
こんなにも退屈なやり取りであるにも関わらず、彼女はこの場を離れようとしない。
どうしてだろう。
「ああ……」
僕は一旦、天井を仰ぐ。
いつもよりも天井が高く感じる。
二階だからだろうか。それとも僕が縮んでいるからだろうか。
あるいは世界が、僕を矮小な存在だと嘲笑っているからだろうか。
分からない。
分からない。
視線を彼女に戻す。
ひび割れた人形みたいな表情。
死んだ猫のように虚ろな目。
木乃伊の如く乾ききった唇。
彼女は、僕が視線を外す前のままの彼女だった。
何かがおかしい。
どこかが壊れている。
致命的に壊れている。
僕は彼女の後ろを見る。
白い廊下がどこまでも続いている。
日差しのせいでいつもよりも真っ白だ。
行き止まりは然程離れてないのに、色が死体のように真っ白だから、果てなく続いているように見えてしまう。
唯一隔絶されたように浮いた窓も、別空間への入り口のように見える。
そんな真っ白な空間に僕と彼女は二人きりでいる。
二人きりで対峙している。
「…………」
ふと、このまま立ち去ってしまおうかという想いが頭を巡る。
だが、それはできないと僕の中の僕が押し止める。
こんな機会はもう来ない。
この機を逃せば、おそらくもう二度と、彼女を問い詰める事は出来ないだろう。
根拠などない。ただの直感だ。
だけど、間違いないと、そう思った。
それにおそらくだが、彼女もそれについて聞かれる事を望んでいる、となんとなく思った。
これも根拠はない。
だけど、やっぱり間違いないと思った。
こっちは、彼女の雰囲気から察する事ができる。
断罪されたい、糾弾されたい、そう思う気持ちは解らなくもない。
自分に非があると解っているなら猶更だ。
息を吸い、ゆっくりと吐く。
僕は、他人を問い詰める事は得意ではない。
心の中で弾劾する事は得意だが、実際にその想いを表に出す事は非常に苦手だ。
だけど、時にはそうしなくてはならない時がある。
なにもかもなあなあで済ませて逃げてばっかりの僕だけど。
孤独と偽善、それこそが人間の本質だと思ってる僕だけど。
それでも、どこかで責任を取らないといけない時が来る。
「なぁ」と僕は訊ねる。
「どうして、僕の部屋の家具を壊したんだ?」
彼女は少しだけ間を開けて、背筋が凍りそうな声でこう言った。
「…………許せなかったから」
ああ。
「許せなかったから、そうしたの」
「そうか」
やっぱりか。
僕はため息を吐く。
やっぱり彼女が犯人で間違いなかった。
分かっていた事だけど、ショックである。
胸が抉られたように痛い。
他人から悪意をぶつけられた事と、心のどこかで信じてたという想いが裏切られた事。
それらが胸の痛みとして訴えてくる。
辛い。そして苦しい。
できればこれ以上話を聞きたくない。
でも、訊こう。
訊かなければ何も理解できないからだ。
意を決し、僕は訊ねる。
「何が許せなかったんだ?」
彼女は質問に答えなかった。
だが、彼女はこう言った。
「…………この想いは…………恋に……近かったと思う…………」




