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第5話 陽だまりの檻、あるいは楽園

 王都の喧騒から遥か遠く、緑に囲まれた別邸。

 そこが、私の母――コレット・ヨーク公爵夫人の暮らす場所だった。


 病気療養という名目でここに引きこもってから、かれこれ十五年近くになるだろう。庭園には色とりどりの花が咲き乱れ、まるでここだけが世界の時間の流れから切り離されたかのように静かだった。



「あら、アナスタシア。よく来てくれたわね」


 出迎えてくれた母は、驚くほど若々しく、そして美しかった。


 白を基調とした可憐なドレスを纏い、ふんわりと微笑む姿は、三十代半ばを過ぎたとは到底思えない。公爵夫人に求められる夜会の重圧も、貴族派からの冷ややかな視線も、すべて王都の公爵邸に置いてきた彼女は、この陽だまりの檻の中で、今も純粋な少女のまま守られていた。



「お久しぶりです、お母様。お元気そうで安心いたしました」


「ええ、とても元気よ。ここは空気が綺麗だし、嫌なことも、難しいお仕事も何もないもの。……ねえ、それより聞いて。フランソワ様がね、先月、私の大好きな紅茶を贈ってくださったの。私のことをいつも気にかけてくださるのよ。本当に、優しい旦那様」


 母は嬉しそうに頬を染め、父から届いた贈り物について語り出した。



 その様子を、私は冷徹な目で見つめてしまう。


 父が贈り物をするのは、愛しているからではない。王都で公爵としての激務と義務を一人で背負い、妻をこの地に放置していることへの「罪悪感」の裏返しなのだ。けれど母は、その本質に気づかない。いいえ、気づきたくないのだろう。



「お母様。私はもうすぐ学園を卒業し、マクス殿下との婚姻を控えています」


「まぁ、王太子殿下と……。大変ね。王妃様になるなんて、きっと息が詰まってしまうわ。私はフランソワ様と結婚して、公爵家という場所がどれほど恐ろしいか知ったもの。身分の高い方々からのいじめや、冷たい視線……思い出すだけで胸が苦しくなるわ」


 母は可哀想に、と私の手を握った。その手は白く、柔らかく、何一つ労働の苦労を知らない手だった。



「お母様は、お父様と『真実の愛』で結ばれて、後悔していらっしゃるのですか?」


 私の問いに、母は大きく首を振った。



「まさか! 後悔なんてしていないわ。フランソワ様との恋は、私の人生のすべてよ。学園の裏庭で、二人で身分を隠して語り合ったあの頃……。彼は私のためなら、爵位も家も捨てるって言ってくださったの。あの方に愛された記憶があるから、私は今も生きていけるのよ」


 母はうっとりと目を細め、十五年前の、楽しかった思い出話を始めた。


 何度も聞いた話だ。母の時間は、あの学園時代、父と大恋愛をしていた輝かしい過去のままで止まっている。現在の冷え切った夫婦関係という「現実」から目を背け、過去の記憶という名の(麻薬)に依存して生きているのだ。



「お母様。お父様は今、一人で公爵家を支え、限界を迎えていらっしゃいます。お母様が王都に戻り、公爵夫人としての義務を果たし、お父様を支えようとは思わないのですか?」


 私が核心を突くと、母の顔からサッと血の気が引いた。怯えたように私の手を振り払い、涙を浮かべて首を振る。


「無理よ、アナスタシア! 私はあんな恐ろしい場所には戻れないわ。王都の貴族たちは、今でも私を『身分違いの低俗な女』だと、目で殺そうとするもの。あそこに戻ったら、私は壊れてしまう……。フランソワ様だって、私がここで笑っていることを望んでくださっているわ」



(……逃げているのだ、この人は)


 父を愛してはいる。けれど、その愛に伴う「責任」からは、全力で逃げ出したいのだ。


 公爵家という重圧に潰された被害者。確かにそうかもしれない。けれど、彼女がここで悲劇のヒロインを気取って現実逃避をしている間、その皺寄せはすべて、王都に残された父と、そして娘の私にきている。



 そんな私の冷ややかな視線に気づくこともなく、母は名案を思いついたように、パッと表情を輝かせた。


「そうだわ、アナスタシア! 良い方法があるの」


「……何でしょうか」


「あなたが王太子殿下と結婚したら、ヨーク公爵家の跡継ぎは、親戚の遠縁から優秀な子を養子に迎えればいいのよ! そうすれば、お仕事はすべてその子がやってくれるでしょう? フランソワ様も公爵の義務から解放されて、この領地で私と二人、昔みたいに仲良く暮らせるわ! ね、素晴らしい考えでしょう?」


「――――っ」


 あまりの気楽な言葉に、私は眩暈がした。



 血を吐くような思いで家名を繋いできた父の苦悩も、自分が産んだ娘である私への母親としての責任も、彼女の頭の中にはこれっぽっちも存在しないのだ。ただ「自分が楽になりたい」「旦那様と二人で夢の続きを見たい」それだけ。


 愛とは、これほどまでに人を盲目にし、傲慢に、そして無責任にするものなのか。

 純粋すぎる愛は、現実を生きる力を奪う病なのだ。



「お母様」


「なぁに、アナスタシア?」


「……お体のために、どうぞこれからも、この《《静かな別邸で、お一人で》》健やかにお過ごしください。王都のことは、すべて私とお父様で片付けますので」


「ええ、ありがとう。本当に頼りになる良い子ね」


 母は満足そうに微笑み、再び庭の薔薇へと目を向けた。



 私はもう、この陽だまりの(楽園)に用はなかった。

 踵を返し、一歩も振り返ることなく別邸を後にする。



 五人の先人に問いかけた、私の『愛の検証』は、これで全て終わった。

 


 お伽話のハッピーエンドの正体を、私は知った。


 熱病に浮かされた両親の成れの果て。一人は義務と罪悪感に押し潰され、一人は過去の夢の中に引きこもり、完全に壊れてしまった二人の姿。



 馬車に揺られながら、私は己の胸に手を当てる。

 そこには、マクシミリアンから贈られた、不器用な温もりの記憶が残っていた。



(私は、お母様のように愛に溺れて現実を捨てたりしない。お父様のように熱病に狂って身を滅ぼしたりもしない)



 不確かな(お伽話)はいらない。

 私は、私だけの足で立ち、マクスと『新しい時代の関係』を築くのだ。


 王都へ戻る馬車の窓から見える空は、いつの間にか、私の瞳と同じ、深い夜の色へと変わり始めていた。



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