第一話 蒸し暑い朝
みんな、おいでよ。
ニコニコマート北惢森山店は、どこにでもあるような、普通のスーパーマーケットです。
品出しをして、レジを打って、朝礼で挨拶をする。それだけの、なんでもない毎日。
ただ、駐車場の隅にだけ、小さな神社があります。
誰も由来を知らない、小さな神社が。
――さあ、あなたもどうぞ。
(※閲覧注意:バッドエンド、後味の悪い展開を含みます)
園原さんは、その日から二度と出勤しなかった。
財布も。
スマートフォンも。
着替えも。
すべて店のロッカーに残したまま。
それでも給与システムの勤務時間だけは、今も増え続けている。
まるで、どこかで働き続けているかのように。
いや、どこかではない。私は今では、その場所を知っている。
今日も、いい朝だ。そろそろ、品出しを始めなければ。
私はもう、帰りたいとは思わない。
◇
あの日の朝は、やけに蒸し暑かった。
奇妙なことに店の周りだけ、風が一切ない。
木々の葉も揺れていない。
私は、いつもの位置に車を止める。
白線がかすれて、アスファルトもボロボロの駐車場。
車のドアを開けると、湿った空気が肌にまとわりついた。
このスーパーマーケットの駐車場の隅には、なぜか、小さな神社がある。
私はみどり色のフェンスに囲われた神社の前を横切り、従業員用の入口の前で鍵を取り出す。
店の警備システムを解除してバックヤードの鍵を開ける。
後ろから、青果担当の社員、岸谷がこちらに向かってくるのが見えた。
彼はいつも神社の前を通るとき、無言で鳥居に深く会釈をする。
理由は聞いたことがないが、それが習慣のようだった。
タイムカードを押してから、シャッターを開け、荷受けの準備を始める。
いつもの朝が始まる。
◇
午前7時30分。
「おはようございます。今日は朝から気持ちの悪い暑さだね」
出勤してきたパートの市川さんに挨拶をする。
「ほんとですよ、副店長。今日はドライの飲料がたくさん入荷するのに、この暑さじゃ作業だけで死にそうで」
市川さんはエプロンの紐を結びながら、うんざりした顔で空を見上げる。
「熱中症に気をつけてね」
開店前の店内は、照明がほとんど落ちたままだ。
冷蔵ケースの機械音だけが低く響いている。
ストアコンピュータで昨日の売上を確認した後、作業に取り掛かる。
薄暗い売り場に置かれたカゴ車から日配品を下ろし、検品をしていると、後ろから声をかけられた。
「おはようっす。ああ、帰りたい」
水産の田原だった。
いつも通りの半目で、作業着のポケットに手を突っ込んでいる。
「おはようございます。やる気出していきましょうよ」
「今日もどうせ店、暇だろ。気合なんか入らないよ」
そう言って田原は、やる気なさそうに、水産の作業場へ消えていく。
その背中を見送りながら、私は小さくため息をついた。
品出しを再開して十分も経たないうちに、遅めの出勤をしてきた店長が声をかけてきた。
コーヒーカップを片手に、エプロンもつけていない。
「おい、副店長。園原さんがまだ来てないらしいぞ」
日配担当の園原さんが無断で遅刻するとは珍しい。
几帳面な彼女が連絡もなしに、というのが少し引っかかった。
「そうなんですね。日配は私が品出しします」
「うん。頼むね」
店長はそれだけ言って、店長室に入っていく。
どうせ新聞を読むだけなら、手伝ってほしいのに。
その背中を見送り、作業を続ける。
「……じゃあ、納豆と豆腐から片付けるか」
また、小さくため息をつき、園原さんがやるはずだった品出しを始めた。カゴ車から冷たいパックを引っ張り出し、冷蔵ケースに並べていく。
冷蔵ケースの機械音に混じって、バックヤードから青果の岸谷が黙々とコンテナを運ぶ音や、精肉パートの女性のくすくす笑う声が微かに聞こえてくる。
いつもと変わらない朝だった。
午前8時50分。
朝礼の時間になると、スタッフがぱらぱらと店長室の前に集まってくる。
店長の要点の掴めない話のあと、私が連絡事項を伝える。
レジチーフの田口さんの号令で、接客五大用語を復唱する。
皆、声が小さく、私と田口さんの声だけが虚しく響いた。
◇
午前9時。
開店の放送が流れる。
自動ドアのロックが解除され、チカチカと頼りない蛍光灯の下で営業が始まると、朝いちばんにいつものおばあさんが一人だけ入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「おはよう。今日は朝から蒸し暑いね」
いつも通りの会話をしながら、頭の隅では園原さんのことが引っかかっていた。
遅刻している彼女からの連絡はまだない、このまま欠勤だろうか。
最初の異変に気づいたのは、午前11時を回った頃だった。
「あの、副店長……ちょっといいですか?」
サービスカウンターから声をかけてきたのは、レジチーフの田口さんだ。
心なしか、顔が青ざめて見える。
「どうしたの?」
「さっき、園原さんのロッカーから携帯の音がするから、確認してみたんです。そしたら……」
彼女はバックヤードの女子更衣室を指さした。
