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第三話 静かに増えるもの ③

 昼過ぎ、サービスカウンターから内線が鳴った。


「副店長、お客様から鮮魚の問い合わせが入ってるんですが、田原さんが見当たらなくて」

「分かった、今行く」


 売り場に出ると、水産コーナーに田原の姿がなかった。

 バックヤードを確認し、作業場を見て回ったが、どこにもいない。


 従業員用の裏口を開けると、駐車場の端にある屋根付きの喫煙所が見えた。

 田原がいた。

 パイプ椅子に深く腰を落として、煙草をくわえている。

 火はついていた。

 しかし煙草は半分以上灰になっていて、灰が落ちそうなのに気づいていない。

 目が虚ろで、どこか遠くを見ていた。


「田原さん」

 反応がない。

「田原さん」

 もう一度呼ぶと、ゆっくりこちらを向いた。

 焦点が合うまでに、少し時間がかかった。


「……あ、副店長」

「お客さん来てるよ。鮮魚の問い合わせ」

「そうですか」

 立ち上がる気配がない。

 煙草の長い灰が、床に落ちた。


「田原さん、聞いてる?」

「聞いてます」

 田原はゆっくり立ち上がった。

「すみません、少し……ぼーっとしてました」


 歩き始めた田原の横に並んで、顔を覗き込んだ。

 顔色が悪かった。目の下に濃い隈がある。


「最近、眠れてる?」

「眠れてます」

「ほんとに?」

 田原は少し間を置いてから答えた。


「夢を、よく見るんです。最近」

「どんな夢?」

「店の夢です。閉店後の店内にいる夢。誰もいないのに、音がするんです。品出しをするような音が、ずっと」

 私は何も言えなかった。

「早く逃げないといけないと思うんですけど」

 田原は独り言のように続けた。

「足が動かなくて。毎晩同じ夢で」

「田原さん」

「すみません、お客さんのとこ行きます」


 田原は先に歩き始めた。

 その背中を見ながら、喫煙所の出口で足を止めた。

 パイプ椅子の上に、吸いかけの煙草が灰皿の縁に置かれたままだった。

 まだ、かすかに煙が上がっていた。

 ◇

 その日は珍しく、定時に上がれた。

 店長が午後から機嫌が良く「今日は早く帰っていいぞ」と言った。

 月に一度あるかないかのことだった。


「副店長、今日早いじゃないですか。せっかくだから今日飲みませんか?」

 レジの市川さんが声をかけてきた。

「飲みに?」

「駅前に新しい店ができたんですよ」

「青果の篠崎も呼ぼうか?」

「えー、彼ちょっとウルサイから」

「じゃあ二人で」

 市川さんは笑った。

 断る理由が見つからなかった。

「じゃあ、七時に現地で」


 帰宅すると、リビングに明かりがついていた。

 キッチンから、何かを煮る匂いがした。


「おかえり」

 妻が顔を出した。エプロンをしていた。

 妻は「早いね」と言った。

 その声が、少し違った。いつもより、明るい。


「今日は早く上がれて」

「ご飯、作ってるところだよ」

 妻はキッチンに戻った。鍋をかき混ぜる音がした。

 着替えをしているとキッチンから、妻が声をかけてきた。


「今日、何か食べたいものある?」

「……ごめん、ちょっと出かけないといけないかも」

 しばらく、キッチンから返事が聞こえなかった。

「そう」

 一言、それだけだった。

「仕事の付き合いで。一時間くらいで帰るから」

「うん」

 キッチンを覗くと、妻は鍋の方を向いたままだった。

「じゃあ、行ってくる」

「うん」


 結局、家に戻ったのは深夜だった。

 玄関の電気が消えていた。

 リビングも暗かった。

 テーブルの上に、ラップをかけた皿が一つ置いてあった。

 スマホを確認すると、妻からLINEが来ていた。

 最初のメッセージの送信時刻は、私が家を出た直後だった。


「ご飯、置いておくね」

 次は十時過ぎだった。

「もう寝る」

 最後の一件だけ、送信時刻が十一時を過ぎていた。


「今日、誕生日だったんだけど」

 私はしばらく、その文字を見ていた。


 誕生日。

 思い出せなかった。

 正確には、今日まで頭になかった。


「ごめん、気づかなかった。おめでとう」

 送信した。既読がついた。返信はなかった。


 テーブルのラップをかけた皿を見た。

 剥がして中を確認した。

 私の好きな煮物だった。冷めていた。

 電話しようとして、やめた。

 寝ているなら起こすのも悪いと思った。

 明日、ちゃんと謝ろう。

 そう思いながら、冷めた煮物を少しだけ食べた。悪くない味だった。

 残りにラップをかけて、冷蔵庫に入れた。

 ソファに座って目を閉じた。

 市川さんと何を話したか、もう半分くらい忘れていた。楽しかった気がした。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

続きが気になった方は、ぜひ次の話もお楽しみにしてください。


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