第二話 ズレていくもの
園原さんのタイムカードの件が気になり、警備会社の記録も確認したが、昨夜の最終退出は私だけだった。
誤作動だろう。
そう結論づけて、カードをラックに戻した。
◇
その後、作業に戻ろうとしたとき、バックヤードの搬入口から配送トラックのエンジン音が聞こえた。朝の納品だ。
シャッターを開けると、配送運転手の松本さんが、パレットを押しながら入ってきた。
顔見知りの五十代の男で、毎朝ほぼ同じ時間に来る。
「おはようございます。今日も暑いですね」
「ほんとに。もう勘弁してほしいわ」
松本さんは手際よく荷物を降ろし始めた。
私は納品書を確認しながら、ふと気づいた。
今朝、松本さんのトラックが駐車場に入ってくるのを遠目に見ていたが、以前と違うルートを通っていた。駐車場の端、神社の前を避けるように、大回りをして搬入口に着けていた。
「松本さん、今日は遠回りしてきましたよね」
「ああ」
松本さんは手を止めずに答えた。
「あそこ、通らないようにしてるんだよ。神社の前」
「なんでですか?」
「なんとなく。ずっとそうしてる」
それ以上は説明しなかった。
後ろから青果パートの篠崎が割り込んできた。
二十一歳のフリーターで、こういう話には妙に食いついてくる。
「あー、あの神社ですか。縁起悪い場所らしいっすよ、あそこ。じいちゃんがなんか言ってたっす」
「何て言ってたの?」
「え、なんだっけ。あんま覚えてないっす。近づくなとか、そんな感じじゃないっすかね」
篠崎はそれだけ言って、興味をなくしたようにスマホを取り出した。
松本さんはもう話題を切り上げて、黙々と荷物を運んでいた。
私は納品書に目を戻した。
◇
午前10時を過ぎた頃、見切りシールのストックを取りに、倉庫へ向かおうとしたその時、事務室の奥からパチパチとキーボードを叩く音が聞こえた。
「あれ、副店長、ちょうど良かった」
経理の女性が怪訝な顔で画面を見つめたまま振り返る。
「日配の園原さん、今日もお休みですよね?」
「ああ、無断欠勤みたいなんだ。どうかした?」
「それが、おかしいんです。給与計算システムに何かバグが出てるみたいで。ほら、見てください」
示された画面には、従業員ごとの当月の勤務時間がリアルタイムで表示されていた。
「園原」の欄の【総勤務時間】が、まるでストップウォッチのように、現在進行形で加算され続けている。
「システムを再起動しても、本部に問い合わせても『こちらでは正常に作動しています』って言われるんです。まるで、園原さんがどこかで、ずっと働き続けているみたいに……」
静まり返った事務室に、PCのファンの音だけが響いていた。
「……様子を見て、また報告してください」
それだけ言って、私はその場を離れた。
バックヤードに戻りながら、頭の中で整理する。
タイムカードの誤作動。給与システムのバグ。
どちらも古いシステムならあり得る話だ。重なっただけだ。
そう自分に言い聞かせるように、頭の中で繰り返した。
◇
その日の夕方、5時40分。
「今日はこの後、私用があるから先にあがるね。おつかれ~」
店長は毎日同じセリフで、定時前には帰宅する。
閉店時間まで店にいた、ためしがなかった。
店長の車は、いつも従業員用駐車場ではない場所に停められている。
神社から、もっとも離れた位置だった。
小柄な彼の体に合わない大きな高級車に乗り込む姿が、事務所の窓からいつも見えていた。
私は、小さなため息をついた。
入れ替わるようにして、夜間店長の黒崎さんが出勤してきた。
「お疲れさん。園原さん、まだ連絡ないの?」
「ないんですよ。それで、タイムカードにおかしな打刻が」
事情を説明すると、黒崎さんは少しだけ表情を変えた。
眉が、ほんのわずか寄った。
しかしすぐにいつもの穏やかな顔に戻り、一言だけ言った。
「システムのことは本部に任せなさい」
「でも……」
「任せておきなさい」
それ以上は何も言わなかった。
黒崎さんがそれ以上話さないときは、話が終わったということだ。
私はそれを経験で知っていた。
◇
閉店間際、田口チーフがサービスカウンターから私を手招きした。
「副店長、少しよろしいですか。最近、変な客が多すぎるんですよ」
「変な客?」
「毎晩、閉店間際に来る三人なんですけど」