促されて行ってみると、園原さんのロッカーは鍵がかかっておらず、隙間が少し開いている。中を覗くと、私服、通勤用のバッグ、財布の入ったポーチまでがそのまま残されていた。
「荷物は全部あるんです。でも……名札だけがないんです。いつも制服の胸ポケットに挿したままにして帰るはずなのに、どこを探してもなくて」
名札はともかく、几帳面な園原さんが財布もスマホも置いたまま帰るはずがない。
背中に、朝の蒸し暑さとは違う冷たい汗が伝った。
「……とりあえず、店長に報告してくる。園原さんの家にもう一度電話してみて」
店長のもとへ向かい、事情を説明した。
店長室の前にいた店長は、面倒くさそうに眉を寄せた。
「まあ、何か事情があるんじゃないの。家族に連絡取れたら教えて」
「でも財布もスマホも、警察に連絡した方が……」
「大げさだよ。すぐ戻ってくるって」
店長は続ける。
「それより、園原さんこのまま無断欠勤だとレジのシフトに穴が開くぞ。明日も来る保障はないし。調整はお前の方でやっておけよ」
店長はまくし立てた後、コーヒーカップ片手に、冷房の効いた店長室に戻っていく。
「まったく! なんなのあの店長は?」
やり取りを見ていた、レジパートの市川さんが、文句を言い始める。
「ほんと、何の役にもたたないんだから」
通りかかった水産のパートの野崎さんも同調し、店長の悪口で盛り上がりはじめる。
「あなた達、おしゃべりしてないで仕事にもどりなさい」
レジチーフの田口さんが注意をすると、ふたりはそそくさと持ち場に戻っていく。
私は場を離れて、一人で園原さんの携帯に電話をかけた。
ロッカーの中で、着信音が鳴った。
店の気だるい雰囲気に呑まれて、私は流されていく。
その日は結局、閉店まで園原さんから連絡がなかった。
◇
夕方六時を過ぎると、バックヤードの勝手口から夜間店長の黒崎さんが入ってきた。
自前のエプロンを手に提げ、いつものように穏やかな顔をしている。
「お疲れさん。今日は暑かったね」
「黒崎さん、ちょうど良かったです」
園原さんのことを話すと、黒崎さんは少しだけ表情を変えた。
しかしすぐにいつもの顔に戻り、一言だけ言った。
「そうか。……あとは任せなさい。今夜は早く帰りなさい」
この店で唯一、そう言ってくれる人だった。
しかし私は帰れなかった。園原さんの件が頭から離れず、閉店後も事務所に残って書類を整理した。
警察への相談を検討したが、大人の失踪を一日で届け出ても、すぐに動いてもらえるかは分からない。
明日も連絡がなければ、その時は……。
気づくと、時計は午後十一時を指していた。
駐車場に出ると、湿った夜気が体にまとわりついた。
朝と変わらない空気だった。やはり、風がなかった。
歩きながら車のキーを探していると、ふと目が止まった。
駐車場の隅、フェンスに沿って植えられた低木の向こう。
店の敷地の端のフェンスの向こうに、小さな鳥居が立っている。
いつもは気にも留めないその神社の前に、何かが置いてあった。
近づいてみると、見覚えのある布製のトートバッグだった。
園原さんが通勤に使っているバッグに似ている。
バックの持ち手には、彼女が好きだったキャラクターのキーホルダーも付いていた。
そのバックが、鍵で閉じられている、フェンスの向こう側の神社にぽつりと置いてある。
バッグの持ち手は土に触れておらず、鳥居の前の平らな石の上に、丁寧に置かれていた。
私はしばらく動けなかった。
誰かが、フェンスを開けて置いたのか?
私は、その場から離れ車に乗った。
エンジンをかけながら、スマホを見ると妻からLINEが来ていた。
「今日も遅いのね」
「ごめん、いろいろあって」
既読がついた。
しばらくして、返信が来た。
「いろいろって、いつもいろいろだね」
返す言葉が見つからないまま、アプリを閉じた。
◇
翌朝、出社すると駐車場の隅の神社へ目をやった。
バッグは消えていた。
鳥居の前には、白い小皿だけが置かれていた。
一つまみの塩が、丁寧に盛られている。
フェンスの鍵は、閉まったままだった。
私は一分ほどその場に立っていた。
それから店内に入り、いつも通りタイムカードを押す。
ふと、カードラックから園原さんのタイムカードを引き抜いて確認する。
今日の日付の列に、打刻があった。
昨日ではなく、今日?
AM 02:15 出勤
違和感に鳥肌が立つ。
昨夜、閉店後に残っていたのは私だけだった。
私はしばらくそのカードを見つめていた。
この日も、店の周りには風がなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
続きが気になった方は、ぜひ次の話もお楽しみにしてください。
【作者からのお願い】
もし「設定が面白そう!」「続きを読んでみたい」と少しでも思っていただけましたら、画面下部にある【ブックマークに追加】をポチッと押していただけると非常に励みになります!
あなたのブックマーク一つが、この作品がランキングに載るための大きな力になります。
どうぞ応援よろしくお願いいたします!