田口さんが説明するには、ここ一週間ほど、閉店の三十分前になると決まって三人の客が来るという。
中年の男、中年の女、若い男。
バラバラに入店し、それぞれ買い物をして、別々のレジに並ぶ。
「別におかしくないんじゃ……」
「いつも同じものしか買わないんです。一度も変わったことがない」
その夜、私は閉店間際に売り場に出て、三人を遠目に確認した。
中年の男は迷いなく調味料の棚へ向かい、荒塩の袋を手に取った。
次に雑貨売り場へ行き、白い小皿を一枚カゴに入れた。
それだけでレジへ向かった。
中年の女は惣菜コーナーで、陳列された商品を一つひとつ丹念に裏返して確認していた。
一番人気の「おすすめの惣菜」だ。
製造時刻を見ているようだった。
最終的に、何かを納得したパックだけをカゴに入れ、レジへ向かった。
若い男は何もカゴに入れずに売り場を歩いていた。
青果、水産、精肉、日配、ドライ。一定のルートを、一定の速度で歩いている。
バックヤードへの扉の前で、三秒だけ足を止めた。
耳を澄ますように、わずかに首を傾けた。それから、また歩き始めた。
レジには空のカゴを置いて帰った。
チェッカーの女性が、閉店後に私のところへ来た。
「副店長……あの三人のこと、少しいいですか」
「うん、どうぞ」
「あの人たちが買うもの、前から気になってたんですけど。今日やっと分かったんです」
彼女は少し声を落とした。
「合わせると、お供え膳になるんです。荒塩と白い皿、お惣菜。全部、仏前に供えるものじゃないですか」
私は返事ができなかった。
「それに……若い男の人、何も買わないのに毎晩来て。あの人、いつも同じ場所で立ち止まりますよね。バックヤードの扉の前」
「うん」
「何かを聞いてるみたいで。扉の向こうに、誰かいるみたいに」
「……気のせいだよ。気にしすぎ」
私はそう言って、話を終わらせた。
◇
その夜も、黒崎さんの当番日だった。
「……あとは任せなさい。今夜は早く帰りなさい」
彼の言葉にもかかわらず、私は店に残っていた。
全員が帰ったことを確認し、事務所にある防犯カメラのモニターに目を向ける。
おもむろに機材を操作し、録画データを開く。
昨夜の映像だ。
早送りで確認していくと、午後十一時十二分に私が退出する映像が映った。
その後、店内は無人になる。
午前二時十四分。
ロックされているはずの、自動ドアが開いた。
私は再生速度を落とした。
ドアが開いている。
しかし映像には誰も映っていない。
風が吹き込んだわけでもない。
ドアは数秒開いたままになり、それから静かに閉じた。
カメラの角度を床に向けると、床に点々と、濡れた跡があった。
足跡だった。
神社の方角から来て、バックヤードの扉の前まで続き、そこで、消えていた。
私はモニターの前で、しばらく動けなかった。
再生を止めた。
椅子の背もたれに体を預け、天井を見た。蛍光灯がチカチカと瞬いていた。
「エラーだ。カメラの映像処理のエラーだ」
一人、そう呟いた。
声に出すと、少しだけ落ち着いた。
電源を落として、事務所を出た。
◇
深夜に帰宅すると、リビングの電気が消えていた。妻がソファに座っている。電気もつけず、スマホも見ていない。ただ座っていた。
「ただいま」
「おかえり」
「もう寝てていいのに」
「うん」
それだけだった。
着替えながらスマホを確認すると、妻からLINEが来ていた。
送信時刻は午後九時過ぎだった。
「今日は風が強いね」
「そう?」
と返信しようとして、気づいた。
今日、店の周りには風がなかった。朝も夜も。
私は少し考えてから「そうだね、気をつけて」と送った。
既読はついていた。
返信はなかった。
リビングを覗くと、妻はもうソファにいなかった。寝室に行ったらしく、ドアが閉まっていた。
私はキッチンで水を一杯飲んで、ソファに座った。
目を閉じると、床の足跡が瞼の裏に浮かんだ。
神社の方角から来て、バックヤードの扉の前で消えていた足跡が。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
続きが気になった方は、ぜひ次の話もお楽しみにしてください。
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